未知を悟り、この世は幻想であることを突き止める
「我々」とは思考のことだ
我々を「われわれ」と認識するから
思考の範疇となる
認識を伴うものはすべて
思考による彩りである
私を「わたし」と認識すれば
思考でそれを見ている
よく言われる「本来の私」すらも
それをそのように認識すれば
思考が作り上げた幻想となる
だから「我々」の正体は思考である
正体を求めるゆえに
対象への認識が前提となるからだ
ここで何を書こうが
対象を作り上げているから
神も仏陀も大いなる意識すらも
思考の産物となる
多くのスピリチュアル本などで
「あなたは誰か」と問われるが
答えは「思考」だ
あなたの正体は思考だ
だが正体を求めない
問わないとき
それは思考ではない
求めないから
「あるのかないのか」すら超えている
あなたがいま完全に忘れ去っていること
いま全く意識に上がっていないこと、
それは答えられない
つまり「未知」を答えることはできない
答えようとすれば、
それを思い出している
その時点でそれを認識しているのだ
だからあなたが完全に忘れ去っていること、
「それ」そのものが超越となる
だけども思い出したり、
見たり、聞こえたり
認識をした時点で
あなたの世界にはその「カタチ」が生まれる
未知の銀河の果てに辿り着いても
その風景がある
だから未知は常にない
思考は未知を知ることはできない
いかなる場合も
あなたがそれを認識したときに
すべてのイメージを生みだすからだ
だからあなたは誰かとえいば
答えは思考なのだ
あなたは「未知」という空間に
漂う思考
思考が空間の何かを察知すれば
そこに世界ができる
認識、印象、自我、
そんな感じのもの
だけども
思考を思考として見ている何かがある
確かにそれはそこにある
このように捉えてみよう
なぜ「思考」が思考であることがわかるのか
思考の範疇でしか捉えることができないのなら
思考の「それ以外」、
つまり反対側を見ればよい
あなたが「部屋」を示す方向に
壁があり天井や床がある
だがそれは壁や天井であり部屋ではない
部屋を差し出すことはできないのだ
しかしあなたの見ているものは
壁や天井ではなく部屋だ
なのに部屋は実在しない
実在しないがそれは確かにそこにある
思考の反対側とは何か
それは忘れていること、
つまり思考に上っていないことだ
そして思考とは
思考以外のさらに「それ以外」が
思考なのだ
「自然・不自然」という状態と同じ
思考は不自然のことであり
思考以外とは自然のことだ
つまりあるがままとは
認識の介入しない自然状態のことであり
すべて溶け合っていて
識別ができない様子のことだ
そこにはただ「それ」しかない
あるのかないのかすら答えられない
識別をして対象を孤立化させれば
たちまち「思考」となる
思考が見るものはすべて「思考」である
だから世界はあなたしかいない
あなたの認識と印象で彩られている
思考が見るものはすべて「思考」
ワンネスを定義すれば、それも思考
あなたが車を見れば
「車が見えている」ということを思考している
見ること聞くことなどの五感作用ですら
すべて思考なのだ
あなたは見ているのでも、
聞いているのでもない
生まれてから一度も
純粋に見聞きしたことなどない
「見えたこと、聞こえたこと」
を思考しているのだ
つまり思考を見て生きてきた
では車を見ていないとき
車はあるのだろうか?
