猫の耳は上についてる

断捨離というものが流行しているね

私がそうして書いてみれば
読んだあなたは
それが流行しているとインプットされた

そのように連鎖するのが
因縁生起といわれるものだ

だが根源はどこなのだろう
つまり断捨離の発案者
それは確かにいる

著書を出した人かもしれないし
その人の母親かもしれない
じゃあその母はどこでそれを学んだのだろう?
テレビかもしれないし
マンガかもしれない

何にしろ
すべては起因らしい起因に繋がり
その先を突き詰めていけば
「断捨離」という名の行為そのものは
どんどんぼやけてくる

まるで霧のようなもの
くっきりとは見えないけども
それっぽい何かはあるにはある

そしてその逆側
つまり断捨離のなれの果て、未来の側だ
そちらもやはりぼやけている
だがそれっぽい余韻は残っている

こんな感じで何事も概念のピークがあって
そのピーク以外は
別の概念だったわけだ

こうしてもともと違った何かが
別の角度からフォーカスされて
新しい価値が生まれる

そのように物事を考えていくと
あなたも
あなたの身の回りも
あなたの人生も
そのすべてが可能性を秘めていることがみえてくる

すべては霧のなかにぼんやり現れてきて
そして常にいまがピークにくっきり浮かんでる
いまを過ぎたものは霧のなかにまた消えていく

過去のあなたは
いまのあなたを生んだが
しかしそれは過去のあなたではない

未来もまた同じ

私たちは言葉のなかに現れ
独自の意味を形作る
だがその意味とはあなただけのものであり
それゆえにあなたの自由なんだ

いいかい
私たちは生きている

家の近所の公園で暮らしてる
野良猫たちは今日も元気で
たくましく生きていた

それはあなたも私も仏陀もイエスも同じ

少しばかり「心の世界」を知っている人は
それに囚われない方法を知っているに過ぎない

たとえば昔と同じ事をしても
いまいち盛り上がらなかったのに
懐かしい音楽を聴くだけで
気持ちは当時に戻ったりする

つまり物事そのものではなく
何かを見落としていることがわかる

だからあなたが若い気持ちでいたいなら
その頃のハートを取り戻せばいい

あの頃何がしたかった?
それを”そのまま”いまやればいいんだよ

あなたの人生には
あなたしかいないのだから
ぜひやるべきだ

死を間近にした人は必ず同じことを言う
「好きなことをやりなさい」

そして何がどう転がろうが
どうとでもなる
それが人生だとね

それは真理だろう
なぜなら彼らの明日はもうなにもないのだから

だから何も不安になる必要もないし
失敗すら成功だ
こんなに楽しいものはない

楽しめないなら
日頃から握っている何かを手放すことだ

その”屁理屈”を捨てない限り
あなたはネガティブになる
自殺を考える

くだらない

どうせ死んでもまたやってきて
“涅槃の書”を読んでいるだけなのだから
好きに生きること

そのためにあなたはここにあり
そのためにこの世界がある

あなたが見て
あなたが聞いて
あなたが触れる

そういう生き方をはじめなさい

相手の視線とか
こう思われてるんじゃなかろうかとか
そういう迷いを超えること

つまり相手や物事に見られるのではなく
あなたからそれを見るんだ

ならばあなたの人生は変わる

私もやりたいことをやって生きている

たくさんの親しい人の死をみてきたが
そこから学んだのは
悲しみとか感傷とかではなく
私もいずれ死ぬということだ

実に当たり前でくだらないことだが
私たちの自我はその最大の教えを退けてしまう
たとえば今日あなたは
どれだけの後回しをしただろう?

やりたいようにやりなさい

 

 

 

 

 


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  1. take より:

    やりたいようにやる時
    時々金がちらついて出来ない時がある

    ブランド物がかわいいと思っても買えないと思っているから
    買おうという気すら起きない

    明日死ぬと思えば、世界は軽く輝いてた
    エゴが死んだ
    でも美人に声は掛けないし、ブランド物は買わない

    これは何なのだろう?

    • 涅槃の書-自分 より:

      takeさん

      とてもよい問答だ。そうして現実の解決を探し続けるのではなく、自らに問うことを習慣にしよう。それこそが現実の解決につながる。

      ──

      明日死ぬと思えば、世界は軽く輝いてた
      エゴが死んだ
      でも美人に声は掛けないし、ブランド物は買わない
      これは何なのだろう?

