第三の目
あなたが見ている人々は死ぬが
あなたは死なない
あなたの見ている肉体は滅ぶ
だがあなたは死なない
死というよりも消滅がない
今日はそれを解いていこう
まずその目だ
目とは単なる繊維の塊である
あなたは目を意識しなさすぎる
視界にばかり気が行ってしまい
それを捉えている目を意識しない
目に意識を向けてみなさい
それは弾力のある柔らかい繊維の塊だ
ただの塊
つまり視界は2つの目が
読み込んでいるのではない
ただ1つの大きな視界
それは目が見ているのではないのだよ
いわゆる第三の目と言われるもの
「視界」と呼ばれるべき視界ではなく
ヴィジョンを司る目だ
あなたの視界がそうであるように
それは1つの窓
1つの大きな窓がヴィジョンをあなたに創っている
決して、目玉のように2つの視界があるわけじゃない
これは意識変革となる
なぜなら、
「では私の目の前にいる人々は実はいないのか?」
となるからだ
その通り
すべてはあなたのヴィジョンだよ
あなたのヴィジョンの中では
みんな死ぬ
すべての花は枯れていく
つまり消滅する
だがあなたは死なない
あなた自体が消滅するヴィジョンは
決して見ることはできない
最初はここに辿り着きなさい
それをあなたの日常に定着させなさい
あなたはあなたを見ている
あなたはあなたに見られている
目が覚めている時に
夢を見ていない熟睡時をイメージしたとき
どんなものが浮かぶ?
闇のような、膜のような、頭の背後にあるような、かね?
なんでもいい
それがあなただ
あなたを見失ったときは
物を見るとき
見ている自分にも注意を向けたらよい
双方向だ
本来はそれが「正しい物の見方」だ
定着させること
それが最も大切なことだよ
Notes あなたの正体, ゼロ, 死, 真実, 瞑想, 観照
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自分さん、こんばんは
先月の話ですが
意識を内側に灯すと、オデコのあたりでキューキューと吸い込むような感じがするな、と思っていたら
娘がそのあたりを指で押さえてきて、「ママ、目が三つあるよ?」と言ってきました
(まさか皺でもできたんじゃ・・・?)と思いましたが、そういうわけではなく「目が三つ」あるそうです
試しに娘の前で、意識を外に向けたら「あれ?消えちゃった」
また内側に戻してみると「また目が三つになったよ」とのこと
(娘はもちろん、第三の目のことなんて知りません)
もしかして、第三の目が開いてきてるんでしょうかw
でも、そんなことがわかる娘のほうが、よっぽど開いているような気もしますが 笑
娘の下校時トラブルが解決したので、フルタイムでの勤務が可能になり、先月から楽しく働いています
また、ずっと病んでいた兄も今週から働き始めました
嬉しいんですけど、でも思っていたよりも静かな喜びというか・・・「あ、そうなんだ」という感じです
でも、やっぱり感謝です
ありがとうございます
りおさん
こんばんは
美しい話だ、ありがとう
娘さんはあなたの投影だよ
彼女はいつもあなたに
自分自身へのメッセージを伝えている
松果体はチャクラのひとつだね
あなたに向いているのだろう
意識が主体に向けられているとき
現実とは「外側」にあるのではなく
第三の眼が浮かびあげたヴィジョンであることが
わかるようになる
ひとつ良い瞑想法を伝えるよ
自分の中に白い光があると想像しなさい
ヘソの辺りがいい
しばらくの間はその光を常に意識しておく
どこに行っても
何をやっていてもね
すると意識しなくとも
光がそこにある感覚が離れなくなる
温かさも感じられるようになる
見知らぬ通行人があなたを見るようになる
振り返ってまで見てくる
店のレジなどで
とても親切な対応をされたり
露骨に嫌な顔をされたりなど
極端な対応をされることが多くなる
さらに落とし物が届く
あらゆる問題は勝手に片付いていく
シンクロ二シティがよく起こる
そうしてあなたは気付きはじめるのだ
「ああ、全部そういうことだったのか」とね
世間(外部)に”囚われる必要”がなくなり
あなたは完全に幸せになる
すべては内側からはじまるのだよ
自分さん、いつもありがとうございます
白い光の瞑想を試していますが、オヘソのあたりだとむずかしいですw
松果体のほうだとすぐにできるのですが
(真夏の真昼間の真っ白な太陽をそのまますっぽり入れるような感じで)
でも、これだとちょっと強すぎるみたいでクラっときます
やっぱりバランス的にオヘソのあたりがいいのかもしれないです
続けてみます、ありがとうございます
今日は、ツイッターのほうの
>「同じ場所に戻る」
>なぜだ?
