自分をやめるとよく見える

幸せになるには
幸せを求めるのではなく
不幸をやめることだ
不幸をやめればそこに平安がある

では不幸とは何かといえば
あなたのことだ
あなたが不幸なのだ
つまりあなたが消えると
不幸は消滅する

今回は最近のコメントの流れもあり
観念についての話をしよう

まず我々は勘違いをしていること
それに気が付く必要がある

あなたが何かを見るとき
それはあなただけが見ているのではない
“あちら”もあなたを見ているのだ

何かを見るとき
あなたの意識は外側に注がれる
何を見ても触れても
すべてに意識が注がれていく
なぜならば、あなただけが見ているからだ

そうしてあなたの意識で
世界はどんどん光輝いていくが
逆にあなたの内側は闇となっていく

だから世界はとても魅力的に映り
そしてあなたは劣等感に見舞われる

 

両者が交わるところ

いまそこにある何かを見てみなさい
コップでも壁でもいい

いつもあなたは自分だけが見ていた
だがその行為を観察してみれば
何かを見た瞬間に
あなたはその対象の名称や知識を
再生していることわかる

そこに白いリモコンがあれば
「白いリモコン」として対象を見る
それは「本当に見ている」とはいわない
見えているのは、あなたの記憶だ

つまりあなたは
世界の隅々まで意識を張り巡らしながら
自分の妄想ばかりがその目に映っていた
それと戦い続けてきたのだ

この消耗しかないドラマ
さていつまで持つのだろう?

このように「意識の向き」に
気が付かないでいると

「世界の中で自分が生きている」
そのように思い込んでしまう

「私が見ている」
「私が食べている」
「私は怒っている」
「私は働かなければならない」
「私は将来が不安だ」

すべてあなたからの一方的な
意識の浪費によるものだ

世界は「あなたの解釈だけ」しかないもの
ということになる

ゆえにあなたは人生で苦しむことになる
何を見ても聞いても触れても
己の解釈という檻から抜け出すことができない

世界が不幸?
そりゃそうだろう

不幸なあなたは何を見ても
不幸にしか映らない
そのようになっている

 

観念

観念という言葉は
スピリチュアルではよく出てくる表現だ
パラダイムのような平面的な意味ではなく
もっと奥深いニュアンスを持っている

あなたは日頃、観念の中にいる

今日という一日を振り返る
沢山の風景を見て
沢山の人々と交流したかもしれないが
それらは
生まれてからいままでに備わってきた知識
それをリピートしているに過ぎない

確かに人もいたし建物も見た
だがそれらはあなたの解釈によるヴィジョン

つまり「自分の知っている世界」の中だけで
あなたは生きているということだ
たとえ新しいことに挑戦したとしても
そこには”あなたの知っていること”だけが
再生される

「これはきっとこうだ」
「ほらやっぱり」

あなたの世界に対する推測は百発百中となる
なぜならば、あなたが見ているからだ
あなたが見ている限り
その世界はあなたの解釈通りとなる
それが観念といわれるもの

 

パターンを理解する

「そこに白いリモコンがある」
この時点で観念に包まれている

モノの見方や価値観
思考や感情のパターン
それらはシステムのようなもの

あなたという本質は実在しない
あるのはシステムだけ
その構成要素はすべて外側から集められている
つまりスクラップだ

名前や経歴
そうしたものを外せば何が残る?
経験から備わった考え方や性格
それらを外したら何が残るのかね?

あなたのフタを空けたら
中に様々な絵柄のカードが並んでいるだけだ

たとえばこの文章を読んで
「それはおかしい」
そう思うならば
そういう思考パターンを
これまでに培ってきたということ

あなたが考えているのでもないし
あなたが主張しているのでもない

単にこれまでの人生で身についた「思考」を
いまここで再生しているだけに過ぎない
あなたなどどこにもいないし
日頃自分と思っているものは
自動制御されているパターンのことだ

しかもそのパターンは
世界に対する”反応”でしか動作しない

反応が起きない限り
あなたは自分を見いだすことができない

だから個人的な趣味を作ろうとする
何かを集めたり
自分の人生とやらを生きようとしたりする

それは結構なことだが
「反応であること」「自分を見いだすこと」
そうしたことが前提にある以上
あなたは今後も不幸を背負っていくことに
サインしている

つまり観念を変えるとはあなた自身が
まったく別のものになることを意味する

だがいくら観念を変えても
その根本にあるものを見据えない限り
あなたに光は灯らない

意識はどんどん世界に流れていき
あなたの中は闇のままだ

 

エゴ

エゴも観念だが
世界で集められた情報の共通項として
その頂点に君臨する
だから観念の支配者がエゴとなる
「自分」という実体なき錯覚を生み
そして世界に対象を作り出す

対象があるということは
その対極である”自分”が自然発生する
これがエゴのプロセスとなる

意識の光が外側へ流出してしまうのは
エゴの仕業だ

当初はエゴなんていなかった
そのポストもなかった
だが人生という体験が行われてきた中で
物事に対する比較が起こり始める

「ママ、あれ買って」
「だめよ」

あなたの中で度々会議が開かれるようになった
そのときにまとめ役として抜擢されたのが
エゴだ
あなたが生まれた数年後のことだ

エゴは圧倒的な統率力と発言権を持ち
議会に加わった人々を次々と洗脳していった

「ママ、あれ買って」
「だめよ」
「○○ちゃんは持ってるのに!」

人生へのマーケティングから
何が良くて何が悪い、という
ポリシーが生み出され
民主制だった「あなた」という組織は
いつの間にやらエゴの支配下に置かれるになる

以後今日に至るまで
あなたには何かがいつも足りず
それを満たすことのために生きるという
奴隷のような人生となっている

どれだけ裕福になっても
やはりいまと同じ焦燥感や不安に
襲われるだろう
どれだけ沢山の友人ができても
やはり孤独からは逃げられない

自分が環境の中にいるという時点で
すでに観念の罠にかかっているのだ

 

そのやり方じゃだめだ

ではどのようにして
その罠から抜けだそう?
エゴの支配を脱するには
どのようなやり方があるのか

これについては
古代から現代に至るまで
宗教や神秘哲学、形而上学
多くの方面で伝えられてきた

つまり何千年も前から
人々は苦しんできたのだ
バビロンの栄華な暮らしの中ですら
近所のおばさんに腹を立て
家計のやりくりに不安になり
最近の若者についてうんざりしている

いつの時代も
「もっとお金持ちになったら変わるはず」
「愛する人が出来たら幸せになるはず」
この2大テーマは変わらないが
これはエゴがぶら下げた罠だ

史実に残る例ならば
広大な大地や富を支配した王も
国中のナイスガイを集めた女王も
みな悲惨な人生となった

また、あなたが身体に不調があり
「健康になったら人生が変わるはず」
そう思っている限り
いまと同じ不幸のままとなる

人生の理不尽について
身体の不調を理由にしている限り
それが治っても別の理由を探し出すだろう

ポンコツの軽自動車に乗っていて
いつも周囲の目を気にしているならば
ベントレーに変わったところで
やはり周囲の目が気になって仕方ない

さらにいえば
願いが叶ってしまうことで
その逃げ場がひとつ減ってしまうから
余計に状況は悪くなる
成功すればするほど
不幸の重圧は増し
より苦しめられることになる

ベントレーの次は
何に乗れば安心できそうなのかね
身体の不調の次は
他人のせいにしてみるかね?

