ヴィーナスとマーヤー

私たちの体は数十兆という細胞からできている。その細胞がそれぞれ心臓などの臓器を象り、それらによって体は構成されている。つまり体は物質によってできているというわけだ。

もちろん細胞(細胞核〜染色体〜DNA)というのは生物学的な単位であり、物理学的にみればさらに細かい物質で成り立っていることになる。生体高分子、分子、原子、そして素粒子へと、より下位で組み合わさっているパーツが現れてくる。

これは人間も宇宙も「もとは同じ物質」でできているということだ。つまり私たちは思考上で自分と離れた物との距離感を浮かべているが、すべてが同じ原理で構成されているわけであって、常に充満したエネルギーのなかに人間は個人という夢をみている。

たとえば私はいま並木通りのベンチに腰掛けてこれを書いている。朝の爽やかな風と穏やかな木漏れ日が、新しいはじまりを予感させる。

このポジティブな感覚にあるとき、世界はとても素敵なものにみえる。

1.生命のエネルギー

しかしこの「はじまりの予感」とはなんだろう。この清々しさとはなにか。つまりこれが生命感というやつだ。宇宙を充満するエネルギーが人間観念を通じて、その限りなくピュアな状態を現せたものとなる。

生命感、それは人間的な言い方をすれば「生きようとする何かの現れ」となる。しかしそれは社会に揉まれた人間世界でのルサンチマン的(恨みや妬み)な鬱結した反発感情のことではなく、宇宙を構成する「物質のなか」でひたすら前進しようとする何らかの躍動である。

つまりこの「生の躍動」が大いなるエネルギーなのだ。これは人間だけでなく、動物や植物にも、そして岩や金属や空気や太陽の光にさえも満ち溢れているのである。

2.マーヤー

さてここでひとつの転回をしなければならないことになる。それは宇宙のすべてを構成している物質、いまの物理学ではボソンやフェルミオンなどに区分けされる素粒子が事実上の最小単位だが、それら概念も人間の観念上の扱いであるということだ。

だから人間が何を調査研究し、何を知ったところで、それは常に「この全体」を間接的に捉えるものとなる。つまり物質という概念どころか「最小である」とか、「充満している」とかいった「捉え方そのもの」が、すでに大いなるものとかけ離れているというわけだ。

つまり意味づけや形として捉えられるものはすべて幻想であり実在するものではない。それは人間社会でいえば、まさに「このすべてがありもしない幻想」だということ、それをヒンドゥー教やその系譜にいたシャンカラは「マーヤー(幻影)」と呼んだ。それはもちろん、彼らが唱えている教えさえもマーヤーであるということを示唆しているのである。

だから物理学にしろ宗教や哲学にしろ、また恋愛やビジネスにしても、すべてはそれ自体を目的とするのではなく、それら「マーヤー」を稼働させている、「生の躍動」を捉えなければならない。

つまりこの世のすべての現象は「これはこういうものだ」とその答えを伝えているものではなく、マーヤーである私たちに解釈の余地を与えているのだ。すべての現象はその「向こう側」に到達するための道具であること、その架け橋であることを忘れてはならない。学問も他者との触れ合いも、労働も、食事や入浴などの日々の暮らしも何もかもがそうだ。

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