      ──

      それはあえて得る必要がなく、はじめからあなたのものだったと気づいているからだよ。

      “あなたの世界”にそれらは描かれているのだからね。

      死と共にあるとき、生の世界から離れた眼差しを開くことになる。幽体離脱の”報告”とはまさにそのメタファーだともいえる。

      そうして世界に巻き込まれていた自分との同一化から離脱するわけで、つまり自分という「ずっと錯覚し続けていた愚かさ」に気づくんだ。

      愚かさとは、すでに持ってるのに持っていないと思い込んでいたということだね。

      その思い込みが不幸の原因だったんだ。

      だから死を連れて世界が輝いてみえているとき、これまでとは違った”この世の楽しみ方”をみつけなければならない。

      だけどもその楽しみ方こそが、この世がここに現れているその本当の目的を受け取れているんだ。

  2. take より:

    返信ありがとうございます。

    思考との一体化から離れて全体としての私
    いや分離していなかった私に戻る感覚を思い出しているのだと思いますが

    こういった悟りの感覚と意図的に引き寄せる感情を目安とした創造
    がいまいち一致しません。

    全体に戻ると何をするということが愚かしいという感覚になります

    かといって(いわゆる引き寄せの)手に入る感覚を持って情熱的に望む
    というのも楽しいには違いないんです。
    ワクワクします。いいなって思います。

    悟り的に軽くしていく事とモノを望む事
    精妙なバランスなゼロ地点・・・?
    何かアドバイス出来そうであれば、ヒントいただければ幸いです。

    こっちは余談的ですが。
    世界が私なのだったら、病気や欠乏が世界に起こっているのは
    私がどのように恐れ、傷ついたのだろう。
    どのようにしたら癒せるのかなと思います。

    まぁこちらは探求心的な軽いノリで深刻さはさほどないのでそのようなノリで答えて頂けたら幸いです。

    • 涅槃の書-自分 より:

      takeさん

      こちらこそありがとう。よい質問だ。

      今回は長めの回答にしておいたが、それはあなたなりの探究の手助けとなる題材を随所に盛り込んでおいたからにある。

      もちろん読み終えた時点では”期待”していた回答と違うと感じるかもしれない。だがあなたが文中のいくつかをヒントにして自ら世界を捉え直す術をみつけたとき、”望み通り”の回答だったとわかるはずだ。

      でははじめよう。

      まずあなたの根本的なところとして、たとえば本書でいうところの「生命の次元と言葉の次元」「自然と人間」「翻訳元と翻訳後」がなにを表しているのかが把握できていないように見受けられる。

      これらは表現が違うだけで同じ対比、つまり文脈によって言い表し方が違うだけであって、たとえば仏教なら「空と仏」も同様にある。

      “空”とは、私たち人間が認識している”個別化”された一切は幻想であり「本当はなにもない」ということだけども、だがこの「なにもない」がこの多種多様な幻想を見せているわけだから、つまりそれは「すべてある」のことでもある。

      わかるかい、人間が認識してるあらゆるすべてがないとき、すべてがそこにある、ということだ。

      これが「一と多」の関係であり、言いかえれば多元性とは一元のことにほかならない。

      あとでみていくように、人や物事であふれる世界をさまよい、それが本当はひとつが分有されたものであることに気づかない限り、常に「満ちたもの」を逃していくことになる。

      古来から語られてきた「足るを知る」というのは、いまここにあるものに充足をみるということだが、それは簡素なものを通じて「すべて」をそこにみているということにある。

      だから物質的な富をどれだけ積み上げようとも、まったく積み上げなくても、探してる充足は同じなんだ。

      だがその前にあなたが把握できるように順に進めていこう。

      多種多様な幻想としてみえてる世界、それが”翻訳後”であって、そしてそれがどのような世界としてみえるかは、もちろん「あなたの魂」の翻訳がどのようであるかに等しい。

      言いかえれば、”翻訳自体”がまさに魂のことにある。

      しかしここで重大な問題に差し掛かることになる。

      というのは、翻訳してこの世が現れているのはわかったとしても、じゃあなぜこの世はこのようであるのかという疑問は取り払えないからだ。

      言いかえれば、どうしてこのように翻訳しているのか、ということだね。

      スピリチュアルであれ宗教であれ、そして最近は物理科学でさえも「この世は幻想である」とはもう定型句のようになってるけども、しかし「なぜこの幻想なのか」とはあまり語られない。

      なぜなら語りようがないからだ。

      この世が幻想であるならば、それを語るスピリチュアル宗教も量子力学もそれ自体が幻想であることになり、つまり幻想と言ってる当のものが幻想となってしまう。

      じゃあ幻想というのは偽りなのか?

      いいや、その逆でまさに幻想と語るものが幻想であるからこそ、私たち人間の次元とは幻想そのものなんだ。

      最近ニュースを賑わせてるような現代の新興宗教については私はまるで知識がないが、しかしそれがキリスト教の分枝であれ仏教の分派であれ、当然それらの源流には2000年以上前に語られていたイエスや釈迦の教えがある。