車が原因だと思っていた
身体の不調が原因だと思っていた
それはつまり、
車や身体のせいにしていたのだ
だがいまは車も身体の問題もクリアした
なのに依然として不幸はそこにある
あなたは困惑する

一体どこに原因があって
何を解消すれば幸せになれるんだろう?
何を得れば解放されるのだろう?

願いが叶う、とは
要は環境が変わるということだが
環境を対象としている限り
自分がそこにいることになる
不幸の根源とは
自分がいるという錯覚から起きているのだ

自分vs世界の図式が起こり続ける限り
いつまで経っても平安はない
あなたはどこにいても
戦い続けなければならないことを意味する

 

自分をやめる

じゃあどうすればいいのか

簡単だよ
自分をやめることだ
自分をやめて
そこに起きている物事だけに溶ける
つまりエゴの会議を追い払うのだよ
イエスが私欲の商人たちを
鞭で追い出したようにね

エゴがそこにある限り
あなたはいつも不幸になる
エゴは世界では決して
満たされることはないのだ

だからそこで幸せになる必要がある
つまりエゴを捨て去るということだ

話を戻そう
まず根本的な勘違いをやめること

あなたはこれまで
自分が何かを見ている、としてきた
そうではなく
正しくは「あちらも見ている」だ

双方向に見ているとき
「見る」が成立する

そしてそのとき
あなたとその対象は存在の意義を失う
つまりあなたは消える

だが”あなただけ”が見ている限り
あなたは消えない
世界に残されたままとなる

それが苦の原因だ

白いリモコンを見るとき
あちらもあなたを見ていることに
気が付くことだ

そこに気が付けば
「自分」「リモコン」だけではなく
もうひとつの次元が開いてくる

それが「見ること」だ

ここで気付きなさい
「体験だけ」があるのだよ
あなたがそこに対象を見ている限り
延々と苦悩が続くだろう

あなたも対象も実在しないのだ
実在するように見えているのは
あなたの観念
あなたの記憶の再生が
見えているからなのだよ

そこに白いリモコンなどない
あるのは「見る」だけだ

 

体験だけを”体験”する

あなたを含め
あなたが関わる物事は
すべてスクラップだ
外から集められた要素の集合

つまり原子の組み合わせと同じ
そこにそれがあるとき
それは無限のパターンから
そのカタチが生み出される
あなたの観念がベースとなり
それが生まれてくる

あなたの観念が世界を作っている
言い換えれば
あなたが見ているものは
あなたが見ようとしているものだ

それがそこに見えている

腹の立つおばさんがいたら
それはあなたがそう見ているから
彼女がいるのだ

同じことをされても
腹の立たないときがあるかもしれない
それは「腹の立つおばさん」が
想起していないということだ

つまり別の観念になっている

だからすでに起きている観念を
コントロールすることはほぼ不可能となる
腹の立つおばさんに態度を改めてもらおうと
あなたが何かアクションをすれば
状況はより悪化する

なぜならば
腹の立つおばさんという観念のまま
あなたは接しているからだ

そうではなく
「これは幻だ」と見破ることが大事なのだよ

観念を無理して新しい観念に置き換えるよりも
その場を離れること
つまりエゴの会議をやめさせることだ

その方法とは冒頭でも書いたように
「あなただけが見ているのではない」
それに気が付くこととなる

腹の立つおばさんと対峙するとき
あなたは彼女を見ている
彼女もあなたを見ている

これは他者の視点で自分を見るということではない
「他者」を持ち出している時点であなたの妄想だ
それを捨てるのだよ

そこにあるのは、彼女ではない

「見ること」だ

「見ること」の次元が開くとき
あなたとおばさんは消える

これが大いなる意識の自己完結、
つまり本来のあるべき様子なのだ

つまり
ゼロだ

その場にあるメッセージを受け取りなさい
そこで何に気付くべきなのだろうかと
いつも探してみなさい

あなたが消えるとき
そこが人混みだろうと
他者は消える
ただの動く光景と化す

あなたが消えるとき
どんなトラブルや面倒事だろうと
そこにあるのは
ただ体験することだけとなる

 

均衡点を見極める

これまでの話の通り
意識を外側に流すのではなく
自分に向けることだ

「自分が見る」と同時に
「あちらも見る」と気が付くとき
あなたから放たれていた意識は
こちらに戻ってくる
エネルギーはその空間に満遍なく広がる

積み上げられたものは
それが金であれ恋人であれ
すべて不幸となる
つまりバランスを崩すときに
不幸が起こるのだ

何でもそう
仕事なら細部に拘れば拘るほど
時間のロスや疲労が起こり
当初のノルマもクリアできない
逆にやる気がないからと
手つかずのままにしておけば
焦りと不安に襲われる

そうではなくフラット
タオでいうならば中心点を見極めることだ
最もエネルギーが流れるポイントであり
双方向ともにベストな状態が保たれる

金を得ても
恋人ができても
ダイエットをしていても
意識の流量は
以前と同じフラットにしておきなさい

こちらから送るとき
あちらからも送られる
その均衡点に「体験」がある

それが不増不減だ
体験はDoneとなる

意識が双方に満たされるとは
あなたの生全体が光で溢れるということだ
やってみればわかるが
世界があなたをサポートしていることが
感じられるようになる
あなたは自由だったのだ

そこはあなたの中なのだから

 

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  1. 悠久 より:

    今日、夢に出てきた懐かしい音楽を
    起きた後にも聴きました。

    自分が子供のときの曲で、
    音楽にほとんど興味がなかったはずなんですが、身体はおぼえていたようです。
    心がどっか行ったような状態で、
    何も考えてないようで、あらゆることが想起されたのか
    急に涙がどんどん出て止まりませんでした。

    心が過去の自分になっていたような感覚だったかもしれないです。
    我に返ると、家族の顔が浮かび、
    とても温かい感じ、包まれている感じ、それと感謝がわきました。
    とても満たされた感覚で、もう他に何もいらないと思えました。

    人生の意味とか、これまでの体験はどうなるのかとか、この世界に対していろんな疑問も出てきました。
    でも、それらがどうであれ
    この素晴らしく感じる世界の体験を大切にしようとも思えました。

    新しくまた生まれたような感覚です。
    最近は生活が単調に感じていたのでとても新鮮でした。

    • 自分 -涅槃- より:

      悠久さん

      よろしい
      いずれ気が付くときが来るが
      過去は常にいま起きている

      だから人生の意味や
      これまでに積み上げてきたものなどは
      何の力もない

      あなたがいま幸福ならば
      そうなのだ
      それでパーフェクトだ

      そして今日のその出来事
      それは見えなくなった何かを
      意識が呼び戻そうとしているときに起こる

      その感覚を忘れないようにしなさい
      あなたはいつも包まれているのだよ

      焦らず
      触れるものに感謝をして
      静かに日々を過ごしていきなさい

      未来や過去に栄光をみてはならない
      常に「いま幸せだな」というライフスタイルを
      遂行しなさい

  2. あき より:

    うーむ。わからん(笑)

    体験しかなかったと気づくまで
    とりあえず「見る」がある
    「聴く」がある
    と観察していけばいいでしょうか?

