A子の手記

「ああそうそう‥」と懐かしい思い出を
会社の同僚に話してみたけど
素っ気ない返答をされた

結構大切な思い出話だったんだけどな

今日はメイクがいい感じだから
少し遠回りしながら歩いたけど
ほらね、誰も見向きもしない

心は期待だらけで
その反応が薄いと疲れ果てる
よけいに求めてさらに疲れ果てる
でも期待に応えてもらえることが満足?
それが虚しいことだってのは
わかってる

でもなんでやってしまうのだろう
ほんのちょっとでも
嬉しい気分を味わいたいから?

街を歩けば人目が気になる
求めてるのに怖い
求めるから怖いのか
なんだかんだで期待だらけ

嬉しい気分になりたい
ちょっとぐらい
楽しませてくれてもいいじゃない
そんな様子でいつも求めている

ネットの情報に感化されて
始めようとした趣味だってそうだ
束の間の喜びだった
仲間がいれば続くかもしれないとか
思ったりもしたけど
この感じじゃそうでもないのだろう

実際、これが苦しみなのだろう
スピリチュアルなんかでいわれる
「苦」ってやつだ
だけども求めてしまう
そこに解決がないのは
理屈ではわかってるけど
じゃあ他になにをしろというの?

人生の何を楽しめっていうの?

 

2

少し前までは仕事を探すことで
大変だった
貯金もわずかだったし
面接で使う写真代も痛手だった

お金がないから仕事をするのに
なんでお金を払わなければならないのか
この世は矛盾してる

「当社を選んだ動機はなんですか?」

あんたのところが
お金がもらえ易そうだったからです
そんなの決まってんじゃん

仕事ってお金をもらうためでしょう?
なんか間違えてるのかな

早く私を助けてくださいな
このままだと生きていけない
社会に殺される

仕事が見つかれば
もうなにも苦しみはないと思ってた

だいたいちゃんと勤め先があるのに
サービス残業がどうだとか
そんなことで悩むのは
贅沢の極みだと思っていた
お金もらえて支払いができるなら
それでいいじゃん
他になにがあるっていうのか?

だけどもいまは
自分の自由がないことに
息がつまりそう

自分はこんな会社のために
生まれてきたんじゃない

一瞬で過ぎていく休日
気疲れする上司や同僚

早く家に帰りたいけど
帰ってなにするの?

 

3

瞑想をひとつ覚えた
「見ていく自分」ってやつだ

思えばずっと「見られてる自分」
というのが当たり前だった

子供の頃からそれを前提に生きていた

「ひとの気持ちになって考えなさい」
そんなことを教えられてから
客観的な自分像がいつもあるようになった

コンビニで買い物をしていても
自分が外からどう見えているかが大事

変に思われるんじゃないかとか
ほら私って素敵でしょう?とか

何かをはじめるにしても
これは誰かに自慢できるぞとか
メイクをするときや
写真を撮るときだって
ひとにいいねと言われるかどうか
そんなことが頭にある

そう考えてみれば
確かに「自分のため」だけに
なにかをやったことなんてない

自分のため=誰かに見てもらうため
いつもそんな図式だった
そのイコールをやめるってことね

でも自分ためだけにやって
なんの得があるのだろう
自己満足ってやつ?

なんだか虚しいことに思えるけど
人生の苦しさから離れるには
そうするしかないらしい

見られるという前提を捨てて
自分から見ていく
まあ言ってみれば
なにをやるにしても自分に向けて
自己発信するというものだ

コツはわりとすぐつかめた
簡単じゃん
お釈迦さんなんて大したことない
現代人をなめんな

でもなんだろう
ぜんぜん楽しくない

私がすることのすべては
みんなにいいね、すごいねと
言ってもらいたいからなのに
それをやめるなんて
何のために生きてるのかわからない

あれですか

質素でほそぼそと
生きてるか死んでるかわからない
老人のようになれってことですか

 

4

あいかわらずの毎日
会社では気を使い
帰り道では癒してくれるものが
どこかにないかといつも探してる

お金はひとときの娯楽に消える
洋服、雑誌、コスメ、お菓子

すべては精神状態を保つためだ

やりたくないことをやって
笑いたくもないときに笑って

自分に嘘ばかりつき続けてることへの
ほんのお詫び

テレビをつけたら
私と同じような人たちなのだろう
さよならと言わんばかりに
この世を早々と去っていく

死んだらどうなるのだろう?
死ぬのと布団で眠るのって
何が違うのだろう

この悪夢が終わるなら
それもいいかもしれない
死んだら目が覚めるのかな

だいたいこの世ってなに?
熟睡してるときは夢も見ずに幸せで
現実が悪夢だというなら
こっちが夢ってことじゃん

夢?
夢ってなに?

ここは本当はどこなのよ?

わけがわかりません
でもやっぱり死ぬのはこわい
私が世界からいなくなるなんて
とても考えられない

 

5

そうそう最近気付いたことがある

会社でごくたまに仕事ぶりを
褒められるときがあって
それも結構不意に言われたりして

それが嬉しくて
じゃあまた褒められようと
頑張ったりするんだけど
そうすると今度は苦しくなってくる

褒められもしないし、なんだか
一生懸命してますよアピールが
自分から出てるのが痛い
おまけに心身ともにえらく疲れてしまう

だけどもそういう
よこしまなことを忘れて
仕事に集中しているとき
みんなの態度が違うことに気付いた

本当は単調な仕事にうんざりで
こういうときこそ「見ていく自分」が
使えるんじゃないかと
やってただけなんだけどね

すーっと目の前の書類に
自分がはいっていく
周りの音が遠くなって
ぜんぜん気にならなくなる

心頭滅却ってやつ?

