「何も知らない」という生き方をはじめる

「知らない」という生き方をするとき
最高の人生となる

言葉も文化も違う異国に旅したと
イメージしてみよう

そこにはしがらみもなければ
他者を通じて悲観する要素も
まだ育っていない

あなたは外国人だから
恥が許されることを理解している
だから積極的な行動を起こす
日本ならば世間体やプライドなどから
できなかったことができるようになる

つまり異国では
あなたは何も知らないから自由なのだ

良い、悪いの価値観もなく
ただ漠然とした世界にあなたは在る
すべてが新鮮で鮮烈
毎日、そして一瞬一瞬が冒険だ
あなたは輝いている
何をしても楽しい

だがそれもつかの間、
滞在期間が延びるにつれ
その国での自意識が育っていく
「これやると私が変なやつだと思われる」
「どうせならこっちの方が良い」

つまり異国に到着したときのあなたには
「過去」がなかった

だがだんだん「過去」ができてくる
過去とは「自分」の記録である

「これは前に笑われたからやめよう」とか
過去の経験を基にした行動を取るようになる

またそうした過去があるものだから
過去を基準とした予測
つまり未来ができあがる

もうあなたの頭の中は
「過去と未来」ばかりだ
決して「いまここ」にはいない

もうわかるね

いまそこで「何も知らない」という
生き方をすればいいのだ
つまり過去を持たない生き方だ

「私は何も知らない」
いまからそのように始めてみなさい
ならば人生は荷物が降ろされ身軽になる

それによって素晴らしいものとなる

 

 


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コメント・質疑応答

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  1. より:

    なんかわかる気がする。バックパッカーをしたことはないが、何度か転職を経験しました。好きで転職した訳ではないですが、新しい職についた数ヵ月間は全てが新鮮で、大変であるがどこか楽しい。
    要するにバックパッカーとして異国を旅する若者と同じようなことをしている。
    その期間はぶっ飛んだ行動が取れるし、失敗も許される。しかし次第に失敗は許されなくなり、自己イメージが確立してくる。
    ああ、もう他の国にいきたいとなる。

    • 自分 -涅槃- より:

      >>鯤さん
      日本で暮らしながら「何も知らない」と生きるとき
      あなたは解放される

      何から解放されるかといえば
      自分自身からだ

      あなたが男性ならば
      目の前に好みの女性が通るとき
      ただ単純に声をかけるだろう

      だけども日本で暮らすあなたはそれをしない
      しないというよりも「できない」

      なぜできないのか
      それはアイデンティティというくだらないものに
      掴まれているからだ

      何でもしたいようにしたらいいのに
      あなたはモラルに囚われる

      自分はそういう人間じゃない
      そういうことをするのは大人じゃない
      それをして失敗したらどうする
      嫌な思いはしたくない

      あなたが海外旅行にいくとき
      それらは解放される
      恥が許されるからだ

      あなたは海外では異邦人
      その意識がある

      でもそれはその前提の中での自由性のこと

      だから日本で解放されなさい
      日常の中で解放されなさい
      犬のように気に入った人には尻尾を振りなさい
      ただ単純にシンプルに
      その通りに
      ただ生きるのだよ

      それが「悟り」だ

  2. 人間 より:

    私はこの記事の様に鮮烈に生きたんですよ!w
    そのために無意識の前提について研究しているのですがそもそも理解とやらが前提とされている論理の上での納得であるからどこにもたどり着かないのでしょうか?ノートを振り返るとそれについての既知的な情報が書かれるだけでなにも進んでいない。
    一度 学びとやらを完全分解し見直しみます。少々バカになろうと思います!!

    • 涅槃の書-自分 より:

      人間さん

      >一度 学びとやらを完全分解し見直しみます。少々バカになろうと思います!!

      とても良いことだ。あなたは己を閉じ込めている外側の殻に辿り着いている。あとはそれを破壊するだけだね。ヒントとなる話をいれておくよ。

      まず”探求”は「そうでないところ」に到達するためにするものであって、探求で何かが引き寄せられるのではない。

      前にも話したかもしれないが、たとえば恋愛を研究したところで、誰かを好きになる気持ちが理解できるわけではない。

      ではどんなときに、その人に恋愛感情が湧くのだろう?