    • 自分 -涅槃- より:

      あきさん

      もし何かを得たいのならば
      その参考にメソッドを書いておくよ

      多くの人は世界から孤立している
      孤立の先には不安や恐怖
      あらゆる不幸が巻き起こる

      つまりその「孤立する癖」をやめなければならない

      ただし癖をやめるためには
      その都度、癖に気付く必要がある

      今回伝える話は
      その癖に気付くための前提となる

      ではファーストステップだ

      何かステンレス製のもの
      キッチン戸棚の取っ手
      部屋ドアを固定している金具でもいい

      ステンレス製のもので
      銀色で鈍く光っているもの
      常に固定されているものを探してみよう

      できれば高所にあって
      普段あまり手を触れない箇所のものがいい

      なければステンレスに限らず
      別の金属でもいい
      鈍く光るもので
      あまり手を触れない位置にあるものだ

      誰にも邪魔されない時間に
      テレビを消して
      その前に椅子を置いて腰掛けよう

      そしてただ静かにその金属を見つめる
      自分が金属になったイメージをする

      その質感
      その温度

      金属は普段そこで固定されている
      ただ静かに同じ光景をみている

      部屋の電気が明るくなったりする度に
      金属は光を反射する

      静かにずっとそこにいる─

      そのような感じで
      金属になったイメージを保ってみる

      まあ酒を飲んでいてもいいし
      時間があるときに
      ただボーッと金属を眺める
      5分でも1時間でもいい

      以上だよ

      またいつでも連絡を

  3. 五月雨祭 より:

    勝負を捨てれば勝負は消えるという事。
    現象を上に置き崇めるか世界を信用し任せるかの違い。
    悩む前に放り投げてしまえば終わります。
    願望実現したならその悩みを持ちますか?
    つくづくこの世という奴はこのエントリーのごとくよく出来た自作自演でした。
    まさに「死ねば助かるのに」(漫画の台詞

    • 自分 -涅槃- より:

      五月雨祭さん

      この手記とは話が違ってしまうが
      あなたの定番としているものが
      本書なり
      映画や本、
      そして他者を通じて見えてくる

      だがもしあなたがその見解を
      捨てたらどうなるだろう

      あなたはコメントで
      投げ捨てることで終わると書いている
      その見解すらも捨てるのだよ

      どんな有意義なものであれ
      人道的なものであれ
      そしてポジティブなものであれ
      すべては観念だ

      悟りを開きたくて
      修行僧が修行をしている時点で
      それはほど遠いものとなる

      悟りを開きたくて
      悟りという言葉を浮かべた時点で
      それはほど遠いものとなる

      観念化されたものは
      観念の枠を超えない

      だから方法はひとつ

      観念、つまり
      自分というフィルターを通さずに
      生きることだ

      そこには見せかけの幸せはなくなる
      だがお馴染みの不幸も消える

      つまり「ただの自然」が広がるだけとなる
      草原に咲き誇る花を見て
      あなたは不幸を感じるだろうか?
      彼らは別に幸福でもない

      ただごく自然に
      そこに在るのだよ

      我々人間は
      ごく普通に生きる方法を忘れてしまった
      だから思い出さなければならない
      それは何かを得るのではなく
      積み上げたものを捨てることなのだよ

  4. TKD34 より:

    自分さん、こんばんは。
    新しい記事の更新ありがとうございます。

    今回の記事、個人的にかなりストライクな内容です。
    何者でも無い自分から世界を見ているはずのに、なぜか苦悩が続いていた自分にとって、とても有意義な内容でした。

    仰る通り、今まで僕は「自分だけ」が一方的に見ている状態でした。
    そして、それがいいのだと思っていました。
    でも、傍観して達観したつもりでいたのに、いつの間にかマインドの世界に取り込まれていました。
    世界を見ているつもりが、ずっと、「僕の解釈」を見ていたんですね。

    >そうしてあなたの意識で
    >世界はどんどん光輝いていくが
    >逆にあなたの内側は闇となっていく

    >だから世界はとても魅力的に映り
    >そしてあなたは劣等感に見舞われる

    まさに、その通りです。

    >双方向に見ているとき
    >「見る」が成立する

    はい、僕は「あちらも見ている」を、まったく意識できていませんでした。
    自分さんが何度もそう書いていたのに、そのことが特に重要なことだとは思ってもいませんでした。

    でも今回、この記事を読み「あちらからも見られている」ということの重要性が分かり、実際に目の前のコップで試してみました。
    すると、コップがとても愛おしく感じてきました。
    視線を左に向け、扇風機に見られてみると、扇風機も愛おしいのです。

    どこに目を向けようとも、世界と愛おしさだけがありました。
    そこに自分が入り込む余地などありませでした。

    薄っすら自分はいるけど、そこに参加してはいないという感じでしょうか。
    なんか、自分が溶けちゃったような感覚です。
    これを人とのコミュニケーション中も維持できたら、楽だろうなーと思いました。

    変な表現ですが、自分がいないと自分も心地いいですね。
    自分も楽になりますね。
    いま、言い知れぬ安心と幸せな感じだけがあります。
    この感覚のまま、しばらく世界に流されていこうと思います。

    自分さん、ありがとうございます。

    • 自分 -涅槃- より:

      TDK34さん

      >どこに目を向けようとも、世界と愛おしさだけがありました。

      ほお
      正直なところ驚いているよ

      実はこの手記は連載にしようとしていた
      それはあなたが体験したように
      自分に意識が灯ることで
      世界すべてからの祝福が起こる
      それを伝えたかったからだ

      だがこの手記だけでは
      まだまだ役不足
      だから序章的な書き方をしたつもりだった

      あなたのレスポンスは
      非常に嬉しいことだ

      明日、その意識のまま
      外を歩いてみなさい

      最初のうちはすぐに内側の光が消えてしまう
      だから自分なりのコツが必要だ
      言葉でもいい
      何かその切っ掛けとなるようなものを
      作ることを勧めておくよ