するとなんだか
自分と書類がひとつになった感じになる
だれもいない空間で
時間も忘れて
私は書類や文字と遊んでるみたい

これやってると
どんどん仕事が片付いてく
頭を使ってないのに不思議なものね

「これはこうしたいけど
あとで何か言わそうだなあ」

いつもそんなことを考えて
仕事はぜんぜん進んでなかった
目の前のことよりも
そういう他のことでいつも悩んでいた

だってそれが他人に認められるための
コツってやつでしょ?
ずっとそれを信じてやってた

だから以前よりも
テキトーっぽくなったといえばそうだ
お釈迦さんって手抜きの名人なのかもね

でもあとで自分の仕事を見てみると
どれもこれも的確な処理をしてる
ちゃんと本質をついてる

ねえ、私は一体なにをしていたの?

この仕事をしてた私って
いったい誰なのよ?

あのやくざで無口な社長でさえも
今日はお疲れ様なんて声をかけてくる

私全然アピってないんですけど?
だからちょっと怖い

なぜって、自分の知らないところで
自分が見られてるわけでしょ?

自分を見せようとしてるときなら
心は構えていられるけど
なんだか裸の自分を見られてるみたいで
恥ずかしい

でもみんなは裸の私が好きなようだ

裸になるって
服を脱ぐってことだよね

私はいつも何を着込んでるんだろう?

 

6

日曜日の午前だった
澄み渡った爽やかな秋の朝
街は静かで太陽のまばゆい光が
その全体を覆っていた

駅前のカフェでテイクアウトした
アイスモカを口に含みながら
のんびりと歩いていた

見慣れた公園の脇道
なのに知らない場所にいるような
なんだか不思議な気分だった

そのときそれはやってきた

街路樹が道路の縁石が
マンホールの蓋が
そこに存在していた

「なんか変だ」と思った矢先
周囲の空気がズンと重くなり
そして聴こえていた音が
瞬時に遠くなった

ああこれ「見ていく自分」だ

でもなんか
いつもとちがう

視界に映るすべてのものが
脳内で説明がつかない
言葉という区切りが出てこない
そこにあるものが
何なのかがわからない

呆然として眺めていると
今度は知覚しているすべてが
徐々に融合しはじめた

あららら
どうしよう

とうとうわたしバカになったのかな

さすがにこれじゃあいけないと
追いかけるように言葉を思い出して
もう一度分け隔てようとするのだけども
肝心の言葉が出てこない

頭をよぎるのは
車椅子で精神療養してる自分の姿?

そんなのいやだ!

一生懸命生きてるってのに
なんでそんな仕打ちに
遭わなきゃならないのよ!

気持ちが焦るばかりで
どうにもならない
見えてるものが
どんどんつながっていく

いやだどうしよう
どうしよう
誰かたすけて!!

これはまずい状況だった
それは明白だった
ところがどういうわけか
そんな気持ちとは裏腹に
「これでもう何も困ることないじゃん」
という安堵感が
心の中に漂っていることに気づいた

おいおいなによこの安心な気持ち
世間から離れられるから?
そんなことになったら
本当にひとりになってしまう

融合はどんどん拡大していく
街路樹や縁石、アスファルト、ガードレール

「ええとなんだっけ?なんだっけ?」

言葉を思い出そうとするよりも速く
それはどんどん繋がっていく
凄まじい勢いで視界をのみこんでいく

だめだもう止められない
言葉が間に合わない!

そのスピードはさらに加速する
「存在」はあらゆる境界を乗り越え
空間すべてを覆いつくていく

もう目で追うしかなかった
それはみるみる言葉を駆逐して
地面も公園もそこに立つ建物も
自分の履いてる靴も
脚も腕も

首も
頭も

全部つないでしまった

 