      ここで大事なのは、イエスは”キリスト教徒ではなかった”のであり、釈迦もまた”仏教徒ではなかった”ということにある。

      学校で習ったかもしれないが歴史を通じてキリスト教は”愛”のために血塗れた歴史を繰り返してきた。それは仏教も似たようなもので分派同士の争いが絶えなかった。

      イエスや釈迦がそうした様子をみれば「お前たちは幻想に囚われてる」と喝破するだろう。

      つまり彼らが発見したのは、己がどのように語ろうとも「それは幻想である」という、まさに”そのこと”にある。

      つまり人間が幻想そのものなんだ。

      それゆえ彼らのような源流の教えというのは、常に”二重性”を孕んでいる。

      ここを押さえておかねばならない。

      つまり「すべては幻想だが、このように言ってることも幻想である。だから幻想がなんたるかを見抜け」ということだね。

      しかしながら現代の科学、たとえば脳科学もすでにその”気づき”に至っていたりもするけども、それはひとつのタブーにある。

      というのは、その真実をその通りに教科書に書いてしまえば、脳科学という立場そのものが消え去ってしまうからだ。

      わかるかい、脳のどこを解剖しても繊維の塊でしかない。その繊維のなかは外部から刺激が変換された電気信号が行き来してるだけだ。機械と変わらない。

      もちろんその信号の”変換”にはある一定のパターンがある。だがそのパターンが幾重にも複雑に関わり合ってこの三次元空間を浮かべているならば、こうして天空や大地や部屋のなかの位置関係があるのは単に脳内だけでそうみえていることになる。

      じゃあ本当はなにがここにあるのか。つまり脳内変換を与える”刺激”とはなんなのか。

      そしてなにより重要なのは、“脳”もまた脳内で浮かべられたヴィジョンにすぎないということだ。ここに脳科学のパラドクスがある。つまり”タブー”を犯してしまえば人間の世界を構成している諸分野を崩してしまうことになる。

      だがこうしたタブーこそが、古来より各地で「聖なるもの」として祀られてきたのであり「みてはならないもの」として畏れられてきた。

      ひとつのメタファーとしてなら、たとえば白色の光というのは、あらゆる色(波長)を含んだ源泉にある。太陽を直視してるとやがて失明するが、しかし何がみえなくなったのだろうか。

      それはむしろ、先の「すべてがないときすべてがある」と同じではないだろうか、という面白い語り方もできる。もちろん直視してはならないよ、私たちはまだ”人間”なのだから。

      またキリストが処刑後に復活したとき、そのそばにいたマリアに「私に触れてはならない」と言った。その意味はまさに人間がみてはならないもの、人間が人間でなくなるもの、いわばゲシュタルトの崩壊を誘うものであることを表現しているといえる。それはつまり私たちが本当はなんであるのかを伝えているんだ。

      だから人間は「すべてある」をダイレクトに享受できるのではなく、私たちは幻想のなかで暮らし、その幻想のなかで生涯を終えていくわけだから、そうした聖なるものに目を焼かれるように、幻想を完全に幻想だと見切ってしまうと足場がなくなってしまうわけなんだ。

      「脳は脳さえも現象させている、じゃあ脳として取り扱ってきたここにはなにがあるんだ?」と自分の頭を指差す脳科学者は他の学者から嘲笑されて職を失うだろう。

      実際他の分野でも大きなパラダイムチェンジを唱えた学者たちは追放されたり自殺に追い込まれたりしてきた。

      なぜならそうした既成概念の”転換”は他の学者の立場をも危うくするからであり、それに気づいていても「言いたいけど言えない」というジレンマに、いまや脳科学も宇宙物理学も行き着いている様子にある。

      だが釈迦はすでに2500年前にそのことに行き着いていた。

      だがいかなる言葉で”幻想”を説明しても、脳が脳を語っているのと同じく、その説明もまた幻想にすぎず、ゆえに拈華微笑という逸話が残されている。

      拈華微笑というのは、釈迦が講和のときただ静かに花を掲げていたという伝承であり、のちにそれが仏教の分派である”禅宗”へと系譜していく。

      禅は言葉を必要としない。

      つまり脳科学がブラックボックスとしている、脳内認識の”元”にあるものをひたすら追求する。その追求はもちろん言葉の表現を用いたりなどせず、自分の腕を切り落としたり、突然弟子に殴りかかったり、急に大笑いが湧き起きたときに、”それ”を観る。

      ところで”分野”というのは枠組みのことだが、そうした枠組みが成立するためには、言葉で整合された論理的な構造で保たれなければならない。

      だがその「枠組み」というのは多元性のごくわずかな一部分でしかない。つまりどのような緻密で完全な枠組みを制定しても、枠の外からの変化に常にさらされていることになる。

      たとえば物理学にしても”矛盾”でしかない現象に直面することになる。

      だがなぜ矛盾なのかといえば、これまでの合理的な理解がそれにそぐわないわけであって、つまり枠組みそのものを根底から作り直さなければ、それをその分野で説明することができないからだ。

      それゆえニュートン力学を基礎におく古典物理学とアインシュタイン以降の現代物理学では互いに矛盾しているにもかかわらず、どちらも正しい理論として定められている。だがまさにこうしたことに私たちがどんな世界に生きているのがよく現れている。

      宇宙物理学にしても、宇宙空間の実に95パーセント以上はみることも確認することもできないダークマターやダークエネルギーで埋め尽くされていると表明しているが、もはやその”矛盾”を克服するためには、これまで培ってきた”正しい理論”を見直さなければならないところに来ているといえる。

      わかるかい、矛盾というのは”言語”のなかでのみ生じてくる論理の不整合にすぎない。自然を説明するその説明自体が完全に説明しきれていないわけだが、しかしいち分野だけで完全に説明することなど不可能なんだ。