      もしあなたが誰かを愛してやまないとき、その人の個性のすべてが愛おしくなる。口癖や仕草、まつ毛や唇などだね。だがそれはすでにその人に恋しているからそうした要素に惹かれるのであって「恋がはじまった理由」がそれなのではない。

      じゃあなぜ恋をしているのか。明確にそれを言い表すことはできないはずだ。何を並べてもそれは事後的な要素にすぎない。

      よく女性が男性に尋ねるセリフがあるね。「私のどこが好きなの?」というやつだ。男性はこれを聞かれるとき、たしかに個々の要素を並べることはできるが、だがそれらは「好きだからこそ、それらがある」ことを心の中でわかっている。

      だけどもその源となるものがどうしても伝えられない。それを探求しようとするほど、恋心が何だか偽わられたようなものにすり替わっていく。可憐で美しい化粧の向こう側には、さらに美しいものが隠されているはずだと胸をときめかせるが、実はその向こうには何もないのだ。

      しかしそうして探求するからこそ「偽り」を知るわけであって、相手に対して”ぶれなくなる”わけである。「真なるもの」を見出すからだ。

      もちろん男性側が自らの探求であぶり出しになった表面に囚われて「あれ、”理由”が見当たらないぞ? 本当は自分は相手のことなど好きではなかったのだ」と帰結する場合もある。同じ傾向としてスピリチュアル修行で”脱落”してしまう人たちもこれと同じ様子にある。

      もう少し続けてみよう。

      あなたが好きな物事があるとして、どうして「それを好きになった」のだろう?

      それは計算されてそうなったものではない。最初に己を突き動かすような衝動があったはずだ。

      きっかけは何でも構わない。誰かがやってるのを見てそれに憧れて自分も同じようになりたいと思ったのかもしれないし、また当初は好きというほどではなかったが、たまたま研究をしていたことでだんだん気持ちがそこに向いていったのかもしれない。

      だがそれは言ってみれば「対象はなんでも良かった」わけだ。

      もちろんこれが異性間の話であるなら薄情な話に聞こえてしまうだろうけども、それは要点を逃している。「表面的なものは何だって構わない」ということにある。

      異性であれ物事であれ、その相手を通じて己を貫くものがある。

      だからむしろ、「何だって構わない」からこそ、その相手を他との比較によって判断しないのであり、またその相手の変化、たとえば「若い頃は唇がチャームポイントだったが、年老いたいまはその面影もない」とかそんなことで愛情が失せないわけだ。

      じゃあ「相手は誰でも構わないのか」となるが、ここでより大きなステップを飛び越えることになる。

      いいかい、己が体験しているこの世とは主観的なものだ。だからその愛しい人も没頭している物事も、すべて己の心のなかにのみ現れている。

      言いかえれば、己が放っている「あるフィーリング」があるからこそ、そのフィーリングを実現するための姿形として、その人や物事が現れている。

      だからこそ愛おしい人の仕草や唇は「愛おしい」のであり、あるスポーツが好きならその用品カタログを眺めているだけでゾクゾクしてくるわけである。

      つまり世界の捉え方を”逆転”させなければならない。

      「表面的なものは何だって構わない」とは相手は誰でもいいということではなく、相手となる存在は「この宇宙でその人ひとりしかいない」ということなのだ。

      何かを好きになるとき、必ず「自分」が解放されている。

      日頃の思考や経験則などで凝り固まった「自分」、予定調和な現実に閉じ込められた「自分」、つまり妄想の世界でさまよい続けている「自分」がその枠組みから解放される。

      枠から飛び出したそこは生き生きした生命エネルギーで満ち溢れている。

      ところで自己を解放するとき、生物学の定義でいえば、ドーパミンやエンドルフィンといった脳内物質が分泌されたと”説明される”現象が起こるが、これら科学的定義は自然現象の”説明のひとつ”にすぎない。ホルモン物質も”脳”でさえも人間によって定義されたものだ。だから定義(捉え方)は無限に創造することができる。

      そうした「説明」自体から逆順してエネルギーに満ちることも可能だけども、だがそれだと本当に起きているものを逃してしまう。

      その結果が「お金を払えば幸せになれる」とか「成功するには〇〇を達成しなければならない」といった現代の消費社会の様子であり「自己を解放するためには、その解放の手段を”自己が”求めなければならない」という矛盾にはまり続けることになる。

      それゆえに最初こそは初期衝動的な解放感に満ちていたものの、手段によって求めるうちに単なる再現にしかならず、当初のような解放に到達しなくなる。つまり劣化したコピーでしかない。それゆえ”同じ体験”の二度目以降は必ず「パターン化」する。

      解放というのはそうした「手段を講じる自己そのものを解き放つ」ということだ。

      だから探求の真の目的は、あなたのいう「己の前提」に気づくこと、いまの己の”思い込み”を知り、そこから解かれることにある。だがその解かれたところでもまた解かれなければならない。だから究極の理解とは自我の消滅にある。

      消滅といっても恐れるものではない。それどころか、誰かを愛する気持ちや何かに没頭しているときの情熱、そうした最高にハッピーな様子とは自我がそこにないということなのだ。

      よってこの手記で語っているのは、意味や理由をもとに自分のあり方を見出そうとする図式を逆転させなければならない、ということにある。そのとき、あらゆるすべてとの一体感、連続性を感得するようになるだろう。

      あとはその一体性のまま、世界全体としての活動を「許していくだけ」でいいのだよ。

コメント・質疑応答

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