7

あれから冬が来て雪が降り
冬があけたら春が来た
春には花が咲いた

道元とかいうひとが
詠んだ唄のとおり
世界は色とりどりに変わるけど
私はいつも涼しくて静かだ

世界はあいかわらずここにある

街を歩くとき
会社で仕事をするとき
そこには街があるし
そこには仕事がある

だけどももうひとつ
大事なものがある

それは
私もそこにいるということ

いつの頃だろうか
私はこの世界で
ひとりぼっちになっていた

幼き日を覚えている
父と一緒にブランコで遊んでいた
私は公園とひとつだった
まだ世界というものに包まれていた

そこにあるすべては私で
私もそこにあるすべてだった
完全につながっていた
何をするにも一緒に動いていた

だけども世界は私をそのなかに
置き去りにしてしまった
私が世界に背いたからだ

こんなんじゃいやだとか
そんなわがままを覚えてね

だから世界という絵から
私の部分だけが切り取られた
みんなどんどん過ぎて行くのに
私だけがそこに残されたままとなった

それからというもの
どこへ出かけても誰と過ごしても
世間と自分が隔離されているような
寂しさがあった

何をやっても満たされない
胸がつっかえてるような
そんな苦しさがあった

私はわかってなかったのだ
自分は世界のみんなと
一緒にいるつもりでいたけど
本当はそうではなかった

そこにあるのは
私の形に切り抜かれた穴だけ
私はみんなが描かれた絵を見ていたけど
その絵には私が含まれていなかった

これが何もかもが
うまくいかなかった原因だった
いつもどこか寂しさが
抜けきらない理由だった

私は空白だったんだ
だからそれを埋めようとしていた
周囲にお調子を合わせたり
誰かに見てもらいたくて
お洒落して街を歩いたり

それだけじゃない
テレビドラマみたりゲームしたり
何かと世間にしがみついていた

そうした行為のすべては
自分でも何でそれをやるのか
わからないときがあった

でもそれをやらなきゃ
他に何をやるのかもわからなかった
つまりやらない理由すらも
わからなかった

だけどすべては空回り
私の心が埋められることはなかった

 

8

でもいまはわかる
それは当然のことだった

私がそこに立ち入るとき世界は
すでに過ぎ去ったあとだったからだ
私は残像と過ごしていた
つまり記憶のなかを生きていた

目の前で同僚が話したことに
応えたりしたけど
私が応えようとする時点で
もう同僚はそこにはいない

彼女は手の届かないところに過ぎている

じゃあいったい誰が
私の話を聞いていたというのだろう

そこにいたのはまぎれもない
私だけだった

私は私に必死に話をしていたんだ

そっけないのは同僚ではなかった
何もないところに話しかけてる
その虚しさだった

私はまったく勘違いをしていた
賑わうカフェの席に座り
自分はこの世界で特別な存在だと
勝手に思い込んでいた

その思い込みが「私の人生」という
一人芝居をさせていた

それはとても恥ずかしいことだ
だって私は「何でもなかった」のだから

どれだけ思いを伝えても
伝わることはなかった
こんなにあんたのことを考えてるのに
どうしてわからないの?と
彼氏に怒ったこともたくさんある

学校も友達も家族もそう

まるでお化けの世界みたいだった
誰もかしこも人間の血が通ってなく
ゆらゆら揺れてるだけに見えていた

たくさんのひとは去っていくし
時間もどんどん過ぎていく
失われていくだけの世界に
取り残されてただ悲しかった

私も連れていってほしかった
その列車に何度も飛び乗ろうとした

だからお菓子でホッとしたかった
知らない人でもいいから
誰かに私を見てほしかった
おまえはひとりじゃないと
教えて欲しかった

この冷え切った魂を
もういちど温めてほしかった

だけどそれは完全に間違えていたんだ

つまり世界からすれば
私の方こそ実体をもたない霊だった

このことこそが
「生きなければならない理由」だった

仕事をして光熱費を払って
世間一般なことをやる
やるけども満ち足りない
満ち足りないからまたそれを繰り返す

その一見何の意味も
見当たらないこの反復運動は
「生きてること」を
取り戻すことにあったんだ

本線から外れてしまった自己を
元に戻すために現実があった

つまり現実のために生きるのではなく
生きるために現実は広がっていた
それが「いつか幸せになりたい」という
最もたる動機だったんだ

生きるというのは
エゴを主張することじゃない
生きていることを
実感するということだ

誰かが話しかけてきて
それを感じること

誰かが何かをしでかして
それを感じること

それらについて
いちいち検証することでもないし
反証することでもない
自分なりの判断で決定しようと
することでもない

そんなことをしようとするから
世界に置き去りにされるのだ

何かに従うことでもなく
何かに背くことでもない
何かに乞うことでもなく
何かに与えることでもない

ただなにもしなければいい
そうやって自分が死んでみて
“生きてる意味”がわかる

すると全体が世界が
遠くに過ぎていったみんなが
言葉の向こう側にいたことを発見する
それが永遠性なのであり
死という不死性なんだろう

生きるとはつまり
世界とともに生きること
このぜんぶと一緒に在ることだったんだ

 

9

あの日、融合がはじまったとき
つまり頭から言葉が舞い散ったとき
私はひとりじゃないことを知った

私はそこに散らばる落ち葉で
縁石で街路樹だった
澄み渡る空で
通りを歩くすべての人々で
アイスモカの甘い味だった

「これでもう何も困ることないじゃん」
それはそういうことだった
頭じゃないところで気付いていた
体の全細胞が「そうだよ」って言っていた

思えば私はわがままをいって
世界に取り残されたんだから
言葉を捨てるだけでよかったんだ

それはとても簡単で
そしてとても難しいことだった
色眼鏡をかけていることを忘れて
全世界を元の色に
塗り戻そうとしていたのだから

私はガラス越しの世界をさまよっていた

その途方もない努力が「現実」であり
そして眼鏡を外すことが
あらゆる意味での「死」なのだ

その極めてシンプルな手段は
自殺でも熟睡でも「気づき」でも
どれも同じことだ

 

あの日、私は死んだ
そうして自由になって蘇った

「生きなければならない理由」は
もうなにひとつない
何も求める必要はなくなった

つまり私はここに帰ってきたんだ

 

 

P.S.