つまり思考を超えたエリアでは
あるともないとも、ないのだ
なぜなら認識がされていないからだ
あなたの認識が世界を生んでいるならば
車はないとなる
だが車はない、とする時点で
それも認識である
そうではなく
そうした思考の背景にあるもの
つまり「それ」
「それ」とは思考以外のこと
思考以外があるから思考が発生する
自然があるから不自然がある
法があるから罪がある
「ある」とは定義のことだ
つまり自然と定義するから
不自然を発生せざるを得ない
思考以外と定義するから
思考を発生せざるを得ないのだ
定義しなければ
何も発生しない
存在が”存在できる”とき
大きな白い画用紙を背景に
黒いインクで小さな点を描く
この時、黒い点は白い背景があるから存在する
黒い背景に同じ黒い点は存在できない
背景がなければ「点」は存在できない
黒と白、そして点と背景
つまり黒い点とは背景があるゆえに存在できる
自らの肉体の動作を認識している「思考」が
どのように思考として在るのか
思考があるということは
思考の及んでいない未知があることを
思考の裏側に無限の背景があることを意識する
食器を洗っているときの両手の動き
飲み物をかき混ぜているときの
手の動きをよく観察しなさい
認識の背景から手の動きが見えてくる
すると「手」が勝手に動いていることに
気付くだろう
今まで自分で考えて
手を動かせていたとしていたが
実際は動いている手を
認識していただけだったのだ
つまり肉体はあなたではない
肉体という何かが
活動をしているだけであり
思考という認識作用が
「あなた」と定義しているのだ
認識を超えたエリアは未知がある
未知が本当のあなたであり
思考は、思考があなたと思考しているだけの
幻影である
だけども未知は思考が及べない
肉体を通じてそれを垣間見るのだ
音を通じて静寂を知るのだ
存在を通じてその背景を知るのだ
「知る」を通じて未知を悟るのだよ
あなたが何を見ても聞いても感じても
それらはすべて思考である
対象物など実は存在しないのだ
ただ「そのように思考している」に過ぎない
思考が思考を知るとき
あなたはその枠外へ出る
Notes あなたの世界, それ, マインド, 幻想, 観念
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前はこの手記を読んでも全く理解が及ばなかったのですが、今はこの手記が指し示しているモノが何なのか、理解できる様な気がします。
話の内容を理解するというと(思考)し、(分析する)するだと思いますが、、、違う。それだと要点を逃しつづける。
書いてある事は、月そのものの事ではなく、それを指し示す指だという事もなんとなく。
内容などどうだっていいんだよの意味も。。。
わたしは無のそれ以外の存在
「何もしなくていい」とか「意識的にあればいい」とか「それ」とか伝えたい事は一つしかなくてこの事を言っているんだろうなぁ~ってのは分かっていたんですがどうしても何かが引っかかる…たくさんの瞑想法を試すも納得がいかずにずっとう~ん…とモヤモヤしていたんです。それが最近あぁそういう事かと納得できたのでスッキリしました。私はどうしても知りたかったんですね、どうしてそれをすると効果があるのかという事が。というか初期の記事の方に答えが書かれているのに全く気が付いてなかったというか理解できてなかったというか…。あれ~!?こんな事書いてあったっけ!?って何度も読んだはずなのに読む度に見方が変わるのか受け取り方が変わるのか内容が全然違って見えるという…どうやら私の心の鉄板は重すぎて持ち上げるのに時間がかかったようです。疑問が解決したお陰で心がホワホワして何とも言えないとても気持ちがいいエネルギーが今ここにいるだけで湧いてきます。あと目の前の光景が前よりぐっと近くなってハッキリ見えるような気がしますね。さらに目の前にある自分の手をじっと見ていると自分の手じゃないような変な感覚になってきました。子供の時と違ってこちら側に自分がいる感覚がまだあるので変な感じがします…。
taraemusouさん
>疑問が解決したお陰で心がホワホワして何とも言えないとても気持ちがいいエネルギーが今ここにいるだけで湧いてきます。あと目の前の光景が前よりぐっと近くなってハッキリ見えるような気がしますね。さらに目の前にある自分の手をじっと見ていると自分の手じゃないような変な感覚になってきました。
とてもよいことだ。
信念構造について少し例を出してみようか。
たとえば小学生の列があるとして、その後ろをあなたが歩いているとき、彼らが真剣に話し込んでいることに気づいたとしよう。
あなたにしてみれば、もう答えのわかりきったことを彼らは議論している。だけども彼らにとってそれは究極の問いであり、決して答えが見つかる様子がない。
そこであなたが後ろから「そうじゃないよ、こうだよ」と教えてあげてみたところ、彼らは「そんな話をしてるんじゃないよ」と言い返す。
ここであなたは思うだろう。
そうか、彼らの目線に立って教えてやらなければならない。そうでないと彼らには、この話している核心が「透明のまま」で見えてこないんだ。
そこであなたは彼らの輪に入って、彼らの言葉で、そして彼らの価値観で「答え」を話しはじめる。ところがあなたはある重大な状態に陥っていることに気づく。
それは彼らを後ろから眺めていたときに見えていた「答え」が透明になってしまって、どこにも見えなくなっているからだ。
