主体であることの瞑想
なにをするにも「自分がこれをしている」
という自覚を持つ
歩くとき
持つとき
見るとき
いかなる場合も
いつもの”自動モード”にそれをさせない
すなわち無意識の行動を
極限まで減らしなさい
あなたが自動モードをやめると
あらゆる行為が創造性を帯びてくる
コップを手に持つことさえ
そこにマジックが起きていることを知るだろう
あなたが主体であるとき
世界はあなただけのフィールドとなる
他者との議論中に
主体であってごらん
相手を打ち負かすとか
何か言われて嫌な思いをするとか
そんなレベルは軽々と超越してしまう
あなたが主体であるとき
すべての「内容」を超える
世界は創造だけが起きているようになる
つまりあなたは神の視点となる
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主体に関して混乱ポイントがあります。
最近、自分をやめる、我を消すを試していたんですが、この時は自分=エゴですよね?エゴに物事をやらせない。
なにをするにも「自分がこれをしている」という自覚を持つ
これは、一歩も動くことがない方の自分のことでしょうか?
いつもの”自動モード”にそれをさせない
意識を内側に向けて、歩く見る持つをやってみる。すなわち自分が~をしている=主体でしょうか??
「自分をやめる」と「自分がこれをしている」がまだ混乱してます。
特に「自分がこれをしている」がまだ難しいです。
Aさん
その2つはアプローチが違うだけで
同じものだ
どちらも「行為が勝手に起こっている」
ということを受け流している様子となる
「自分をやめる」についてだが
それはあなたが行うことはできない
自分が自分をやめるには
その因果が必要となる
つまり行為をするだけ
何かを逃していくことになる
やめようとする自分がいる限り
自分をやめることはできない
そうではなく
別のアプローチの裏側で
自分が”やめられていた”が正しい
気付いたらそうなっているものだよ
1.椅子を見る
2.椅子があなたを見ている
そのとき「見ること」だけが残り
あなたも椅子も消える
あなたと椅子が消えるということは
それを解釈するマインドが
いないということだ
だからあなたは安堵に包まれる
例えばあなたに文句言う人が
目の前にいるとする
彼はずっと騒ぎ立てている
意識が相手を捉えていると
マインドは彼の言葉の内容や
態度に解釈をする
あなたはその影響を受けてしまう
受けるというよりも
「これは腹立たしいことだ」と
自分の中からその感情を
引き出してしまう
だが意識があなたの方を向いているなら
家の中から窓の外の嵐を
眺めているようなものとなる
相手の動きに対し
「騒いでいる」や「怒鳴っている」などの
意味付けが行われないから
現実の支配から抜け出せている、となる
だが神髄はそんな表面的なことじゃない
現実に意味を与えないとき
本当の世界が見え始める
これまであなたはあらゆるものに
意味を貼り付けて見てきた
逆にいえば意味を貼らずに
見てきたものなど皆無なのだ
つまり幸福や不幸とは
自分で作り出していたということを
深い納得を得るようになる
次に、
「主体であること」についてだが
あなたの内に意識が宿っているとき
先の話と同様、行為への意味付けが消える
意味付けが消えた行為とは
もはや魔法に似たものとなる
スピリチュアルでは創造性という
あなたが椅子から立ち
キッチンに向かう流れでさえ
充実感に溢れ鮮烈で
エキサイティングな創造となる
行為ではなく創造なのだ
意識が集まるほど
指先から何かが広がっているような
そんな感覚になってくる
何もかもに愛を感じ
すべてに神々しさを見ることとなる
エゴではないあなたが
見る聞く触れるとき
それは行為ではなく
次々と創造している様子となる
お返事ありがとうございました。
今日は長年の友人達とイベントがあったんですが全然ダメでした。
私が見るをやってみたのですが、無口になってしまいました。
昔の口下手な自分が出てしまいました。
会話の流れにも乗れず…気を使う仲ではないので良いのですが、多方面に気を遣ってた時代にしゃべるのが苦手だっのにいつの間にか苦手意識ゼロになってました。
口下手時代からの友人なのでその時の意識に向いてしまってたのでしょうかね。
ついつい頭がお散歩に行ってしまい意識ここにあらず…そういえば昔は今よりずっと楽しみ方が分からなくて疲れていたな〜と。
口下手時代から今でもずっと仲良くしてくれてありがとうという思いが湧いたのが印象的でした。
よく分からないコメントですみません
Aさん
お疲れ様
いくつかアドバイスをしておくよ
まず他人は実在しない
そして無口になって
慌てているのは誰だろう?