これが私の心境そのままでした
やっと慣れてきた職場で、やむを得ず配置転換されることになり
正直なところ、私にだけ非がないと言ってもよいくらいの状況だったのにそんなことになり、
これは流れ的に仕方がないし、それでバランスよく円くおさまるからいいのですが、
「また最初からか、私は何も悪くないのに」というエゴが出てきて少し肩を落としていたところでした
りおさん
私に支配されてはいけないよ
私はあなたの世界の存在だ
あなた自身の流れに従いなさい
疑問が出たり
解決が出たり
それらはすべて流れのままにある
それはあなたが解決したわけでも
私が解決させたわけでもない
だからね、
あなたが「こうかな?」と感じていることが
最も美しい光景なのだよ
そこには曇りがない
あなたという生の中での
かけがえのない体験なのだ
「私は何も知らない」とは
“その前後”がないということ
あなたは純然の扉を知っている
後はそれを”自分の中”で開くだけだよ
こんばんは
昨日今日で、小2の娘が自分さんと同じような話をしてきて
ちょっと(いや、かなり)動揺してます
ママには顔がないかもしれないんだよ、とか
今は、世界はここだけなんだよ、とか
音だとか触った感じがあるだけで、実際には何もないかもしれないんだよ、とか、他にもいろいろ
自分さんの懐中電灯の話を思い出して、「懐中電灯みたいに照らしてるところだけがあるような感じなの?」と聞いたら、「そうそう、そんな感じ!」とのことで
ママがわかり始めるのを待ってた、みたいなことまで言われてしまい、
「いや?w まだそこまで本当にわかってるわけじゃないんだけど・・・、でも、もう、わからないといけない時期が来てるってことだけはわかったよ」と答えたら、満足そうな顔をしていました
うっわぁ・・・なんなんですか、これww
りおさん
いいかい、「涅槃の書の人が何かを話している」、または「娘さんが何かを話している」というような、客観的な解釈を捨てることだ。
つまり誰が何かを話しているのではなく「あなたが聞いている」のだ。ここにシンクロニシティを解く鍵が隠されている。
あなたが”そうである”から、その現実は”そうなる”のだよ。
自分さん、こんばんは
>客観的な解釈を捨てることだ
わかりました
でも、もうちょっとだけ 笑
内側に意識を灯すことで懐中電灯の役割を果たしているんですよね
世界がとても鮮やかにハッキリみえますし、なんだかみんなが優しくて元気になるような気がします(いきなり消えた人も数人いますが)
ふと思い出したんですけど、ソドムとゴモラの話ってこれのことを言ってるんですかね
正しい者が何人かいたら街は滅びずにすむ、って
ずっとモラルの話かと思ってました
私の守備範囲は私の世界だけ、とは言っても
結構、責任重大ですね
精進します
りおさん
そうだね、そういったあらゆる伝承はすべて「人間の心」を表現したものだ。思考が心に根付いている以上、思考についての話をどれだけ理解しようとしても、思考が担当してしまうから正しく受け取れない。ゆえに伝えやすくするために、そうした方便が用いられる。
禅に至っては言葉すら使われなかったりもする。
要は太古も現代も「心の問題」が一大テーマだったというわけだね。つまり人生とは「心の問題のこと」なのだよ。
‥と言いたいところだがね、
実は太古など実在しないのだよ。
つまりあなたがいま、創世記の話を持ってきたということが重要なポイントとなる。つまり全部あなたのことなのだ。自分が関心を寄せたものはすべて何らかのキーワードが含まれている。その背景を掴みなさい。つまりどんな体験も、あなた自身のことを指し示しているのだよ。
世界はあなたの中に起きている。憎む人、嫌いな人がいれば、それはあなたの責任なのだ。その意味をよく考えてみると良いだろう。
夢の変化がすごい。小学生のころは今より直感も感受性も強かったけど5感を感じる夢は見ませんでした。
もっと支離滅裂で美味しい食事がでても食べられなかったし痛みも感じない。年齢などもバラバラ。
大人のある一定時期から夢の中で5感覚を感じるようになった。夢の中で御飯が食べれる。金縛り、はっきり縛られる感覚があり夢の中で死んで目を覚ます。ファンタジーな夢は解れた彼氏と何かを探してて宇宙船の地下の扉を一緒に開こうとしたり。雲の上でブランコ乗って遠くに見える神秘的な山々を見ながらもブランコから落ちるのを恐れてる。