      それは話したように、多元性とは一なるものを分有したものであり、部分は全体を語ることなどできないからにある。

      その意味で言えば、学者は単に研究しているだけではない。彼らは人間生活のなかでその整合的な分野に携わっている。

      つまり科学者という分野があるだけでなく、彼がその職業で報酬を得ながら生活していること自体もひとつの整合された”分野”であり、時代そのもの、つまりその時々の人間世界そのものが整合されることでバランスが保たれているわけで、ひとつの分野の崩壊は連鎖的に波及していくことになる。だが一なるものはなんら影響はない。

      この点についてもう少し話しておこう。

      “分野”は外側から変化にさらされているが、その変化への抵抗が負けてしまって変化に巻き込まれてしまうといろんなことに影響がでてくる。

      たとえばこれまで学校で教えてきたことが全部間違いだったことになる。科学は実際こうしてたびたび覆されてきた。

      だがその”元”にあるもの、つまり禅が指し示しているもの、冒頭の対比でいえば、”翻訳元”であるものはなにも変わらない。

      これもよく話すことだけども、私も手記などで一般的に通念されている科学や時事的な觀念を題材にして”それ”を伝えている。

      しかし数年後にいま当たり前に信じられているその科学が偽りだったと判明して、新しい科学理論が現れたところで、やはり私は相変わらず”それ”を伝えているだろう。新しい科学を題材としてね。

      これは同時に、私がいま知り得ている科学の理解や情報が古いとしても、なんの問題にもならないということだ。仮に「いま正しいのはこうですよ」と意見をされたところで、私からすればそのこと自体はまったく重要ではないからだ。

      だけども「科学的な裏付け」に依拠しているような人たちというのは、時代の流れに翻弄され続けることになるだろうし、同様に「これには科学的な根拠があるから正しい」という人たちも常に「正しいもの」がころころ変わることになる。

      正しさとはなんだろう? つまり真の”正しさ”は言語の整合次元にあるのではないんだ。

      だが人間次元での科学的説明にしろ他のなんにしろ、それらが変化するたびに”真実”がころころ変わってしまうがゆえに、人々は扇動されたり人生の柱を見失うわけで、これもまた手記でいつも話していることだが、だからこそあらゆる物事の背後に流れる「ひとつのもの」を見出さなければならないんだ。

      そうしてみれば、どのような職業も日々の生活も、恋愛やスポーツすることも、その見かけにとらわれている限りは常にそれに振り回されるわけで、そのことを十分に”楽しむ”には、そのことがなぜここにあり、そしてなぜ己はそれを体験しているのかという根底に意識を向ける必要があることになる。

      すべてはその「元にあるもの」が己の魂において”そのように”現れているのだからね。

      というわけで、まずは「翻訳前」と「翻訳後」という切り分けを押さえておかねばならない。

      ここであなたのコメントを振り返ってみれば、あなたは”翻訳後”の視界において、翻訳前にあるものを捉えようとしているがゆえにジレンマを感じていることがわかる。

      それはキリスト”教徒”や仏”教徒”と同じ立場であり、ゆえに”開祖”であるイエスや釈迦と同じまなざしを”開く”必要がある。

      ここまでを踏まえて話を戻してみよう。

      「すべては幻想であるが、じゃあなぜこの幻想なのか」だったね。

      たとえばあなたのこの世と私のこの世は違う。またあなた自身さえも、今日のこの世と明日のこの世は同じではない。

      だが人間の基本的な觀念は共通しているはずだ。明日のあなたも「スマホ」というものを知っている可能性は高い。夏も路線バスも淡い恋も明日のあなたは知ってるだろう。

      だが路線バスひとつを取り上げてみても、たとえば恋人ができてその人に会いにいくために利用してるのと、すぐにでも辞めたい辛い仕事に向かう同じバスでは、あなたの世界のそのバスの意味や価値は異なることになる。

      こうして他の要素との関連で、そこにある要素はどんどん意味や価値を変える。そのように要素が変化したら、それを変化させることになった他の要素も影響を受ける。”分野”の話と同じだね。

      この連鎖が悪循環として進行し続ける場合もあれば、逆に「トントン拍子にうまくいった」みたいに好循環として進展してく場合もある。

      またよくあるように、以前はただ学校や親に履修させられていた学びや知識が、あとになって大いに役立つときが出てきたりもする。人生の変化を強力に後押しするのは大抵このパターンだ。

      このように魂内部の構造変化があるが、魂をひとつの小さな宇宙として見立てた場合、この宇宙は自ら自身で生成を繰り返している様子にある。

      だがそれだけでは劇的な変化まではいかないだろう。

      なぜなら、要素がその意味づけをいくら変化させても、やはり「バスはバス」であるからだ。つまり海を渡ることが当たり前の世界を描くには飛行機を知ってなければならない。

      そのようにこれまで持っていなかった觀念が加えられることで、魂内部はどんどん豊かになっていくけども、しかしその觀念はどこからやってくるのだろうか? また、はじめから持ってた觀念にしてもそもそもどこからやってきたのか。