エゴだ
エゴが他人を生み出し
そして彼らの反応から
右往左往する
この本質的な真実に気が付くためには
意識を自分へ向けることだ
外に向いてしまう癖を正すことを
習慣付けなくてはならない
今日、幻想の中にあなたはいた
ありもしない光景
ありもしない人々
記憶という幻想の中に
あなたは彷徨っていた
内容がどうであれ
内容がある時点であなたに苦を生み出す
その苦を抜け出るには
あなたが”存在すること”しかない
あなたがそこに存在している限り
他者は幻想の枠を超えられない
今日のあなたは
自らを暗闇にしてしまった
闇の中であらゆる妄想が浮かび上がり
あなたはそれと戦っていた
あなたは他者への感謝を述べているが
それすらも周囲の影響により
生み出されたエゴとなる
あなたが本来の生を生きるためには
いかなる場合でも
あなたが存在していなければならない
あなたがそこにいれば
何が起ころうとも
あなたには何の力も及ばない
交流の場でうまくやりたいなら
相手とうまくやろうとするのではなく
「自分はここにいるね」と
自分から目を離さないことだよ
それがあなたの友人たち、
つまりあなたの世界にできる
最高の感謝となる
すべてあなたの中なのだ
アドバイスありがとうございました。
自分から目を離さず、自分はここにいるねと、自意識過剰状態の違いが自分の中で曖昧な感じです。
ただ、多分自分はここにいるねをやってる時期もありました。確かに特に抵抗なくスムーズです。
自意識過剰も沢山ありました。
気遣いしまくりの時期は、何か仮面を付けてる様にスラスラ会話できます。抵抗なく。
でも算段しまくりと言うか、ここは笑顔で最初はキツく見られるからぬけた所も多目に出してとかやってました。もはや暗算で苦なくやってます。
これが自動モード?
しかしこの仮面には感謝してます。
続くと外に出たくなくなる程疲れ果ててしまってましたが、やり過ぎなければ口下手な時よりずっと楽です。
ただ友人や恋人にはそれをしてない気がしますが何故かは分かりません。
自動モードと大木を片手で持ち上げる老人も曖昧になります。
自分さんに前に仰って頂いたのですが、やろうとしてる感が取れません。
なので自分が〜をすると混乱してしまいます。
意識を内側に向けようとしてる為、エゴに鉢合わせてしまってるのでしょうか。最初は慣れるまでは向けようという態勢が取れなくても練習なのか、そもそもやり方を勘違いしてるのか分からなくなります。
Aさん
理解のために少し言葉を変えよう
自分自身であるということ、
それをスピリチュアルでは
「自己想起」という
それは自意識過剰とは反対のものだ
自意識過剰とは他者を意識するあまり
自分の動向を他に支配されていることを言う
だが自己想起とは「私は在る」と
自分自身を存在させるものだ
あなたが存在するとき
他者は消える
他者はそこにいるが
あくまで「あなたの他者」であり
つまりあなたの一部という感覚になる
意識の向きが外側に向くと
あなたの内側は闇となり
外部の影響を受けるようになる
その反応をしていることを
自意識過剰という
まあ過剰反応のことだ
また外部の影響の中で
その影響すら気付いていないのが
自動モード、つまり無意識のこと
多くの人はこの状態にある
気が付いた時には人生の終盤にいる
どちらも「我ここにあらず」だ
つまりその逆にあればいい
あなたの目指すものはそのはずだ
だから「私は在る」と常に想起しなさい
野性の本能を胸に置いておきなさい
決してぶれることもない
あなたは生まれて初めて
地面に立つことができる
自分さんいつも分かりやすく教えて下さりありがとうございます。
少し出来そう!って感じになれました。
我ここにあらずの逆にあればいい
あなたの目指すものはそのはずだ
だから「私は在る」と常に想起しなさい
野性の本能を胸に置いておきなさい
混乱ポイントがクリアになりました。ありがとうございます!やってみます。
Aさん
どんなときも
自分自身に意識を向けることだ
身体の隅々まで
意識の光を灯し続けるとよい
こんにちは。
「主体的」であること。頭ではわかっているのですが実生活ですぐ外側に持っていかれてしまいます。
特に見聞きしたものに関しては瞬時の自動反応のために自分でそもそもコントロールが出来ないのではないかな?と思ってしまう今日この頃です。
最初にこの記事を読んでの私なりの理解は「瞬時に第三者的に状況を見て「私はある」と自分に光をあて続ける」でした。他の記事も考察しながらこの一カ月位そのように勤めてきました。下記が私の疑問感想です。
「見えている」「聴こえている」以上、人間は反応します。その反応たるや一瞬です。
記事内の「騒いでいる人」ならば瞬間的に嫌悪感「嫌だな」「何言ってるのだろう」と感じます。
私はこの一カ月そう思っているわたしに気づいたら「私はある」と唱えていましたが、いちおう会話である以上話を完全に無視はできないでしょうし、目の前の人間が自分に対して感情をむき出しにしている場合、「聞こえている」言葉を「私はある」という意識でかき消すことは実際問題困難を極めると思います。
聞こえてしまった言葉にはどうしても囚われてしまい、「私はある」という意識で外側の音をかき消すことができる時と出来ない時が有ります。
それでも「私はある」を続けていますが、外側の刺激の瞬時の反応に意味づけを外すことが正直難しいです。あまりの瞬間なので。
自分にとって嫌だなと思うことをする人がいたら瞬時に「変な人、なんであんなことするんだろう」と
感じます。そう思ってしまうのは仕方ないのでしょうか?その上で「私はある」を意識しそして続けるのでしょうか?