それでも一度起きて再度寝れば、2度目の夢は覚えてても1度目の夢は忘れることが多く。金縛りの夢など1度目がよほどインパクトが強く無い限り2度目の夢を覚えてることは少ない。一度起きて夢の続きをみることも無かったし、年齢も職業も夢の中では疑問を感じないがもっとバラバラ。学生設定だったり。
この2日間は夢と現実と解らない夢を見る。
年齢も設定も変わらない。この世界は自分で作ってると気づいてる。そして浮かんだことが現実化するのを恐れてて心配性から心配事が叶う映像を浮かべては必死に、こんな能力ならいらない。こんな世界が叶うなら自分事消すとか必死に抵抗する夢。
2日同じ夢、1度起きても又同じ夢。
昨日はデッドオアアライブのカウントツーテンからステッチまで。ステッチがああいう設定だったとは初めて知った。
いくら外部には何の力もないといっても。外部の自然災害などに私が影響受けるなどは変わりないのでしょう。病気や老衰で消える夢の世界を見て終わるか隕石や自然災害や紛争で終わる夢の世界を見るか。
ディズニーのスティッチ!ですね。
大抵はちょっと怖い夢や予知夢??と勘違いするような夢見ても気にしないんですけど…。
日常に超沿ったリアルな夢で起きても後で振り返ると卒業したて設定だったり20代設定だったりと薬品会社勤めだったり走ってる感覚など感じてもかなりバラバラだから。
komattaさん
夢の仕組みと現実の仕組みは同じものだ。信念によりそれが顕現されているに過ぎない。水をたらふく飲んだという思いがあれば、夢の中では洪水が起こって溺れたりする。
日頃「私は不幸だ」と思っていれば、不幸になる出来事が起こる。すべて心の中なのだよ。
不思議な夢を見るということは、それだけ新しい何かに触れているということを意味している。日中も同じようでいてごらん。新鮮な体験が増えるようになるだろう。
この記事を読んだときはピンと来なかったのですが
奇しくも「第三の目」と言っていた都知事が辞任表明したこの日にこの記事を思い出しました。
私も最近瞑想をするとずっと額がムズムズします。
チャクラが開いてきてるんでしょうか。
言葉ばかりに注目して「感覚」に注目してない。
肉眼で「見えるものだけ」ならば映画見てるように感じますが。
ホラー映画を楽しめるのは家でなら寝ながらポテトチップスを食べながら
臨場感だけ味わえて苦痛は味会わなくて済む。
体感込みの映画館ができれば恋愛映画と環境映画に殺到してホラーサスペンスは閑古鳥でしょう。
マリオは死んでもプレイヤーとプレステは死なない。つぶれない。
つぎは何のソフトを組み込もうかなあを言葉を変えて伝えても
ようは5感覚。額の目が冴えて違う感覚や波長を感じ取れても5感覚をどうこうできるわけでもなし。
自分さん、こんにちは
「覚醒2」でコメントを頂いた所で
〉”自分”という殻にどんどん亀裂を入れて、その内側に光を漏れ込ませなければならない。
これを意識して幾つか手記を読み、
〉自分の中に白い光があると想像しなさい ヘソの辺りがいい
の記述を見つけ実践して数日たった今、白い光を意識するとお腹に暖かさを感じるようになりました。気分もなんだか穏やかになったようです。その時呼気が長くなってることにも気づきました。
ありがとうございました。
これからも続けていきます。
plumさん
やあ、こんにちは。
──
白い光を意識するとお腹に暖かさを感じるようになりました。気分もなんだか穏やかになったようです。その時呼気が長くなってることにも気づきました。
──
とてもよいね。
そうして呼吸の変化に気づけているのは、あなたがより深く自らを眺められているわけで、言いかえれば、日頃同化している自分からちゃんと離れられているからにある。
たとえば多くの人はスピリチュアルやマインドフルネスの実践を、頭痛のときにすぐに薬に手を出してしまうように、その場しのぎの対症療法としてやり過ごしてしまう。
だがそれだと”現実逃避”にしかならないわけで、その感得された揺るぎない安らぎは現実という幻想のなかの幻想で留まってしまう。つまりそれは仕事や日々に振り回されていることから解放されたくて、空いた時間をスマホゲームなどで潰しているのとなんの違いもない。
だがそうした瞑想的感得の真の目的は、現実逃避ではなく”現実”そのものを正しく捉え直すことにある。
現実とはなんだろう?