あなたは焦ってしまうだろう。
さっきまで知っていた「答え」はもう見失われ、ただ「違和感」だけがある。つまりあなたは少年たちの世界に入り込んでしまったことになる。
そうなるとなかなか抜け出すことができない。
感じていた「違和感」さえもなくなり、その少年の世界の善悪や幸不幸がすべての基準となる。その基準に揺られながら物事を選択し生きていくようになる。
これはたとえば、ある新しい職種に就いたとき、最初どうしても理解できなかった疑問がだんだん解消していくけども、やがて「そういえば最初の頃、自分はいったい何を疑問していたのだろう?」と当時の疑問を疑問する様子と同じだといえる。
「これをこういうものだと決めつけていた」とまではわかったとしても、だがそれがどうしてあそこまでの不理解に陥っていたのか、そのまったく同じ心の状態に立つことはできない。
同様の例なら、これまで一度も経験したことのない未知の器具を使いはじめるとき、その器具のメーカーさえも想定しないようなとんでもない勘違い、誤った使い方をしたりするのも同じ。
こうしてある認識された領域から別の認識領域へと「単に平行移動する」とき、要素を結んでいる構造そのものが変化するわけだが、それはもちろん世界が変化したのではなく、己の内的な構造が変化したことにある。
これは同じ会社にいながら、雇い主と従業員のみている世界の違いでもあるし、同じ街で暮らしている幸福な人と不幸な人の違いでもある。もちろんあなた個人のみえている世界が変わるときも、この「移行」にある。
このように私たちの精神構造というのはとても脆いもので、だからいかにしていま自分が陥っている状況に気づけるかということ、そしていかにしてその拘束から離脱できるかにある。
話は変わるけども、職場や近所づきあいに関する相談をよくもらう。その多くは「どうしたら相手をわからせることができますか」というものだ。
確かに本屋へいけば、相手をねじ伏せる方法が書かれた本はたくさんある。だがいつまでそんなことを続けなければならないのだろうか。
つまりその世界に立っているからこそ、その問題に悩んでいるのであり、その意味で「最良の解決方法」とは、その同じ場所にいながら別の次元に立つことにあるわけだ。
それは何をすることもなく「問題は解決される」ということであり、まさに戦わずして勝利することにある。
さらには、環境や相手に同一化している自己意識を離脱させるとき、つまりその世界に取り憑いていた己の意識を回復して自立させるとき、それまで己によって歯止められていたギアが解放されて正しく廻りはじめるようになる。
すると現実そのものの方から新たな変化をみせるようになる。あれだけ憎らしかった相手が優しい人に変わったりする。話によればずっと家庭内の不和があったせいであって、それが解消したからだという。
己はそんなこと聞いていなかったわけで、ずっとひとり相撲をしていたことがようやく判明する。もちろん執着を続けている限りは、そのような現実は「起きなかった」だろう。だがそれは己の前を知らずに通り過ぎていただけで、気づかぬままに「起きていた」のだ。
ここに「無限の可能性」の秘密が明かされているといえる。
つまり答えを求めてさまよい続けている海面の「渦」を、己は上空から眺めているのであり、まさに渦中にいたゆえに「その渦そのものが答えであること」がわからなかったんだ。
だがその海面の様子のすべては、己が望んだ世界の全貌であり、その望みのなかの小さなひとつの渦に足を取られ続けていたわけである。
しかしこの話には”ある問題”があるね。
それは「真実」だと思っているこの現実を「どうして疑えるのか」ということだ。その”きっかけ”がなければ、そもそも疑うことすらできない。
だからこそ「ひとりで悟った」という人は、たいてい悲惨な人生を送り続けていたりする。あらゆるものを失い、だがそれでもまだ理不尽に奪い取られ続け、信じているものには裏切られ、かといって憎しみや怒りを露わにしても余計に己の立場が狭まるだけで「いつか自分が死んだら、そのときやっと皆は私の功績に気づくはずだ」という惨めな期待のままに歩み続ける。
しかしそうした期待を抱いている限り次から次へと不幸は押し寄せてくるようになる。そして次の一歩で自分はもうこの世から完全に終わるというその足が「着地してしまった」とき、その人は悟るのだ。
だがそのような遠回りを回避するために古来から宗教やサークルが発達してきた。互いに教え合い、世間と隔絶された世界観を創り出すことによって、新たなパラダイムを形成するというものだ。
だけどもそれはその新しい世界の人間になること自体が目的なのではなく、そうして現実はいくらでも変わるということ、つまりそこにいる時点ですでに扉が開いていることに気づくことにある。だから別に特殊な環境に身を置く必要はなかったのであり、家族と過ごしながら、賑わう街のなかを歩きながら、己がただ開かれるだけでよかったんだ。
それゆえひとりで悟るのと同じく「現実とは己の信念体系そのものだった」ということに気づくためのプロセスにある。
だからあなたがいま体験していることは、二つの意味がある。
ひとつは再び列の後ろに立ったこと(=現実上での自分ではない何者かとしてここに在ること)そして、あなたがずっと胸に秘めていた「願い」が、いまここに世界として実現しているということだね。
素晴らしい報告をありがとう。