段々そういう風になれるのでしょうか?
「見える」「聞こえる」対象が何かをし続けている場合それに反応しないコツはあるのでしょうか?見えている聞こえている事が継続されている時、それに持っていかれない意思を保てるのか正直疑問なのです。
一応は「私はある」と唱えて居ますが会話だとなかなか上手くいきません。
私の場合その「瞬時の反応」が大きく引きずられる傾向にあるので。
とりあえず気づいて自分に戻るようにはしてますが、意識してないとあっという間に持っていかれます。
ただ訓練あるのみなのでしょうか?それともどこかズレているのでしょうか?
suisenさん
>ただ訓練あるのみなのでしょうか?それともどこかズレているのでしょうか?
この世に己がいるという不思議、そしてこの世があるという不思議。それをいつも感じ、そしてそのことについてだけ考えなさい。
日常で起こる問題はすべてその「不思議」のうえにあるものであり、それら自体に囚われるのは、いわば余興のようなものであるのだ。
人間関係、金銭問題、将来のことや健康についてなどもそうであるし、それは崇高だと定義しているものもそうだ。たとえばあなたがいま質問しているようなこともそう。
宗教も瞑想も、やはり「不思議」のうえにあるものであり、ただ不思議そのものに近づこうとする「余興」ゆえに「そのことについて考える」ということに値する。
つまり答えを探していることが「答え」であるのだ。
問い続けること、その流れるままにありなさい。全体はあなたをいつも導いていたことに気づくだろう。
「不思議」ですか……?
suisenさん
そう、あなたがごく当たり前に感じてるものすべて、それがいかに不可思議であるのかをまず知らなければならない。それを知らずにいてどうして人や物に、そして自分自身に優しくなれるというのだろう。
たとえば目の前に机があって、その上に本があるとしよう。
しかし本が「ある」ってどういうことなのか。また「本」や「机」とはいったいなんのことなのだろう?
だがあなたは私のこの話の意味を「自明視」している物事の上に積み上げようとする。つまりいま目の前に光景が広がっているが、あなたは「この光景のなかに不思議な部分があるのかな」と探してしまう。
だがそうではなく、
「机の上に本がある」
この現象そのものを「自明なものとしている己」に気づくことだ。
なぜ自明なのか。
見下ろせば自分の足がある。動きについてくる影がある。立ちあがる。歩く。
これらはいったい何のことなのだろう?どうして自分はこうしたことを、さも当たり前のことのように受け入れているのだろう?
二階から妻の歩く足音が聴こえてくるが、それはいったいなんなのだろう?
こうした「自明さ」があなたの現実なのだ。光景は見えるが、その光景を「見る」ということの奇妙さ、つまりこの世のすべてが不可思議であること、その根本に気づきを向けることだ。
そうして到達する本性とは「すべてに対する優しさ」だけしかない。だけどもそれは「自明視した現実世界」のうえで、社会や他者を「我慢する」ということではなく、「自由に己が存在してもよい(なんの理由もなくすべては存在している)」という気づきであり、自分を許すことと同時に世界を許すという本当の理解を得るということにある。つまり真の意味での「優しさ」を感得する。
その優しさに悲しさや憐れみなどは含まれていない。釈迦は慈悲という言葉を用いたが、それは自明世界に生きる者たちを理解させるために使った道具のようなものだ。
実際に彼がみていた世界は決して悲しいものではなく、生きとし生けるもので溢れる漠然とした生命世界、つまり優しさに満ちた永遠の空間だったのだ。それが「彼岸」であり、般若心経はそこへ誘う(気づかせる)ためのマスターガイドとなる。
ユングだったかな、彼がスピリチュアルに傾倒していた晩年に、偉大とよばれる禅の師たちに会いに世界中をまわった。そのとき彼はこういった。「偉大なる人も近くに寄れば「影」がみえる」
つまり「悟りを開いた」という人に胸を躍らせて会ったけども、利己的な面はそのままであり疑問だったということだ。
これは西洋的な理性主義がよく陥る話だね(いまでは我が国もそう)。ユングはわかっていない。覚醒とは己が自由になることにあるのであり、彼が疑問したその禅師の問題とは、師の問題ではなく、彼の問題なのだ。
彼は常に答えを求めていた。常に外を向いていた。シンクロニシティという現象の解明、人間本性の解明、そうした研究に向き合っていた。だがその「向き合っている己」が答えだったのだ。
そのことに薄々勘付いてはいただろうけども、彼が解明しようとしていた「人間本性」が、彼自身の人間本性を解けないパズルのままにしていたわけだ。自分の尻尾を追いかけてくるくる回る犬のようにね。
科学者も哲学者も、そして私たちが日頃生きていて度々起こる、疑問やそれに対する苦悩もみんなそれと同じ話となる。
その「自明視」している土台のうえでは、己の自明に常に制限されてしまう。だから完全に崩壊させることだ。狭くて暗い建物のなかで灯りを探すのではなく、その建物の壁が崩れ落ちたときに、広大な明るい空間がずっとそこにあったと気づくのだよ。