現にここにあるもの、いまここに実っているもののこと、それはまさにあなたが気づいた「呼吸してる体」のことだ。
ところが日頃の「現実は辛くて苦しい」といってる自分がみているものはなんだろうか。
それは過去の出来事やその因縁や、また未来はこうなってほしいとか、いま起きてることの不安な結末の空想だとか、そういった「いまここにないもの」だろう。
それは”現実”なのだろうか。
これもよく話すことだけども、私たちは何らかの幻想を必要とする。むしろ、己の存在自体が幻想としてここに現れている。
だがそうして幻想がここに現れていることに”気づく”には、これが”現実”であるということに気づいておかねばならない。
現実とはなんだ? そう、呼吸してる体だったね。
いまはまだ呼吸や体の変化の気づきに留まっているけども、やがて「より大きな揺るぎない充足」を感得するようになる。
これもまたいつも話していることで、先日も相談者の方に伝えているので、一部語句を変えてそちらから引いておくよ。
──
呼吸ひとつにしても、単に自分の体の肺が動いているだけなのではない。自然全体の現れがあなたの体を通じて現れている様子にある。
つまり肺が取り込む酸素があってこそであり、そしてそれは酸素を吐き出す植物があり、植物を育てる大地があり、大地に活力を注ぐ太陽があり、そして地球と太陽の関係がある。さらには太陽系がそのように保持されているには、宇宙全体のバランスがあってこそにある。
食べ物で栄養を摂るのもそうだね。作物は大地や海の恵みとして元々あるものだ。もちろんその動物や魚たちが栄養素となってくれるのは、やはり宇宙全体の賜物にある。
すると自分の身体が呼吸したり健康であるのは「宇宙の活動そのものの現れ」にあり、言いかえれば、私たちはその「ひとつの全体活動」のわずかな部分だけを区切って、”生命”だとか”呼吸”だとか、また食べ物や動物や魚といった名前をつけて、単に管理しやすくしているだけにあるわけだ。
ひとつの全体活動、すなわち「無限の生命の流れ」が、あなたの心の世界によって、いろんな存在や物事として現れているんだね。
それは「生まれてくること、死んでいくこと」もやはり同じ。
わかるかい、本当は何かが生まれてきたわけでも、何かが死んでいったわけでもないんだ。満ちた流れはその前もその後も、なんら変わらずここに満ち流れている。
それはあなたが呼吸を単なる自分の体の活動だけに捉えず、すべてがつながった現れとしてここにあるのだと、つまり呼吸ひとつのなかに宇宙全体がみえているときに、感得することなんだ。
──
つまりあなたが呼吸だと思っているもの、また心臓の鼓動や胃腸の働き、さらにいえば(あとで述べるように)自分で動かしているつもりの手足の動きさえもそう、すべては大きなひとつの”現れ”なんだ。
ゆえに文末の「呼吸ひとつのなかに宇宙全体がみえているとき」がとても重要となる。
たとえば一滴の雫はもちろん元を辿っていけば大いなる海からやってきたものであり、そしてまた海へと還っていく。
だがそれは、その一滴の雫のなかに海そのものを観ることができるわけであって、これは同様に、あなたのこの魂に膨大な私たちの歴史や、宇宙の創生からいまに至るまでの様子が常に語られているということにある。
もちろんこうした深い感得は、もはや体とか宇宙とか、さらには自分や他人などといった”区分け”は無用となるだろう。ただ大きな流れだけがある。それは揺るぎなく永遠に満ちているものだ。
ときに興奮や焦りで呼吸がたとえ激しく脈打っていても、それもまた大いなる流れの現れにある。天気がいつも穏やかな快晴ではないように、むしろそれが一定でないからこそ、推移的なバランスが”一定”に保たれている。
科学ではそれをエネルギー保存の法則と定義しているけども、無数の閉ざされた孤立系を包含するより大きなひとつの系があると捉え直してみれば、つまりエネルギーと呼ばれるものがそもそもなんであるのかがみえてくる。