      いずれ
      「単に意識が前後するだけ」の
      コントロールができるようになる

      とにかく最初のうちは
      日頃の状態に戻ってしまうことに
      気が付くことだ

      それは癖のようなものだ
      習慣がすべてを克服する

      こちらこそありがとう

    • TKD34 より:

      自分さん、コメントありがとうございます。

      早速、携帯に「見られていなさい」のメッセージ付きのアラームを、数時間置きにセットしました。

      そして、昨日今日と、この意識のまま過ごしてみました。
      穏やかな気持ちは継続中です。
      心なしか、人から優しくされる機会が多くなったような気もします。

      なんかこの方法って、ダグラス・ハーディングの指差し実験に近いものを感じます。
      いろんなことに手を出しすぎて、最近混乱していましたが、僕には「意識の矢の向きを前後させる」というようなアプローチ方法が合っているようです。

      「すべてが愛おしい」という感覚は起こったり去っていったりします。
      苦手な人や状況を前にすると、まだ苦手だという感じは起こってきます。
      にも関わらず、同時に平穏な感じも背後に存在しています。

      「見られているを意識する」
      習慣になるまで続けていきます(^ー^)

    • TKD34 より:

      見られていることを意識している中で、個人的な気づきがあったので報告させていただきます。

      結論から言うと、「見る」だけでなく「見られる」だけでもなく、「お互いが見つめ合っている」という感じが、僕の場合一番いい按配のようです。

      見つめ合うことで、両者の対立が解消し調和するのか、自分さんがよくおっしゃる、「体験がdoneとなる」という感じになります。
      物理的な現象(に反映されている観念)はもちろんですが、思考感情も見つめ合うと、ただ起こって去っていきます。

      「起こっていることと見つめ合う」→「体験が終わる」
      ただこれだけが起こっています。

      見つめ合うを意識してから、起こったことに対して、尾を引きづらくなりました。記憶を反芻したり、予測を立てたりもしづらくなりました。

      ようするに「アホ」になりました。
      でも、アホの方が気楽なので、しばらくはこのまま過ごしたいと思います。

    • 自分 -涅槃- より:

      TDK34さん

      そうそれでいい
      まさにアホでいいのだよ

      アホであるとは
      本日到着した異星人のことだ
      つまり地球上のあらゆる概念を知らず
      一切のルールに囚われない「自由」のことだ

      では異星人は地球で何を感じるのだろう?

      それは体験のみだ
      だが彼の2回目の渡航ではそれが薄れてしまう
      なぜならば「ベガスにいけば楽しい」と
      知ってしまっているからだよ

      楽しさを求めて行動するようになる
      それが人類が陥っている不幸というものだ

      寝床の確保のため、食料のために働いている
      それは食べる為、眠る為に生きているということだ

      そうではなく
      生きるために食べるのだ
      生きるために眠るのだよ

      「生きる」が文章の主体となるとき
      あなたは再び初回のエイリアンとなる

      いつも人生に冒険を起こしなさい

  5. サボ より:

    自分さん

    私は相変わらずわかりません

    >自分に意識が灯ることで

    これは以前の「内側に意識を灯す」ということと同じだと思いますが、どういうことなのかがよくわかりません。
    もう少し教えていただけますか?

    • 自分 -涅槃- より:

      サボさん

      あなたが疑問に感じて
      私に質問をする

      あなたにはどういう作用があるのかといえば
      マインドが納得を求める姿が起きている

      ではあなたが質問をせず
      感じた疑問をそのままにしておくとき
      マインドは騒ぎ出すが
      出来事はその通りそこに残される

      これが質問の答えだよ

      「質問」や「疑問」は
      いつも一方通行だ
      あなたから外側へ意識が放たれる

      だから意識が減った分
      あなたはその補充がしたくなる
      それが渇望だ

      いいかい
      質問や疑問が起こるのは自然なことだ
      だが
      その一方性をやめなさい
      つまり、疑問が起きているとき
      疑問の側もあなたに触れていること
      それを感じなさい

      今回の話でいけば
      あなたは私の手記を読み疑問を感じた
      同時に
      手記はあなたの目に触れ疑問を与えた
      その相互の均衡点にあるのはゼロだ
      互いに消化される

      つまりそこには「疑問が起きたこと」が
      ただあったのだ

      それが「自分に意識が灯る」ということだ
      日頃のあなたは内側が闇となっている
      外部に意識を向けすぎて
      光が灯っていないからだよ

      幸せそうな人を探してみなさい
      彼らはあなたほど
      外のことはどうでもいいように見えるはずだよ

  6. より:

    涅槃の書の更新を楽しみにしている時点で意識が外部に向かっている訳で、その間、自分が暗闇にある。他人に光を見てますね。
    でも、他人も自分なんですよね。
    うーん。…

  7. より:

    「見る」がキーワードなのですね。観念的な存在でも同じでしょうか。私が涅槃の書を読むならば涅槃の書も私を読んでいる?
    例えば、聖書とか聖人の書物を読むと、元気になると言うよりは、なんて自分は駄目なんだろう、至らないんだろうと反省の念が生まれて、かえって疲れると言うような現象があります。
    宗教にはまっている人は、元気がない人も多い気がします。
    それは、神や経典に意識が向かってしまい、エネルギーが吸いとられているからと考えると納得できますね。
    マザーテレサも晩年「神は無言である」とすっかり鬱になっていたと言う話もあります。
    もし、神に祈る時、神もこっちを見ているのであれば、エネルギーは循環しますが、祈りっぱなし、永遠の片想いでは疲れはてても不思議ではないですね。

  8. より:

    見ると言う現象に関して。
    次元が違う話かもしれませんが、
    壇上でスピーチするときなどは、逆に、見られていることを意識しがちで、見ることを忘れてますよね
    この場合もエネルギーが一方通行になっているため、そのようなときは観衆をジロリと一瞥すると、意識の流れがフラットになり、落ち着くような気がします。

    • 自分 -涅槃- より:

      鯤さん

      >私が涅槃の書を読むならば涅槃の書も私を読んでいる?
      そうだよ

      そもそもあなたが認識している時点で
      そこにあなたと対象がある

      以前何かの手記でも書いたが
      前進しているとき

      あなたの意図から
      身体は一歩前へと歩く
      そして同様にその意図から
      風景があなたへと一歩前へ来る
      その均衡点をみるとき

      あなたは「進みながらも静止している」ことが
      わかるだろう

      机に指を置いてみなさい
      机の感触もそうだが
      指の感触もわかるはずだ

      蟻を腕に歩かせてみなさい
      蟻の感触と同時に
      あなたの腕の感触がわかる

      原理的には机や蟻にしかわからないものが
      なぜあなたにわかるのだろう?

      それは体験だけがそこにあるからだよ

  9. ONEPOINT より:

    >体験はDoneとなる

    涅槃の書でたびたび出てくるこの表現が全くわからなかったのですが
    自分と向き合っていたらDoneとなっていないことが
    苦しみとなって私に教えてくれてるのだと思いました。

    • 自分 -涅槃- より:

      ONEPOINTさん

      体験だけがある

      それは紛れもない事実だ
      あなたから体験を外すと
      何も残らなくなってしまう

      では体験者とはなんだろう?
      彼は実在するのだろうか?