長い日記に付き合ってくれて
どうもありがとう
私の話はこれにて終わり

これからどうするかって?
もちろん”余生”を過ごすだけだ

 

爽やかな朝日で目を覚ましたり
雨の音をきいたり
果物を丸ごとかじったり

嬉しくなるような詩を読んだり
前髪を揃えてみたり
隣のひとに話しかけてみたり

路線バスに揺られたり
日曜大工をしてみたり
コンサートに出かけたり

黄金のような夕方の海沿いを
自転車で走ったり
犬を飼って一緒に暮らしたり

陽気なレゲエミュージック
カフェのテラス席
市立図書館
エスニック料理

恋愛小説
ラヴェンダーの香り
航空チケット

写真日記を見返して笑うこと
体に話しかけること
気が済むまで眠ること

映画を借りて思い切り泣くこと
車のなかで歌うこと
草原に寝転んで空を眺めること

 

そう、あなたと同じ

私は願い事ではなくて
「ありがとう」と絵馬に書きにいく

もう探す必要はないのだから

 

 

 

 

 


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コメント・質疑応答

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  1. lekker より:

    自分さん、ありがとう
    最後のP. S.からの文章読んでたら涙がでちゃいました。
    目の前に起こる現実が最近とても愛しく感じてたところだったので、この手記がすごく響きました。

  2. ran より:

    私もありがとう。
    元気をもらいました。

  3. tiktak3926 より:

    すごく心が温かくなりました。

    ありがとう。

  4. 色即みっちゃん より:

    あれから彼女は幸せになったのかな?

    幸せだと良いけど…。

    おっと、いけない!

    そもそも幸せだとか不幸だとか、
    考え始めた時からなのだ…。

    出口のない迷路に迷い込んだのは…。

    • 色即みっちゃん より:

      でも…。

      迷路のままで良かったのだよ…。

      迷路から抜け出す必要もなかったのだよ…。

      「戦いなさい…。俺」

      「また迷路に戻りなさい…。」

      それが生きるということだよ…。

      迷路とわかっていながら迷路を歩むのだ…。

  5. ainohikari より:

    素敵な手記をありがとう。
    何だか懐かしさを感じました。

  6. ハイライト より:

    なぜだろう、俺は恐怖しか感じられなかった。途中から読むのがしんどくなった。
    俺がこの手記の意味を本当に理解しようとしたなら、俺はマジで死ななきゃならない。

    俺は本当に死ねるのか?死に続けることができるのか?
    できるわけがない。でも生きてても、いずれ死ぬしかなくなる。
    どうすることもできない。生きられない。でも死ねない。
    俺が今いるここはとても窮屈だ。俺が居る場所がどんどん窮屈になってきてる。
    為す術がない。

    俺に捨てられるのか?走って俺に抱きついてくる甥っ子を捨てられるか?心配性の親を捨てられるか?
    「アイツ、全てを投げ出して逝きやがった。無責任なヤツめ」という謗りを捨てられるか?いつかは俺も救われるっていう期待を捨てられるか?全ての思い出を、恐らく無事であろう明日を、捨てられるのか?何もかも一切合切捨ててられるのか?

    本当にできるのか?

    できないよ。俺にはできない。
    俺だって「ありがとう!愛してるよ!」って叫びたいよ。心の底から。でも、それは嘘だから。

    どうすればいいんだ?何をすればいいんだ?
    なんでまだ命があるんだ!

    分からない。だからもう振り返るな。我に返るな。沈み込んだらもう上がってくるな。

  7. shigen より:

    色眼鏡、言葉、それは観念ですね?

  8. tamatama3 より:

    私には“そのときそれはやってきた”以下のような体験はないので、「ん~空気が重くなって周りの音が遠くなる感じになるのか。。」とメソッドのように読んでいました。そんな感覚が来たら報告します!
    そしてこのライトノベルのような文章は、今時女子の感覚がよく表現されてて、純粋に面白いな、と思いました。私の子供も「なめんな」とか「じゃね?」とかよく言ってます(笑)

  9. 涅槃の書-自分 より:

    lekkerさん
    ranさん
    tiktak3926さん
    色即みっちゃんさん
    ainohikariさん
    ハイライトさん
    shigenさん
    tamatama3さん

    ありがとう、こちらにまとめておくよ。

    この手記にはそこらに仕掛けが放り込んである。たとえばA子の日常シーンがしばらく続いているが、いずれも彼女が求めることに対して「反対の現実」が起きている。これは誰もがそうなる。現実とは二元性が表現されたものであるからだ。つまり欠乏してるから求めるわけであり、満たされていればそれが脳裏をかすめることもない。つまりその「逆」をアプローチすれば、表裏を持つコインは消滅するということだ。このごくシンプルな図式に誰もが四苦八苦している。

    そして仕事を探していたときに「お金をもらうために、お金が必要というのは矛盾してる」というシーン。まず「仕事」と「お金をもらうこと」は一切関係がない。「お金を得るには仕事をしなければならない」というルールをA子が信じ込んでいるだけだ。ゆえにその矛盾に苦しむことになる。

    お金は得たり失ったりするものではない。回転テーブルの中華料理のようなものだ。目の前の料理を回せば、別の料理がやってくるように循環しているものだ。A子は「自分」という狭いスペースで生きているために、全体として動いていることがわからない。ゆえに「失う、得る」の世界となる。