さて、自分で制御できない心臓や胃腸の働きはまだしも、自発的に動かしている手足もまたなぜ大いなる全体の現れなのか。
それは体や宇宙という認識と同様に、己が日頃体験している人生の光景もまた「区切りとしての現れ」として捉えているわけで、つまり天気と同様に、流れているものの”緩急”に重ねて己の観念世界をみているだけであるからだ。
それゆえ「2つの理解」を得ておく必要がある。(これもまたたくさんの手記やコメント回答で話していることなので、そのうちに出会うと思うよ)
ひとつは、激しい流れを己の世界をして表現され続けるのは、いわば雨雲が去っていくのを待たずに、雨雲の下をずっと追いかけているようなものゆえ、だから現状の執着を手放さねばならないということ。
そしてもうひとつは激しくも穏やかでも、それが己の世界の姿として、つまり己の幻想として姿や形を与えられるとき、それはあなたの意識に蓄えられている素材をもとに構成されるということにある。
たとえば、誰であれ様々なインスピレーションを受け取ることができる。
美しい風景をみて「美しい」と感ずるわけで、だがそれを記憶に留めておきたいと思うとき、あなたに絵を描く技量がなかったり、また写真好きが高じて手にしている機材も技術力もなければ、それを形にすることはできないだろう。
音楽家は演奏ができる、野球選手は野球での実力を存分に発揮できる。つまりそれらの技術も方法も知らなければ、彼らのように降り注いできた何かを、それによって表現することはできない。
だけどもどんな人であれ自分なりの方法でその「恩寵」を表現しているわけでね、たとえば美しい風景をみたあと、帰宅したときに「ちょっと仕事の書類を整頓しておこうかな」と思うのは、それが己にとっての世界像への反映であるからだ。
それもまた素晴らしいことであり、つまりだめなのは、そうして自分の才分を生かさないままでいることにある。それは神(宇宙でもいい)からの恵みを受け取らず捨ててしまっているわけだ。「生きること」の喜びとはまさにその贈り物を自らの世界に表現していくことにあり、別にそれは大層なことでなくてもいいんだ。
無論、他人の評価など無用であり、自分なりの満足と納得、そして喜びに溢れているならば幸せな魂にある。
釈迦は優れた人だったけども、ダンスが踊れたわけではない。今の時代にあってもダンスなどしなかったかもしれない。だからダンスそのものの喜びは知らないが、しかし彼はダンスとして表現される喜びと”同じもの”をまったく別の事柄から常に感得していた。
天才といわれた偉人たちも同様に当然すべての分野で天才ではない。しかし”天才”であることは、その特定の分野を精通した”先”にみえてくるものを知っていたということ、すなわち、すべての分野でも得られるものをみていた。
というわけで、今回あなたは単に気が休まっただけでなく、自らの呼吸そのものに気づいたというのは、呼吸が個としての生命の活動ではなく、大きな生命活動の現れであるという気づきにやがて至ることを示している。
むしろ気分が穏やかになれたのは、大きな何かに包まれている実感を得ているからこそにあるんだ。それはここにあるのがもはや「自分の体ではないから」にある。
同時それこそが「執着の手放し」でもあるわけで、つまりそのとき、”あなたの魂”は激しい流れから離れて穏やかな流れに移行する。そして「穏やかな世界」を表現するだろう。
もしより新しい発見や出会いを体験したいなら、意識に蓄える素材を増やしてみることだ。いろんなことに挑戦したり関心を持ってみたりすることだね。
たとえそれが「将来何になるの?」なんて思っても、そんな憂慮は相手にしないこと。あなたがそうして新たに備えていくものは、いまある現状の延長に開花するものではないからだ。