      そして対象物とはなんだろう?

      体験そのものが消えるとき
      体験者も対象物も
      その存在を失う

      体験があり
      五感が具現化、つまりヴィジョンを起こす
      大事なポイントは
      あなたの象徴とするものが想起されるということだ

      無論、あなたも想起された後のものだから
      少し理解が難しい

      常に軌道修正をすることだよ

      0.1%でも軌道を変えることができれば
      あなたの人生は大幅に変わる
      起こる出来事はすべて変わっていく

      これについては
      またいずれ手記にするよ

  10. 爽やかハンサム より:

    今、パソコンの画面を見ている。

    そこから目をそらして左を見る。
    その時点でパソコンの画面はゼロとなる。
    存在していない。

    窓越しに外の風景が見えた。
    そこに「窓越しに外の風景」が誕生したのを見た。

    また目を元にもどす。
    パソコンの画面が誕生したのを見た。

    それは、「いつも新しく」1秒前のモノとは違っている。

    今度は「窓越しの風景」は存在していない。
    風景は無くなった。

    過去は存在しない。

    しかし、
    私は普段から「記憶」を持ち歩いてしまっている。

    目を戻すと「そこにはいつものパソコンがある」という記憶。
    そしてパソコンとはこういうものだと言う観念。

    その「記憶と観念」で、私の世界が構成されてしまっている。

    その「記憶と観念」が「ヴィジョン化」されている。

    だから「観念」が変われば印象が変わる。
    よく女性が「これ見て~ めっちゃかわいい♡」っていうやつ
    (私にはあまり可愛く見えていない)
    この違い。

    でも、
    そこにパソコンが置いてあるという記憶、
    パソコンとはこういうものだという観念を外せば、
    「まっさらなモノ」となる。
    それはいつも新しい。

    記憶、観念を見るのではなく
    「まっさら」を認識する。
    そのまっさらが「それ」。

    それは、まっさらな「それ」ばかりの世界だ。

    ≪上記の文を書きかけで出かけた≫

    で、まっさらで見る。
    「見たら 新しいモノが見えている」
    さらに「向こうも こちらを見ている」 をやっていたら

    まるで、「私のため」に用意してくれているかのような「風景」がそこにある。

    私の為に用意してくれてありがとう。

    泣きそうになる。

    それが続いて行く、、、

    信号で止まる。

    正面に新しいマンションの建設予定地にある看板が目に飛び込んで来る。

    「パークホームズ神戸 ザ レジデンス」

    中谷美紀が流し目でこちらを見ているのと「ビンゴ!」で、目が合った。
    ドキッとした。

    私を射ぬくような目で微笑んでいる。
    双方向。

    「やっと気付いたのね あなた ふふふ」

    ありがとう。
    泣けた。

    • 自分 -涅槃- より:

      爽やかハンサムさん

      そう、それでいい
      中谷美紀のあたりはまさによく起こる

      そろそろどうかね

      すべては自分の心が起こしていることに
      気が付いてきたかね?

    • 爽やかハンサム より:

      いつも、ありがとうございます。

      う~ん まだ腹の底から解りません。
      作文ばかり作らずに「今」にいなければ。笑

      昔、べらんめえ口調で大声で怒鳴っている人が近くに引越してきて、嫌だな~っと思った事がありました。

      その時は、グローバルエリートの存在を知ってガクガク震えていた時だったので、同じ周波数同士で私が呼び寄せたんだなと思っていました。

      でもあまりにもしつこいので、「この出来事(べらんめえ口調の怒鳴り声)は、上から自分がやっているんじゃないか?」と思った事がありました。

      で、上向いて「はっは~ん さてはあなた やらかしてるな」って言ったら、すごく楽になったのを覚えています。
      正解だったのでしょう。

      その時は本当にそうだと納得してました。

      それから、べらんめえのおじさんも居なくなったので、普段の出来事も「自分がやらかしてる」っていう事を忘れていました。

      で、この前、「見たら 見える」。
      「それが応えるということだよ」という事を教えていただいて、ハッとしました。

      そうだそうだ、それが応えるだ。 
      わたしに私が応える。
      何も特別な事ではないんだと思いました。

      わたしが創って私が応えている。

      最近、部屋に置いてあるものから「ザワッ ザワッ」としたものを感じる時があります。
      「ここに居るぞ」って感じです。

      で、ここからです。

      「もやっとした何か」や「感触」を、「私=記憶と観念」が翻訳して、それを体験している。

      そして「私のボディ」ですらもそこに登場させている。

      頭で考えてしまっていますが、百聞は一見に如かずなので、それが見たいです。

      いつもコメントさせていただいてる「私の作文」が合っているのかハラハラしますが、「涅槃の書」は楽しいですね。

    • 自分 -涅槃- より:

      爽やかハンサムさん

      いや、それでいい

      すべてあなたの世界なのだ
      だから何がどうであれ
      それでいいのだよ

      あなたが疑問ならば
      そこに疑問があるだけ

      大事なのは
      疑問から解決を探そうとしないことだ

      それは真実ではない
      真実とは「疑問」がそこにあるということだ

      そこに子猫がいるならば
      それは子猫なのだ
      ただ無邪気な子猫なのだよ

  11. より:

    周囲のものを見る事になれていると、環境に「見られている」と意識することは新鮮な感覚があります。
    その瞬間、普段意識していない、「見ている主体」が意識されます。
    すると、部屋の中がぐにゃぐにゃ歪む感覚が起きました。
    今まで気にもとめなかったが、奥行きが不自然に歪んでいるし、ゆらゆら揺れたりしている。
    それは、この部屋が(世界が)私の内部にある映像だからでしょう。
    病気になると、実際(@_@)グルグル揺れますよね。
    単に目眩がしてるだけだと言うものの、目眩の影響を受けない虚像でない世界に出られないのであれば、私に取ってはそれがすべて。
    やはり虚像に住んでいることになる。
    子供の時に感じていた感覚。
    家の床が海面のように細かく上下してますね。
    普段、観念的に見ているから、そんなヘンテコな現象は見えてない。床はきっちり固まっている。
    しかし、子供の時は、海面のように揺らいで見えていたような気がする。

  12. より:

    しつこいようですが、よく見ると、スマホを弄っている指先は、透明に分裂していますよね。
    ええ、普段は、遠近感のマジックで、目が二つあるから当たり前だろと気にも止めず、観念補正が働いているわけですが、今、まじまじと自分の目の前が見えたら、余りの事にプッと吹き出してしまいました。
    手の位置が確定されていないw
    なんじゃこりゃ。目茶苦茶だな。
    と。

  13. より:

    外に出て交差点の前に差し掛かり、赤信号に瞑想してみました。
    すると、雨の中、ぼんやりと細かい光を発する信号の赤色が飛び込んできて、次の瞬間、雨に照らされて、交差点全体が真っ赤に怪しく光るその光景に戦慄を覚えました。さらに次の瞬間、信号が一斉に青に変わるのを見ては、思わず吹き出してしまうのをこらえきれません、もはや赤が止まれなのか青が止まれなのかも分からなくなり、横断歩道の真ん中で立ち往生してしまいました。
    これがまさに、自分さんの言う、たった今地球に降り立った宇宙人の視点ですね。
    その後は買い物を済ませて、家に帰りましたが、うまいこと瞑想の境地には入れませんでした。
    今は観念世界の中に居ます。
    観念の世界の中で観念の弁当を食べています。
    面白いことに、観念世界の方がカチッと安定してるのですね。
    弁当は予め知ってる弁当の味がします。観念世界だから知ってる通りに結果が出ます。
    恐らく、この弁当(冷たい肉そば)に瞑想すれば、それはもはや弁当の体を成さない何か別次元のものとして現れるのでしょうが、
    誘惑に勝てないので、あえて観念に止まります。
    ただ、観念世界以外の世界を見ると、観念世界に居るときに、自分が観念世界にいると自覚できるのは強みですね。

  14. 爽やかハンサム より:

    ダヴィンチの「モナリザの微笑み」は、「それ」を表現しているのかもしれない。

  15. 自分 -涅槃- より:

    鯤さん
    爽やかハンサムさん

    私の話だが
    幼少の頃から冷めているような視点はあった
    ごく普通にそれはそこにいた

    例えば悲しい出来事があるとき
    悲しんでいるフリをしているような感覚だ

    実際には悲しんでいる

    飼っていたペットが死んだとき
    声を上げて涙を流した
    あまりに悲しかった

    だが「悲しい」とは
    それまでに培われてきた知識ゆえの反応であり
    その「反応をしようとしている自分」を
    冷めた目で観ている何かがいた

    それは普通のことだと思っていたし
    その「見ている自分」と「泣いている自分」が
    同時にそこにいた

    子供の私はそのことについて考え出すと
    じゃあ本当に悲しいことはないのだろうか?
    感情とはなんだろう?
    少しひねくれた子供になっていたのかもしれない

    だが実際はそうなのだ

    人々は誰も同じなのだが
    多くの場合、泣いている自分に同化しすぎて
    それが見失われている

    我々の感情とは
    反応に対する引き出しの中身でしかない

    その「中身」を取り出すまでのタイムラグがあるほど
    あなたの中でそのメカニズムが見えてしまう
    まるで人形劇の裏側を見ているような感覚だ

    今でもこの文章がすーっと浮かんできて
    それをタイプしている自分を見ている
    いや、正しくは
    「〜自分を見ている、という何かを察している」だ

    あなたが誰かと会話をするとき
    一切のマインドを止めて
    反応だけに委ねてみなさい

    驚くほどに
    的確な会話が成立する

    これはあらゆる仕事、あらゆる状況でも同じだ

  16. より:

    泣いている自分や環境を覚めたもう一人の自分が見ているって経験を、私も、確かに、子供の頃から感じていましたが、
    自分さんは常にその冷めた側の自分視点で行為しているのでしょうか?
    例えば、さっき、洗濯機を修理していたのですが、集中して行為しているときって、冷めた自分すらも消えていますよね
    洗濯機の故障に対応するのめんどくさいなと思いながら放置していたのですが、この記事を読み返し、「マインド捨てて反応に成りきろう」と思った瞬間、行為が起きて、気が付くと洗濯機が直っていました。これが自分さんが言うdoneかな。
    人生を停滞させている原因ってこの「めんどくさい」によるものですが、めんどくさいことをやろうと意識すると、逃避行動に反転する。
    この場合もマインドを捨てて反応に任せると、自動処理し始めるのかもしれない。
    請求書なども見なきゃと思うほど目を背けてしまうが、意を決して見るときって、必ずマインドが捨てられている。

    • 自分 -涅槃- より:

      鯤さん

      例えばこのコメントを書いているとき
      思考を介していない

      移り変わる光景が
      ただ起きている

      もちろんそれを何らかの表現にしようとすれば
      思考を使う

      だがことの起こりを追い続けていれば
      何もかもが勝手に起こっているだけだ
      グラスの中で氷が溶けるように
      私は何もしていない

      だが何をしているか?と尋ねられれば
      「コメントを返信している」と答える

      洗濯機の話だが
      それがまさにそうだよ

      冷めた自分すらも消えている、と
      あなたは表現するが
      私は言葉で書くときに
      それをそうだったと表現するだけであり
      冷めた自分を常に意識しているのではない

      これも言葉の表現となるが
      私の目の前には
      いつも何もない

      いま洗濯機が直っている
      それはあなたがやったのではない

      いま気が付いたらそうなっていたのだ
      もちろん記憶が残っているだろう
      それも残っているのではなく
      でいま起きているのだよ

      そもそも洗濯機は壊れていなかった

      誰もが人生の不可解に気が付くときがくる
      なぜならば
      自分は何もしていなかったからだ

      グラスの中で凍りが溶ける

      あなたはそれを見ているだけなのだよ
      「めんどくさい」と思考している光景ですら
      勝手に起きていることをあなたは見ているだけだ

      もっと奥がある
      そこまで到達しなさい

      自分が不死の存在であることを
      悟りなさい

  17. 水彩画 より:

    自分さん、ありがとうございます。

    世界で起きるものごとに囚われると、
    そりゃわざわざ抵抗もするだろうし、難しく捉えることになりますね。

    いつも観念に魅了され、それを価値のあるものとしてきた。
    価値のあるものとしてる以上、輪廻から全く抜け出せなくなる。
    肩まで泥沼に浸かって踠いてる状態ですね。

    宗教家や思想家のさまざまな幸福の教えも、

    「エゴに気づきなさい」だとか
    「神を思い、神の御名を唱えなさい」だとか
    「自分を愛しなさい」だとか

    そんな情報が「自分」に発生しただけ

    それらの情報を「自分を変えてくれるもの」と
    ありがたそうに受け取ることで観念に変わり、
    そんな観念世界を自分が見ている状態になります。

    『涅槃の書』の情報でさえ、それが観念に変わってしまうと、
    観念世界の『涅槃の書』が起きてしまいます。

    人と関わっている時に他者が伝えてることに対して、
    「この人はマインドに囚われて話をしているな」
    「あなたの言ってることはあなたの世界だけの話だ」

    というふうに『涅槃の書』の情報という観念を、
    人との関わりの中で、フィルターのように無意識に通してしまい、
    それに基づいた解釈や思考をしてしまいます。