    「仕事」もお金と同じで循環するものだ。それが「お金」「人」「物」「行為」など何に見えていようとも、そうしたものは表面でそう見えているだけに過ぎず、実際にはそれらの元となるエネルギーがぐるぐる回っているだけである。

    つまり「仕事をする」というのは、全体性の活動に参加するということであり、その流れのなかに漂うことで、A子自身も流れるようになる。光熱費や家賃といった彼女視点の循環もうまく流れるようになる。

    思考は「仕事をしてお金をもらったから支払いができて生活が回るようになった」と解釈するが、そういうことではない。彼女が「そこ」に加わったから、彼女を取り巻くすべてが回り出したのだ。地球は太陽を周回するが、衛星である月もそこに連れられているということだ。

    長くなりそうなので以下に続けるよ。

    • 涅槃の書-自分 より:

      「日常が悪夢で、熟睡しているときには夢を見ない。どっちが夢?」これはどちらも夢となる。「眠っているから」ということではなく、「眠っていた」という過ぎ去った記憶が夢なのだ。ちなみに日常の悪夢は彼女自身が作り出したものであり、それは先のコインの話の通り。

      仕事をバンバンこなせて彼女自身が驚いている箇所。それは彼女が瞑想的な状態にある、つまり意識が己に向いている=サマーディにあるということだ。これが本来の私たちの持つパワーなのだが、A子が言うように、普段は常に他者(外側の世界)を意識している。それは「自分」という障壁を心に立ててしまっているということだ。

      つまり物事に対して正面から向き合えず、パワーを流しきることができない。仕事が捗らないばかりか、流れくるパワーを自ら抵抗し続けるわけで当人もヘトヘトになる。

      そうしたパワーというのは個人が放つものではない。個人のハートが開いた時に、まったく別の領域から流れ来るものである。先の全体性の循環のことだ。つまり全体に参加するということは、通風口としてそこに加わるということだ。

      そのため周囲の人々からも賛同される。彼女にとって彼らは「外の世界の光景」であり、実在する存在ではない。つまり日頃は彼女が循環を抵抗するから周囲からの風当たりが悪いのだよ。

    • 涅槃の書-自分 より:

      光明を得るシーン、これはどう書いても観念的になるから表現に少し迷ったけども、私が日頃体験している様子をそのまま描いてみた。

      まず「言葉が思い出せずに、どんどん繋がっていく」というところだ。先の回転テーブルの中華屋の喩えのように、私たちは狭い世界を生きている。その境界線は言葉によるものだ。

      この「言葉」というのがくせ者であり、それはあなたの人生すべてを縛り上げている。暑さや寒さ、荷物が重いとか、体が疲れたとか、腹が減った、さらには喜怒哀楽もすべて「言葉」なのだ。つまりどんな体験であれ言葉を思考が「読んでいるだけ」であり、本当にそこで起きているピュアな体験は葬り去られている。よって言葉を落とす時、その空間の分割が失われ、そこで起きている宇宙の神秘に触れることができる。

      それは時間や空間を超えたものであり、すべてが連結連動したものゆえに、自我は完全に失われる。そしてサーファーが重厚で揺るぎないパワーを波からもらい受けるように、肉体や精神は全体とともに動きはじめる。そのときに知るのだ。「何もかもが秩序のままに繰り返されている」とね。それはまさに永遠であり、愛の光景であり、温かくてとても安心できる抱擁である。

    • 涅槃の書-自分 より:

      最後に綴られる彼女のモノローグだが、これは解説はいらないね。彼女の言ってる通りだ。

      仏教では今生は修行である、という教え方をされる。何を修行するのか?苦しみに耐えることが修行なのか?

      それは違う。自分がいかに色眼鏡をかけて本当の世界からかけ離れたところで四苦八苦しているかに気付くということだ。つまり苦しみなど「ない」のだよ。

      私も身内を亡くしているし、人生で多くの失敗もあればたくさんのものを失ってきた。それは悲しいことだし、取り戻すことのできないものだ。だがそれらは私の認識上での話に過ぎず、すべては「私だけがみている夢」でしかない。

      別の手記でも書いてることだが、たとえば「私が河をみている」というとき、その時点でもう夢の世界に入り込んでいる。なぜなら、見ている私も見られている河も、認識のあとで生まれたものだからだ。つまり主客というのは幻想に過ぎず、それらが生まれる前にあるもの、つまり「ただ在る」という事実だけがここにあるのだ。

      A子の話ではそれを「存在」という言葉を使った。名もなき、姿なき、ただ漠然と在るだけの「存在」だ。大乗仏教ではそれを「空」という。私たちの修行とは、本来あるべきその場所に還ることにある。つまり己が神の呼吸となり、全体とともに在るということだ。

      何が足りないというのだろう?何を求めるというのだろう?彼女は気がついたのだよ。「なんだっていいんだ」ということにね。

      さて最後に一番大きな仕掛けについて話しておくよ。

      真っ白な背景の上に、文字が並んでる。今回は「A子」の話だった。女性という設定だった。あなたはその通りに読んでいた。だがそこにあるのは単なる文字の集合でしかない。そこに気付くことだ。それは女性でも男性でもないし、また、いまどきの言葉を話す若者でもない。あなたがそのように浮かびあげているものだ。