      ここに「空と仏」と対比させたうちの”仏”の意味するところが明らかとなる。

      これもいつも話していることだけども、最近なら「仏と魂」という手記もそのことを話しているので併読してもらいながら、なるべくシンプルに話していこう。

      恋人に会いにいくときのバスと嫌な職場に出社するときのバスは違うと話した。

      しかしそうして他の要素によって意味を与えられる以前のバス、すなわち何の色付けもされていない無垢で純粋なバスをイメージしてみてほしい。

      いいかい、昨日のあなたと今日のあなたでバスの意味づけが違っても、しかしそこにあるのが本当は「純粋なバス」であると知ったならば、そのときようやく気づくことがある。

      それは昨日と今日のあなたが違うようにみえて、実は同一であるということだ。

      「そんなの当たり前ですよ」と言ってはならないよ。その同一の意味とは、あなたとこの私もまた同一であるということだからね。

      もちろんあなたと私で知っているものは違う。あなたの知るものを私は知らないし、その逆もそうだろう。

      だがあなたと私の”この世”の違いには、単に意味や価値の変化だけではない、魂を構成するそもそもの“素材”の違いがある。

      つまり「純粋なバス」のように基本的な素材がいくつか集まったものが、個々の”魂”なんだ。

      ゆえにその魂の内部での生成変化は、まったくもって”個的なもの”であり、だからこそ、世界は己の心の反映であるといわれるわけだね。

      さて素材がいくつか集まったものが個々の魂であるならば、その素材が蓄えられている巨大なデータベースがあるはずだ。

      私たちの魂はその大きな魂のなかに泡のように出現しているのであって、だから個々の魂はそれまでもっていない素材を獲得できるチャンスが常に与えられているといえる。

      素材同士が互いに影響しあって”絵”を描き変えるのであれば、当然新しい素材が入ってくることは、その大きな起爆剤となる。

      たとえばあなたもある偶然の出会いから人生が大きく変化したという経験があるかもしれない。しかしその出会いを受け入れるためには、心がそれを拒絶していては不可能だったはずだ。

      小学校から中学校にあがって、新しい友達ができるときなんかはその典型だね。親友と呼べる相手との出会いがあったかもしれない。

      親友は作ろうと思ってできるものではない。

      なぜなら「作ろう」という欲求はそれまでの自分をアピールの土台として、その延長上に見いだそうとするものだからだ。つまり過去を引きずっているわけで、同じ過去をそこに繰り返そうしている。

      だけども実際に親友ができるとき、それはこれまでの過去が無効になっていたからこそにある。あなたの心は開かれていた。つまりあなたは何者でもなかったんだ。

      そのように人生を変える出会いというのは、それが人であれ物事であれ、これまで握っていたものを手放すからこそ、新しい素材が魂に新たに参加するわけであって、そしてそれによって既存の他の要素に変化を促すようになる。

      話を戻してみれば、そのように無限の可能性を与える「大きな魂」が個々の魂の背後にドンと控えているわけであって、個々の魂がまさにその神なる恩寵を受け取るには、己を解放しなければならないというわけだ。

      さあキリスト教の”神”というのがなんなのかがみえてきたね。

      その大きな魂は「純粋な素材」の集まりであり、しかし素材を純粋なままに、つまり「あるがまま」にしておくことは、”人間”である個々の魂には決してできない。

      なぜなら話したように他の要素との関連で「あるがまま」みることができない状態こそが人間そのもの、すなわち個々の魂そのものだからであり、よって大きな魂というのは、私たちの理解するところの”人間”ではない。

      だから神であり、そして仏なんだ。

      たとえば仏という文字は「人ではない」という意味を含んでいるのはそういうことにある。

      対して、個々の魂は”独自の世界”を夢みている。人間の世界だ。それは素材が他の素材との関係によって純粋ではなくなった世界であり、つまり魂の数だけ夢が存在している様子にある。

      そして話しているように、それら無数の夢は神や仏の”なか”で浮かんでいるがゆえに、神や仏がその夢をみているんだ。お天道様はみているわけだね。だがそのお天道様はあなたのことでもある。

      だがあなたが神の座に昇り詰めるには、神と同じまなざしがなければならない。それはもちろん「あるがまま」にみることだが、魂の内壁を通じてのことだから全記憶の完全な一望ではない。それは目が焼かれることを意味する。

      この点も繰り返しておこう。

      悟りとは開眼といわれるように、夢から目覚めること、つまりあるがままの素材をみることにあるけども、たとえばあなたの世界に憎い人がいたとするなら、どうしてその人は憎いのだろう?