    だから、観念は本当に意味のないもので、
    自分さえやめれば、どんな出来事も溶けていく。

    人間関係で起きる他者の自己主張も、
    その自己主張を意識してる自分に意識を向ければ、
    観念による妄想がなくなり混乱がなくなります。

    理解が進みました。
    不安なことや欲望は起きてますが、灯せば明るくなります。

    ありがとうございます。

    • 自分 -涅槃- より:

      水彩画さん

      そう
      あなたはいまこの文章を読んでいる

      いいかい、
      私が書いたのではない
      あなたが読んでいるのだ

      そこに気が付けば
      世界が一変する

      あともう少しだよ

  18. A より:

    自分さんこんにちは。
    見るに関して、なんとなくこれかな?と感じたのですが、『自分が見ている時』の自分は、マインドから離れてる方の自分で、『あちらも見ている』がイマイチピンとこないのですが、あちらがマインドじゃない方の自分を見れた時、マインドが消えてるって感じですか?
    だから単に意識が前後するだけってこと??
    うっすらマインドじゃない方に焦点が合った時はなんとなく心地よいような、まだ良く分からないような。外を歩いてる時やってみたらこれかな?と思ったんですが…
    家でやると迷路です。またやることにします。
    Doneは良く分かりません…

    • 自分 -涅槃- より:

      Aさん

      こんにちは

      目の前の何かを見てみなさい
      コップでも椅子でもいい

      いつものように見てはだめだよ

      普段のあなたは
      あなたが見ているからだ

      そうではなく
      椅子があなたを見ている

      それに気が付きなさい
      あなたが見ているのではないのだよ

      あなたはいままで
      自分が何かを見ているとしてきた

      そうではない
      何かが見えるとき、それは
      あちらがあなたを見てきていたのだ

      五感のすべてがそう

      換気扇の音が聞こえるならば
      あなたが聞いたのではない

      あちらが聞いているのだ

      これを理解しなさい
      よく考えなさい

      あなたが歩いているとき
      ずっと静止していることに気が付くだろう

      気が付いたとき
      世界に愛が起こる

      それが本当のあなただよ

  19. より:

    もっと深い意味があるかもしれませんが、「そもそも洗濯機は壊れていなかった」は文字通り事実で、勝手に壊れている洗濯機と見ていたので、壊れている洗濯機だっただけで、ちゃんと様子を見たら、フィルターにゴミが詰まっていただけで、壊れてすらなかった。壊れていると見たのは思い込みだった。
    これは、物だけではなく、人間関係でも同じかも知れませんね。

    • 自分 -涅槃- より:

      鯤さん

      よろしい
      その通りだ

      すべては意味付けにより
      世界が想起する

      突然の出来事に人々は
      感情やら連想的な妄想を沸き起こす

      だからそこにあるシンプルな事実が見えなくなる

      すべては単なる出来事なのだ

      壊れる、とはその知識をもって
      解釈したに過ぎず
      過去や未来を投影している

      そうではなく
      そこにただそれがあるのだ

      あなたがそうして事実だけを認めて
      生きていくとき
      世界はあなたのものとなる

  20. より:

    私が会社に向かうのではなく会社が私に向かってきて、私が得意先に向かうのではなく、得意先が私に近付いてくるならば、私は今日一日一歩も動いてないですね。

    • 自分 -涅槃- より:

      鯤さん

      そうではない

      あなたが向かうとき
      その意図はあちらも向かっている
      だから何も動いていないのだよ

      ゼロだ

      意図だけがあったのだ

  21. より:

    スピリチュアリズムの達人達が口を揃えて言うのは「全てを見ている不変の自分がいる」と言うことですね。もし、その自覚があればきっと、洗濯機が勝手に直るのを見てます。
    しかし、 そこまで観客に成りきれないので、状況を、エゴにとって少しでも良くしようと、億劫ながら努力しようとしてしまいます。
    もっとも、ギリギリまでやらないんですが。

  22. より:

    世界に見つめられ、包まれるとは、例えば、休暇中などに、なにも考えず、大自然に囲まれて伸び伸びしている感覚でしょうか
    人混みにいるときや職場などでも、大自然に囲まれてると思えば、視線をキョロキョロする必要もないし、ゆったりと、きもちよく、日常を送ることができるでしょうね。
    部長の怒鳴り声も、大自然の音だと思えば、なかなか趣きがあるかもしれませんね。
    それは紛れもなく大自然の動きなのだから、区別しなきゃ、区別はないのですがね。

    大自然と言えば、野生のライオンを威嚇して、猫のように扱う少女がいましたが、ライオンの観念が常人とは違うのでしょうね。
    猛獣と言う観念や恐れがないと、猛獣すら襲ってこないのでしょうか
    猛獣に襲われて怪我をするのも、一種の自作自演なのでしょうかね。

    • 自分 -涅槃- より:

      鯤さん

      >「全てを見ている不変の自分がいる」
      言葉にすればそうなる
      そう成らざるを得ない
      だが正しくはそうではない

      先ほど、別の方に
      DVDデッキの喩え話をした

      引用してみるから
      あなたも理解してみなさい

      >そこに椅子がある
      椅子はあなたを通じて
      椅子であることを完了する

      あなたがいなければ
      そこに椅子はない
      椅子が椅子であろうとする起こりもない

      だが椅子が自己完結するだけで
      あなたの出番はどこにもない

      いるいない、の性質のものではないのだ

      いわばDVDの内容を再生させるデッキだ
      デッキだけでは内容がない

      DVDが挿入されることで
      DVDが放映される

      だがデッキは?

      彼はどこにいるのだろう?

  23. より:

    DVDの内容とデッキは、次元が違うので、DVDの内容にデッキは映らないですよね。つまり、この感覚世界を探してもデッキは見つからない。

    ♪探し物は何ですか
    見つけにくいものですか
    鞄の中も机の中も探してみたけど見つからないのに

    原理的に見つけようがないものを探しても仕方がない訳で、もはや踊るしかないのでしょうかね

    • 自分 -涅槃- より:

      鯤さん

      そう、見つけるものではないのだ
      ただそこに在るという質のもの

      例えばその陽水の歌が
      何かを示している

      歌も、それを聴いているという人も
      DVDの映像の中で探し回っている

      映像の中を探そうが
      決して見つからない

      途方に暮れる

      あなたはデッキを知っている
      その映像の中の様子を見て
      ただ笑っている

  24. ワモノ より:

    連投申し訳ありません

    今日は過去のトラウマがぶり返してしまい、怒りや悔しさや惨めさが身体中に充満していました
    こういったネガティブな感情は本当に苦しく、とても今に在ることはできませんでした

    私は自分が思っていた以上に他を圧倒することに執着していたようです
    幼い頃からそうでした。負けず嫌いとは違うんですが何かで負けたとき、負けたと思ったとき、失敗したとき、身を焦がすような悔しさと惨めさに襲われます
    この感情は異常に強力で、これを感じたくないがために今まで勝負事をさけ、何かに挑戦することを避けてきたように思います
    ですが、心のどこかでは相手と自分を比べ、勝手に敗北して人知れず打ちひしがれることも少なくありませんでした
    エゴを捨てれば解決するとも思ったんですが、勝手に反応するエゴに囚われ捨てることが一向にできません