      何か込み上げてくるものがあったのなら、それはそうであるし、ポップで爽やかなものを感じたのなら、それもあなたの真実なのだ。つまり彼女はあなたなのだよ。

      現実も同じ、白紙の上に記された記号でしかない。感動的な毎日を送るのも、そうでないのも、すべてはあなた次第だ。

  10. yuyu03 より:

    自分さん
    あけましておめでとうございます

    こちらの記事
    読んでいたらどんどん苦しくなりました。
    苦しみはどんどん強くなり
    皆さんのコメントを読み
    自分さんのコメントを読み
    最後の ただの文字 というのを見て
    ハッと我に返りました。
    まるで悪夢を見ていたかのような感覚で
    驚かされた後のドキドキ感の余韻がある感じ。

    まだまだお世話になります。
    本年もよろしくお願いいたします。

    • 涅槃の書-自分 より:

      yuyu03さん

      ありがとう。深い感性を持っているね。さてあなたが苦しくなったのは、以下の二つのどちらかとなる。

      ひとつは無意識に沈められているトラウマが反応したということだ。この手記は一般的な女性像を基にした独白であるから、あなたの記憶を引き出す箇所があったのかもしれない。

      トラウマについてはまた手記にするけども、それが個々の人生を決定する最大の根源となる。いまはそういうものがあるということだけを留めておくといいだろう。

      そしてもうひとつは、この世が幻想であるということを察したことによる不安感だ。

      ゲシュタルト崩壊というのを聞いたことがあるだろう。同じ文字が並んでいるのを見つめていると、どんどんその形象が崩れていくというものだ。こんな文字だった?と思いはじめる知覚的な現象のことをいう。

      実際この世とは、ゲシュタルト的なものだ。

      例えば「猫」という文字は実物の猫ではない。だが文字だけではなく「ねこ」という名前ですら、実物の猫ではない。つまり実物の「猫」は猫ではないのだ。

      ではいま私の横で丸まって眠っている、両耳が頭についている「この何か」はなんだというのだろう?

      だがそれではまだ不十分だ。「この何か」という対象をそこに見ている。つまり「この何か」という名前を与えている。その名すら払いのければそこには何も残らない。「あるのにない」ということになる。

      これは言ってみれば「それ以外のもの」があるから、それがそこにあるということを示している。以前もどこかで話したけども、自分の手をデッサンするときに、手から描き出すのではなく、手以外の周囲の様子から描いていっても最後には「手」が浮かび上がる。

      同様に私が「これは猫だ」というとき、それは猫以外のものを言っているのだ。猫以外を知るからこそ、そこに猫が残るのである。

      ならば猫以外のものも「それ以外」によって存在されることになる。このようにあらゆるものは、常にその外側によって切り取られたもの、「言葉というナイフで分節されることで生まれている」ことがわかる。

      ゲシュタルト崩壊は「それ以外」が見当たらないから崩壊してしまうのだ。

      つまりA子が手記中で体験した光景とは、あらゆる言葉が落ちて、その背後にはすべてが連続したひとつであるということ知ったということにある。

      私が他の方々への返信で「ただの文字」だと言っているのは、あなたの見解のとおり、この世は白い画用紙のうえに描かれた言葉の羅列であるということ、しかも言葉は文法という法則によって並べられるゆえに、自らそれを選び出さなければ(創造しなければ)、規定の法則に流されるしかないという示唆にある。

      ここに苦悩を抜け出すヒントがあるのだよ。

      長くなったが、A子は私たちそのものであること、それを読み取れているならばOKだ。

    • 涅槃の書-自分 より:

      ushiさん

      こちらこそありがとう。

      あなたがそのように世界をみることによって世界のすべては報われるのだ。そして同時にそれはあなた自身を救うことでもある。

      良い一年を。

  11. hamada514 より:

    この記事の序盤は、まるで今の自分を見ているようでした。

    私はカフェで仕事をしたり、読書をしたりするのが大好きです。
    一人でのんびり、自分のペースで、自分の感覚で、自分だけの時間を過ごす。
    それが私の至福のとき。

    最近のお気に入りはコメダ珈琲。

    でも、そんな私を私が邪魔をするんです。

    一人でカフェなんて寂しい奴だと店員さんに思われてないかな。
    昨日はとっても愛想の良かった可愛い店員さんが今日はそっけないな。
    あぁ今日もコメダに行きたいけど、昨日も行ったから「また来てるよ」とか思われるかな。

    ただ純粋にカフェでの一時を楽しめばいいのに、店員さんや他のお客さんの視線や反応が気になってしまい、心がヘトヘトに疲弊してしまうんですね。

    完全に自意識過剰であり、他人の目なんてものは自分で創り上げている幻想だと頭では理解しているのですが、その支配から抜け出せませんでした。

    でも今回の記事でなんとなくわかりました。

    自分がカラッポだったから、そこに自分がいなかったから、その空白を埋めたかったんですね。

    自分の内側を感じてみると、胸の中心に締め付けるような、圧迫するような、欠乏感のようなものがあります。

    いつもいつも私の中心にあるこの「足りない」という感覚。

    私はこれを否定したくて、なんとか取り除きたくて、外側に何かを求めていたのでしょう。

    でもこの感覚を否定せずに受け入れてみようと思います。
    この感覚も私そのもの。
    しばらく、このカラッポさと向き合ってみようと思います。

    すばらしい記事をありがとうございました。

    • 涅槃の書-自分 より:

      hamada514さん

      どちらにリアリティを置くかなのだよ。外側の世界に意識を向ければ、現実世界が強くなり、あなたは「世界のなかで生きる者」となる。

      内側に意識を向ければ「己のなかに世界がある」ということになる。

      >でもこの感覚を否定せずに受け入れてみようと思います。この感覚も私そのもの。しばらく、このカラッポさと向き合ってみようと思います。

      よいことだ。ただ「空っぽ」というのは、ふたつの意味があるから注意しなければならないよ。

      ひとつは外側に意識を向けることで、どんどん外的な情報があなたのなかに入り込んでいる様子のことだ。周囲の目線が気になったりして、それに反応する自分が生まれる。つまり環境的な自我が形成される。もちろんその自分は偽りの存在であり、それが自己意識の主人である以上は不幸にしかならない。

      なぜなら、考えることも行為することもすべてが「外部に操られたもの」でしかないからだ。人々の一挙一動に動かされてそれに対応することに生の目的をみてしまい、一時的な解決に満足を得るようになる。

      だがその解決はすぐに葬られる。あっちこっちであなたに無理難題が突きつけられて、やがて人生は不可能なものとなる。そうして人は絶望するのだ。だが原理を知っていればそれほど愚かなことはない。

      もうひとつの「空っぽ」は「己のなかに世界がある」というとき、それは「世界そのものになっている」ということである。つまり自我は崩落しており、あなたの意志と世界の流れがひとつになっている状態にある。

      たとえばあなたが一歩前へ進めば、同時に風景も一歩あなたに向かってくるようになる。これは「そのように感じる」というのではなく、これが真実なのだ。

      あなたの意志とは「宇宙の意志」のことであり、その意志を「あなたバージョンの現実世界(表層意識の世界)」として置き換えているだけでしかない。

      つまりあなたのカフェでの顛末は、その自らの本性をわすれてしまい、置き換えられた現実のなかに閉じ込められている様子にある。だからあなたが周囲を気にするほど、周囲の人はあなたを怪訝な目でみてくるのだ。

      そうしたものは「心理的な現象」として、プラシーボやカラーバス効果などといわれるが、それはあくまで人間世界での因果法則を前提にしたうえで「心理的」とされているだけであり本当はそうではないのだよ。

      あらゆる科学とは自然の摂理を人間が理解できるように切り出した「人間向けの説明」でしかない。

      あなたがそこに存在するためには、大地や大気はおろか、太陽系の配列や銀河の構造など、あらゆるすべてが同時に連動していなければ成立しないのだ。

      じゃああなたは何者なのか、ということである。

      だから「空っぽである」というのは「全体としての己がここに在る」という自覚であらなければならない。すなわち意識を内側に向けて環境的な自我の殻を崩壊し、流れる宇宙の意志とひとつになることにある。

      小さな空っぽではなく、広大無辺な空っぽでありなさい。

      そのとき、カフェも店員も大いなる愛の「部分」となり、仕事も読書もあなたの個人的な範疇を超えた力によって充実するだろう。

      ありがとう。

  12. スーパーリッチ より:

    おら、この手記好き。
    死に向かって生きるとき、
    こんなもんだ。
    死を見つめるとき感謝しかない。
    ありがとう

    • 涅槃の書-自分 より:

      スーパーリッチさん

      >死を見つめるとき感謝しかない。

      そのとおりだ。

      逆に「感謝するとき死を見つめることになる」という逆向けのアプローチをしてみればこうなる。

      人は死の対極である「生」として現れている。ゆえに死は常にネガティブなものとして捉えられる。

      こうした「死への恐れ」によって、他者や物事との溝がより深く刻まれてしまう。なぜなら他者を許して自他の境界線をなくすということは、「己の生」という輪郭が失われることであるからだ。

      いわば生とは白い画用紙に描いた円であり、その円の内側と外側で自他の分離がみえているにすぎない。だから自我にとって「他者を許す(感謝をする)」ということは、その描かれた円が消え去ること、すなわち「自らの形象を失う=死に向かう」ということにある。

      誰もが他人や物事から「自分」を守ろうとするが、その根底には死への拒絶があるということだ。しかしその拒絶を続ける限り、安らぎは遠ざかったままとなる。

      人はその誤解をいつか解かなければならないね。本当の私たちとは、円の背後にある白い画用紙という一体の安らぎなのだから。

      ありがとう。

  13. luca より:

    これを読んで泣きました。
    A子さんのようにはまだなっていないけど、安心していいのだと。。。
    ありがとうございました。

    • 涅槃の書-自分 より:

      lucaさん

      こちらこそありがとう。

      本書は社会的な内容を題材にすることが多いのだけども、それは逆説的にスピリチュアルの真髄を語っていることにある。むしろスピリチュアルそのものを語っているときは、それはまた逆説的に社会的な産物を表現しているにすぎないともいえる。

      誰もが苦悩の世界で暮らしている。人は「欠如を取り戻すための精神」として放り出されているにすぎないからだ。その欠如を埋めるに渡り歩いている。そして方々で満足と不足を繰り返し続ける。