      それはその人自体がそうなのではなく、さまざまな要素との関わりのなかで、その人がその意味を背負わされているにすぎない。たしかにその人はあなたに悪事をしたかもしれない。だがそれはその行為があなたにとっては悪事だったからであり、それが悪事だと思えるだけの他の要素の関連があるからだ。

      こうして関連で結びついた世界を「因縁」や「カルマ」と呼んだりする。結びつきの母胎マトリクスのなかで魂独自の夢世界が生じているということだ。

      だから目が焼かれる一望が悟りなのではなく、いまここにある己の因果世界の背後に「純粋な集まりをみること」が個々の魂レベルでの悟りとなる。

      だがそのちいさな悟りがより大きなところに導くことになる。

      さてここからがあなたの質問への回答部分となるが、もちろんここまでの話をなんども咀嚼してなければならない。

      「あるがまま」にものを見る、仏教ではこれを「正見」というのだけども、人も物も出来事も、要素の関連に与えられた意味や価値としてではなく、その存在をあるがままにみるとき、ある不思議な扉が開くことになる。

      つまり”仏”の境地に至るとき、たしかに人間が創り出した無限の記憶の海に触れることになるが、しかしそれがあるがままに許されるというのは、それら記憶が各々なんであるかではなく、その記憶自体が「なぜあるのか」という”根本”に目が開かれるからだ。

      そう、一切の幻想を生み出しているその源をそこにみているようになる。つまり”空”のことだ。禅が指し示すものであり、だがキリスト教はそこまでは語られない。

      なぜならそれを指し示すキリストこそが頂点という教理だからであり、しかし「あるがまま」をみてその背後に”空”を観るならば、魂の最上位である神や仏と空はもはや同じものだといえる。

      イエスのいった「天の国」とはまさに「あるがままの世界」のことであって、そこには対立もなければ憎悪もない。あるのは底知れぬ喜びや嬉しさや感謝や愛だけであって、それはつまり関係性という幻の世界を抜け出したときに「天の国」がその同じ場所に開かれるということを示している。

      そしてここが重要だが、真の喜びや嬉しさや感謝や愛というのは、関係性の世界からは決して見出されず、まさに”空”そのものの本質であるということにほかならないということだ。

      わかるかい「死んだら天国へ」というように「死んだら仏になる」といわれるように、”関係世界”を抜け出すというのはまさに”死後”のことだが、しかし死というのは、過去と未来の因果に挟まれて生きてる自分を脱することであり、まさに親友ができたあの日、または素直になれたあの日、あなたは”死んで”天国にいたんだ。

      ここで冒頭の一文を再び載せておくよ。

      ──

      まずあなたの根本的なところとして、たとえば本書で表現するところの「生命の次元と言葉の次元」「自然と人間」「翻訳元と翻訳後」といったこれらがまだ把握できていないように見受けられる。

      ──

      これまでの文脈で用いてきた”空”とは、生命の次元や自然や翻訳元と同じだと話した。そしてその空を人間の世界として翻訳する「言葉の次元」のもっとも大枠こそが、仏や神にある。

      しかし仏や神のレベルにおいては、まだ翻訳そのものはされておらず、ただ純粋な素材があるだけだ。満天の星空のように無限の言葉が漂っている。つまり”翻訳”とは関係世界を生み出すときの作用そのものにある。

      あなたはこのように質問している。

      >こういった悟りの感覚と意図的に引き寄せる感情を目安とした創造がいまいち一致しません。全体に戻ると何をするということが愚かしいという感覚になります

      もうその質問自体が翻訳された後での整合を求めているのであって、いわば悟りの感覚というそれでさえ純粋なものではない。

      つまりそうじゃないんだ。

      あなたはそのように問うた先になんらかの楽しめる答えがあると考えている。だからこそわざわざ質問しているわけだからね。

      だけども、そのように問える世界がここにあること自体を楽しむとき、もうそれが答えなんだよ。

      スピリチュアルや宗教だからといって、花や服や車よりも崇高で高貴なものだというわけではない。

      すべて”同等”であり、どんなに高尚な価値を与えても、所詮は人間が生み出した觀念上の産物にすぎない。

      「悟り」もそうだね。悟りという言葉を特別視していては、それは悟りでもなんでもない。だからこそイエスも釈迦も偶像崇拝を禁止したんだ。そんなところに彼らの”二重の意図”が現れている。

      ところが彼らを”崇める”キリスト教徒も仏教徒もその多くは、その二重の意図が理解できず(つまり神や仏も人間が生み出した概念に過ぎないということ自体に”気づく”ことができず)それゆえに派閥や争いが生まれてきた。

      またあなたがはまりこんでいるように、理解できたのに「なんだか虚しい」ということになる。

      この話を理解していくうちに、あなたが余談的だといってるもうひとつの質問も解消するだろう。

      >こっちは余談的ですが。世界が私なのだったら、病気や欠乏が世界に起こっているのは私がどのように恐れ、傷ついたのだろう。どのようにしたら癒せるのかなと思います。まぁこちらは探求心的な軽いノリで深刻さはさほどないのでそのようなノリで答えて頂けたら幸いです。