    >簡単だよ
    自分をやめることだ

    私にはこれが一番難しいです
    ただ修練が足りないだけかもしれませんが

    • -自分- 涅槃 より:

      ワモノさん

      釈迦は苦悩を脱するためには
      どうすれば良いか
      それを求めて修業に出た

      何人かの師に付いたが
      彼らが教えたのは
      「思いを捨てれば何もない」だった

      確かにそうだ
      思考を捨てれば物事は意味を成さない
      意味を成さないということは
      あらゆるものが概念であることを
      見通したということ

      それらはそこにあるが
      そこには何もない、
      つまり「空」の境地となる

      だが釈迦はそれでは納得がいかなかった
      単なる現実逃避だからだ

      大事なのはここだよ

      私たちが生きているのは
      考えたり
      行動したり
      そういうことができるステージだ
      それを「現実」という

      つまり現実あってこその「私」なのだ
      現実がなければ
      あなたはそこにいない

      「空」という永遠があり
      そこに現実という幻想が起きている

      一度すべてを悟った上で
      現実をもう一度見るとき
      全部自分に包まれていたことを知る
      星も空も風も人々も
      すべて自分だったのだとね

      そこまで到達しなさい
      命がけでやらないとだめだよ

  25. 明子 より:

    はじめまして。

    たくさん読ませていただきました。

    いろいろなところを、赴くままに。

    ここに連れてきていただきました。

    この私というものは、DVD再生のためのデッキなのですね。
    デッキがなければ、再生できない。
    見るためには、聞くためには、感じるためには、デッキがなければならない。
    この機械を通さなければ、観ることができない。
    DVDを観れているということは、デッキがそこにあるからですね。
    一つのDVDのお話しにつき、一つのデッキ。
    観ているものはひとり。。その瞬間に、すべてを同時再生。。かな。

    • -自分- 涅槃 より:

      明子さん

      はじめまして
      そう、デッキとはそこにないものだ
      私たちの存在自体が
      DVDの内容に縛られているから
      デッキの存在を
      見ることはできない

      ゆえに「現実」からは
      「無」という扱いになる
      すべての可能性を
      差し出すことのできる空間
      大乗仏教でいうところの「空」だね」

      だから空に到達すれば超越があり
      そこから現実を見ることで
      すべてに愛が起こる

      生も死も
      幸も不幸も

      何もかもが
      私たちの一部分だったのだとね

  26. ユージン より:

    どうして自分は生きているんだろうか、行動には移したくないけど死にたいなと、思って「自分のやめかた」と検索したら、このサイトに出会いました。
    この本文を読んで、たぶん、イメージ的に操り人形のように自分を眺めるのだと思いました。

    • -自分- 涅槃 より:

      ユージンさん

      そう最初はこれまでの自分というものに
      距離を置くことだよ

      現時点でのあなたは思考と感情の集合だ

      他者や社会と関わるとき
      それらによって
      思考が引き出されている

      だがその過程を”見ている”とき
      あなたは思考や感情ではない

      見えている目の前でそれらが生み出され
      そしてスルスルと引っ張られていく様子がある
      つまり自分とは
      何か別の立場の存在であることを知る

      誰かが気に障ることを言ったとき
      あなたは感情が湧き起こり
      そして”その感情通りにやらなければならない”と
      思い込んできた

      それは何のゲームなのだろうか?

      食事をしていても
      仕事をしていても
      遊んでいても

      あなたは体が触れているそのことに存在せず
      いつも他のことを考えている
      そこじゃない世界を漂っている

      あなたはそこにいるのだよ

      漂っているのはあなたではなく
      単なる風景だ

      自分自身を生き始めるとき
      「自分をやめる」ことができるだろう
      それはあなたが世界の先頭であることだ
      時計の針先になることだよ

  27. ただの思考 より:

    鯤さんへの回答に以下のようにあったため試してみました。
    確かに机と指の感触が同時にある感じで不思議でした。

    『机に指を置いてみなさい
    机の感触もそうだが
    指の感触もわかるはずだ

    原理的には机や蟻にしかわからないものが
    なぜあなたにわかるのだろう?』

    また、見ると同時に見られているも意識しました。
    ※意識すると言っても無理やり向こうにも見られているという思い込みですが。
    するとこちらも不思議な感じがしました。
    例えばポスターを見た瞬間に「ポスター」という名刺がすぐに思い浮かびませんでした。
    今までは「○○のポスター」だなと何の気なしに思ってたと思います。
    少し恥ずかしい感じで今までにない感じがしました。

    • -自分- 涅槃 より:

      ただの思考さん

      人は世界の中で自分が生きていると錯覚している。生まれたばかりの頃はそうではなかった。自分の中に世界があったのだ。だが言葉を覚えるにつれ、どんどん分断され、そしてとうとう世界の中で孤立してしまった。

      だがいくら錯覚しようとも真実は常に真実だ。

      何かを見れば、あちらもあなたを見ているし、何かに触れれば、あちらもあなたに触れている。

      つまりこちらもあちらもなく、その関係性だけが実存として在るのだよ。それが本性なのだ。

      あなたが本性を思い出すとき、世界が外にあるだとか、内にあるだとか
      そういう方便も必要がなくなってしまう。なぜなら、意図が常に叶い続けている様子が「ここ」だと悟るからだ。

      その「叶われた中に」世界や自分がただ現象として起きているだけであり、それは己とはまったく関係のないものだとわかる。

      本性のことを真我やら仏性やら言うが、あなたは常に自分自身に守られている。なぜなら、どこまで行こうとも「自分の中」だからだ。それ以外の場所はありえないのだよ。

    • ただの思考 より:

      ご回答ありがとうございます。

      見られているというのは最初は無理やりでも思い込むということで癖付けるということで大丈夫でしょうか?
      自然にそう思えるようになるまでですが。

      あと、首から下の体に聞いてみるということを言われていますが、意識を向ければ何かしらサインが起こるということでしょうか?

      よろしくお願いいたします。

    • -自分- 涅槃 より:

      ただの思考さん

      今回の手記はあなたに必要なものとなる。すべてはあなたの想像力、つまり「思い込み」で世界は見えているのだよ。それを生かしなさい。

      >首から下の体に聞いてみるということを言われていますが、意識を向ければ何かしらサインが起こるということでしょうか?

      逆だよ。何も「当て」にするものがない状態でありなさい。思考は過去を参照する。それは足掛かりがないと何もできないからだ。ゆえに「足掛かり」が未来を決めてしまう。あなたが限定的な人生を歩んでいて、そしてそれを変えたいなら、何もないところに足を伸ばしなさい。

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