      言いかえれば、精神とは「人工的なもの」として生成されているのであり、その集まりが人間の世界となる。

      その逆に人工的ではないもの、つまり「自然的なもの」は、常にすべてとつながり合っている。たとえば肉体がそうだね。陽の光を浴びて、空気を呼吸して、大地の作物を栄養にする。それらはすべて肉体に置き換えられるという自然的な交換作業が行われている。

      また他者とのコミュニケーションにおいても理屈を超えた何かが輝いているときがある。黙っていても通じ合っている何かがね。親しい間柄ほどそれは顕著となる。家族や友人、恋人同士、そこには人工的な架け橋は必要とされない。

      しかし現代は自然的なものに「架け橋する人工物」をあまりに発展をさせてしまい、それゆえに本来的な「自然的なもの」がどんどん見失われていくようになった。月をさす指ばかりがショーウインドウに陳列されて、指ばかりを選んでいる様子にある。肝心の月をみんな自力で捉えられず、もはや月の存在さえ忘れてしまっている。

      つまり産業が発展して世の中は豊かになっているように見えるけども、人はもはや自分の力で感動をしたり、自ら動機づけるといったことができなくなっている。感動したいときは感動的な商品を探し、行動したいときは勢いづけてくれる商品を探す。

      だがそうしてたどり着いた感動や躍動は一過的なものとして消費される。内的成長の源泉である福利的な効果をまったく生み出さない(精神を高次に成長させない)。

      また、自然的なサイクルとは無関係な人工的なサイクルに生活は支配されている。

      昼は太陽よりも暗い室内で過ごし、夜は月よりも明るい室内で暮らす。睡眠や食事のタイミングも社会的な時計に支配され、本当に眠りたいとき、本当に栄養の摂取が必要なときは度外される。

      そんな物質的価値観に支配された世界で生きるひとりの女性、その精神の成長を描いたのがこの手記となる。

      この小さな物語は、人間の一生という大きな流れとしても理解されるだろうし、また毎日のなかの瞬間ごとの光景としても読み取ることができるだろう。

      大事なのは私たちが知らぬ間に目を覆われて本当にここにあるものが見えなくなっていること、そこに気づくことにある。

      手記を通じて何かを感じられたなら、それが「自然的なもの」だね。その同じものを何気ない日常のなかでいつも見つけること。その意識を働かせることだ。

      いまあなたのすぐそばにも同じ感動が溢れている。

  14. luca より:

    自分さん
    お返事、ありがとうございます。

    今回が初めてのコメントでした。ということで、
    どうぞ、よろしくおねがいいたします。

    ここ一年位は、この女性のように、『自分を見ること、今やっていることに意識を向けること』を心がけていますが、気がつくと周りの状況に巻き込まれている、の繰り返しです。

    でもやはり、
    >その同じものを何気ない日常のなかでいつも見つけること。その意識を働かせることだ。
    ですよね。今までにも増して意識してみます。

    涅槃の書は、私にとっては難しい内容が多いので、今回のような形はとても身近に感じられて分かりやすかったです。
    ありがとうございました。

    • 涅槃の書-自分 より:

      lucaさん

      こちらこそありがとう。

      人間というのは「社会的な存在」であってね、他者がいるからこそ自分を認識できるようになっている。言いかえれば他者がいなければ、自分が存在していることを知ることができない=存在しないことになる。

      ここでいう他者とは他人だけでなく、物や出来事など「外部にあるものすべて」だ。

      だから自分にとって都合の良いことだけではなく、都合の悪いことにも感謝すべきであり、むしろ否定的な出来事ほど自分の存在を強く意識するようになる。だから逆境をバネにできる人はどんどん成長していく。その成長によって世界も拡大していくようになる。

      というわけで「他者によってあなたは現れている」のだけども、つまりこれは「関わる他者こそが己である」ことを意味している。

      ご家族や友人や会社の人たち、街ですれ違う人たち、それにいつも活動の舞台となっている街そのもの、郵便受けに届いた手紙、突然の雨降り、車のヘッドライトのまぶしさ、そういった「体験の方こそ」があなたなのだ。

      ところが己が他者によって現れていることを理解できず「自我」というギャップが生じてしまう。すると引き裂かれそうな痛みが常に感じられるようになる。

      自我の中身は他者であるのだけども、それを勘違いして「自分」を守ろうと、他者との境界線を作ることが痛みの原因にある。もとはひとつであるものを無理やり区切ろうとするのだからそりゃ不安定になるわけだね。

      この痛み(人生の苦悩)から抜け出すにはひとつしかない。

      それは人間世界の次元とは「関係」という全体がただひとつだけあり、己はその部分として現象しているということ。そしてもうひとつの次元、体の次元(自然の次元)においても同様に、太陽の光や風や食べ物、すべての生き物と「ひとつ」であること。

      この”真実”をいかなるときも気づいていることだ。

      誰と過ごしていても食事やお風呂でもね。またこれを就寝前の瞑想として、そのまま眠りにつくことを習慣するといい。良い朝を迎えられるようになる。

      やがて人間世界や自然世界といった「見かけ」の向こう側に、暖かくて力強い巨大な流れを見出すだろう。

      つまりこの世のすべては、守られたその流れのなかに現れているのだとわかるようになる。

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