      あなたはそのように話しているけども、実はこちらの問いのほうがメインなんだ。

      「翻訳していること自体」があなたの魂そのものだと話した。それはつまり、あなたの望みどおりの世界がここにあるということだ。

      望み通りの世界がその関係性によって見え方を常々変化させているが、それは望みあってのものにある。

      そこであなたは「じゃあ病気や欠乏が世界にあるのはなぜなのか」という問いを向ける。それゆえに「それをどのように癒せばよいのか」となるわけだね。

      これは手記や回答でいつも話していることなので、以前のコメントから引いておこう。

      ──

      じゃあ「私は苦しむために世界をつくったのか」といえばそうではない。

      「こんなひどい世界を作るなんて」と思うかもしれないが、そうじゃない。仮にひどい世界だったとしても、たとえば、その世界を通じて、いろんな経験をするだろう。

      病気をしたならば、病院や看護師たちのぬくもりや人々が結束したときの力強いチームワーク、そんな素晴らしいものを感じる。

      その「素晴らしいもの」を感じるために、あなた”この世”をそのきっかけとして作り出したんだ。

      ──

      この引用文には重要な示唆が2つ盛り込まれている。

      ひとつは患う病気とそれを治療してくれる医師や看護師を同時に己が創り出したという現実上のドラマのこと。

      そしてもうひとつは、その”本当の目的”にある。

      つまり本当の目的は現実上のドラマでの解決ではなくて、そのドラマを通じてその”向こう側”になにを感じるかにある。

      言いかえれば、向こうにあるものを感じるために、己はこのドラマを創り出しているんだ。

      向こうにあるものとはもちろん”空”であり、”永遠の生命”であり、”翻訳元”のことだ。

      そして話してきたように、心の底から突き抜けてくるような喜びや嬉しさや安らぎや愛情のことであり、つまり現実上の損得や打算が捨てられて「あるがまま」を正見するとき、ここにずっと満ち溢れているものがみえてくるんだよ。

      長くなったが、今回話していることは手記やコメント回答でこれまで何百と伝えていることなので、この話をもとにしてまた読み直してみると「ああ、そういうことだったのか」とより深い理解になるだろう。

      繰り返しておけば、”私たち”は人間であり、人間ではない神や仏のなかに泡のように生じている。

      その泡はほんのわずかな知識や感情やものの見方しか備えておらず、それゆえにとても閉鎖的な世界の”夢”を見続けている。

      だけども神や仏のなかに私たちは現れている。

      そのことが垣間みえるのは、私たちが”こだわり”を捨てたときであり、執着や不安による自己保身を緩めたときだ。

      そんなときこそ、あなたには親友ができたり、なんでもなかったはずのことが人生を変えたり、新しいことに挑戦してみようかという勇気が満ちる。

      つまり充実した”生”を体験するには、関係世界としてではなく、存在をあるがままに見つめる姿勢が必要となる。あなたのお母さんは”あなたのお母さん”ではない。

      もちろん人間の次元として、母親と自分という役割を演じることになるけども、それでも本当にそこにあるものを感じてみることだ。するとあなたは神や仏のまなざしと同じように、”人間の夢”を永遠の流れのなかに浮かべているようになる。

      最後になるけども、いずれあなたが疑問することになるだろうから先に書いておこう。

      それは永遠の生命に満ちているとはいえ、その満ちた充足が波のように動き続けている限り、急流している領域や穏やかな領域など千差万別にあるということだ。これもまた魂が独自の光景を描く大きな要因となる。

      この領域の違いを本書では「エネルギーの濃淡」や「エネルギー量」のように表現しているけども、たとえば自然といえど、人間に適さないエネルギー領域(後述のように紫外線やカビが繁殖するような湿度など)があちこちにある。

      魂は”翻訳元”を翻訳しているが、その翻訳元が激しい領域にあるとき、魂の世界はより過酷で波瀾万丈なものとなる。だけども「いかに翻訳するか」によって翻訳元の領域自体が変わることになる。

      これも”二重性”の理解が関わってくるが、それについてもあちこちで話しているのでリンクに留めておくよ。※最近相談者の方に同じ話をしているのでその該当箇所の引用とリンク一覧を載せておく。

      ──

      つまり思考(心の状態)によって、あなたの魂という”雲”は、生命エネルギーの過酷なエリア上に現れていた。

      紫外線も放射線もすべて自然の産物であるように、生命エネルギーの全域がすべての存在に有効なのではない。

      たとえばカビは人間が嫌うような湿気の多いところで生息するわけで、だが人間がそのような場所で暮らしているといつか体を壊してしまう。

      注意しなければならないよ、紫外線もカビも私たち人間にみえている見かけ(現象)であり、つまりそれら見かけの向こうには、”私たちという現象”にとって、あまり適切ではない流れが生じていているということだ。

      その適切でない流れを翻訳してしまっている。すなわち、魂という雲が過酷な流れを映像化している。

      言い換えれば、私たちが「夢見ている人間世界という現象」は、まさに人間に適したエネルギー量の領域においてこそ、清々しさを感じられるんだ。

      生活環境だけでなく、病気になったり虫歯になったり、腱鞘炎になったり、また人間味の希薄な会社で勤めることになったりもそう、そうして「幸せに思えない」という環境そのものが、まさに生命エネルギーの不適切なところに、己の魂が浮かんでいるからにある。

      その逆に、穏やかで安らいでいたり、平和で幸せだと感じられるのは、波の振りが緩やかなところに、魂が漂着しているからにある。

      ここ最近のあなたがそうだね。あなたの魂は過酷だったエリアから穏やかなエリアへ移動した。

      魂が映し出す光景(つまり一者から引き出している記憶)は同じでも、その印象がまるで違う。

      これまで退屈だったものに安らぎを感じたり、それまでは手放さずにいたけども、いまのこの穏やかさには不要だと思える人や物をみつけたりする。

      激しいところにあるとき(つまり病気をして不安だった頃のあなた)がその呪縛から逃れるには、つまり穏やかな場所に浮かぶ雲として移動するにはどうすればよいのか。

      それはたとえば以下の手記を時間のあるときにゆっくりで構わないのでまた読み直しておいてほしい。これらはエネルギーの濃淡についてさまざまな比喩やアプローチから述べている。

      “幸せ”が大陸移動していく
      祝祭のオーケストラ
      魂の「移動」
      苦悩を生まない原理
      なにも気にしないでいられる秘訣
      ある晴れた日

      ──

      この回答をした相談者の方も今回のtakeさんへの回答と併せて読み直してほしいが、つまりこの世を楽しむには、この世のドラマに巻き込まれていては(関係世界によって生じている自分に同一化していては)決して不可能だということ。

      だが楽しむからこそ、この世はどんどん変化が許されるのであって、そしてそれは話したように、かならず”本当の望み”に適ったものとなるということなんだ。

  3. uriko より:

    おはようございます^_^
    このタイトルの由来がもうずっと長い間気になっています。
    ただの雰囲気で大した意味はないのかもしれない、などと考えて気にしないようにしていましたが、やっぱり気になるので聞かせていただけると嬉しいです。

    • 涅槃の書-自分 より:

      urikoさん

      やあありがとう。

      古いフォーマットのままだったので読みやすいように整えておいた。それに伴って一部加筆しておいたが、伝えている本質そのものは変わっていない。

      さてタイトルの件だがもちろん”意味”が込められているよ。

      今回の「猫の耳は上についている」というのは、今回の文脈でいえば、日頃当たり前に見過ごしていることでもそこにフォーカスしてみれば実に不思議に思えたりしてくる、ということにある。

      そうして「それまでなかった新しい意味」が世界に現れてくるんだ。

      だけども本当は猫の耳は最初から上についていたんだね。それは”純粋な素材”としてずっとそこにあった。

      そしてここが重要だが、それは以前の己には取るに足らないことだったというより、むしろ己の人生において猫の耳は上に「なかった」ということでもある。

      これは言いかえれば、己の認識のなかにのみ体験する世界が現れているということであり、そうして気づかずうちにしている”概念化”や”可視化”が冒頭の断捨離の話に重ねられているということだ。

      たとえば「断捨離」という言葉自体は最近のものであって、その語のとおり、何かを断ったり、捨てたり、離れたり、それら自体はごく普通の単純な概念だった。

      ところが「断捨離」というひとつの定義がされるとき、その語自体が価値を持つようになる。

      断捨離=人生のリセットと同義になり、断捨離そのものが目的になったりもする。

      これが意味の生成のプロセスにある。私たちはこうした”魔法”を使うことができる。

      家族や恋人もそうだね。それは”特別な人”だ。

      しかしどうして特別なのだろう? それはそのように意味を与えているからであり、そして上の話のように、もともと”存在しなかったもの”が存在を与えられているんだ。

      これは意味の世界において”命”を与えたということでもある。

      だがこの”意味の魔法”は良くも悪くもあるわけで、たとえば、社会にしろ何らかのコミュニティにしろ人間の世界はそうした抽象化によって現れているが、その幻想のなかで競いあったり喜びや失望があったり、ときにはそれによって長い不幸を背負ったりもする。

      つまり「好きなことをやりなさい」「やりたいことをやりなさい」と手記で繰り返しているのは、既存の幻想に閉じ込められるために己はここにいるのではなく、幻想そのものを作り出していくことのためにここにいること、そしてその力を再認することにある。

      だからやりたいことをやるといっても、それが自己中や横柄に振る舞うということではない。それは”自ら”で生み出した既存の他者や物事に振り回されているだけであるからだ。

      そうではなくて、もっと根底から一切を描き変えられるぐらいにまでマイウェイを貫いてみること。

      そこに道が見えなくても一歩踏み出すごとに道が現れているようであること、その奇跡の道を辿っていくとき人生は変わるんだ。

      純粋な素材は別の意味として新しいあなたの世界に現れてくる。

      つまり、”それを知らなかったあなた”は微笑むだろう。

      「あ、猫の耳って上についてるんだ」とね。

    • uriko より:

      お返事ありがとうございます。
      想像以上に深遠な意味でした。。

      いま若いころからぼんやりとやってみたかったことを一応具体的な形にしてスタートラインについたところです。
      これが本当にやりたいことなのかまだ自問自答しながらですし、ついついもっと反応が良さそうな形に変えた方がいいかなとか気持ちがブレそうになってしまいますが、ここでブレたらいままでと同じ結果が待っているという予想がつくのでなんとかマイウェイを貫けるよう頑張ってみます。
      ありがとうございました。

コメント・質疑応答

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