できることはすべてやりなさい

いつも「手放し」について書いている
さてそれは一体なんなのだろう

諦めも
自己観照も
目の前にある現状に同一化をしない
そういうことだ
つまり心を不幸の渦に持っていかれない
ただ起こる出来事を感じ取る
違うエリアからそれを体験するから
あなたは不幸にはならない
疲れない
辛くならない
テクニックのようだがそうではない
原則的な話だ

恋愛にしても
商売にしても
人生の現状にしても
「恋愛」「商売」「人生」に
どっぷり染まってしまうからいけないんだ
すべての物事は周期がある
上り下がり、そうしてその存在が保たれる
スピリチュアル本が好きな人なら
読んだことがあるだろう

すべては波動
波のようなエネルギー
朝や夜があるように
常時一定の状態はない
電流のように
常にパワーは動いている

目の前にある石ころですら
その個体を維持する為に
エネルギーが変動している

風化は外的な要因ではない
雨風に曝されて朽ちていくのではない

雨風すら石ころと同じ一体物
つまりワンネスの元に於いて
すべては刻々と変化をする
「縁」という絡み合いの中で
「全体」が風化という側面を見せる

それがエネルギーの波動だ
波打つように波長が変わる
人間的な感覚で見れば
それが「循環」となる

日々の出来事、それは循環だ
予想もしないこと
予想すらできなかったこと
そういうことが何百も起こりだすのが
一日というものだ

今日の電車で乗り合わせた乗客
それをあなたは予想できただろうか
誰かとの会話や
あなた自体が行った行動に至るまで
その場の適応した「何か」が起こったり
出現したり、
そして役目を終えれば消えていく

今日電車で乗り合わせた人と
また会えるかね?
その確証はない
電車で目が合って気になった異性とも
一生会うことはないかもしれないし
会うかもしれない
確証はないということだ

それは一体なんなのだろう?
つまり出来事、それが循環である

内容は重要じゃない
電車とか、乗り合わせた客とか
目があった異性とか、
そういう個別のオブジェクトを総括したシーン、
それがエネルギーの波動だ

あなたの見た光景が
エネルギーの発した循環である
その光景は過ぎていく
つまり波が返していく
新しい光景が来る
その光景も過ぎていく

浜辺で波を見たことがあるなら
まさにその通り
それがすべて

その波打つ浜辺ですら
循環が「光景」として見えているに過ぎない
必ず、寄せては返していく

愛も金も情熱も
暮らしも感情も
何もかも
必ず、寄せては返していく

もしあなたが
その波に心を掴まれたらどうなるだろう
寄せては返していく
そういう単なる現象に心が動かされたら
あなたは平常心を保てない
だから観照であり、手放しなんだ

何かに躓いているとき
それは心が波に同化しているサインだといえる

今日はこのように記しておこう

できることはすべてやりなさい
だけども
その現状に心を持っていかれてはならない
その立ち位置で
できることはすべてやる

もはや「できること」を行っているのは
あなたではない
できることが着々と進行していく様を
あなたは見ているだけとなる

やらないのも構わない
だが、それは生を捨ててしまっている
このブログで書かれる「諦め」や「放棄」とは
あなたの執着心に対するものだ
目の前に到来した素晴らしきプレゼントを
受け取らないということじゃない

できることが着々と進行していく様を
あなたは見ているだけ、これが到達点

あなたは驚くだろう
気が付けばポジティブな自分
心躍る自分、キラキラした自分
そういう「自分」という風景を見ることになる
そこに不幸はなく
いつも楽しく驚異に満ちて
とても素晴らしい

あなたは人生を切り開く力がある
だけども「あなた」が切り開くのではない
あなたは決して何もしない
できることはすべてやる
そういう波動を見ているだけなのだよ

すると人生について
もっと楽しむことができる

いまのその現状もまた
超絶に最高の状態なんだ
どうやったらそうなれる?
簡単だ

あなたがその位置に入れば
後はすべて好転していく

あなたが望まない限り
最悪にはならない
望めばその「最悪」とやらが浮き上がる
だが最高も最悪も同じもの
あなたがどちらに見ているか
ただそれだけなんだ

 

 

 


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  1. 三浦万太郎 より:

    この書を、紙の書籍にされる予定はないのですか。

    • 自分 -涅槃- より:

      >>三浦万太郎さん
      それが起こるときは「起きた」のだろう

      この書の存在は私の中にもあるが
      あなたや、他の来訪者の世界の中にもある
      だから私が決めることではないのだよ

      すべてのリンクが
      ひとつの流れを生み出してくる
      因縁生起の法だ

      すべては自動的に起こっている

  2. Aslan より:

    あなたは誰?と問われたとき、今なら確信をもってこのように答える。

    「私とはそこにはいない。」(あなたの目の前にいるそれではない)

    「私はいたるところにいる。」

    • -自分- 涅槃 より:

      Aslanさん

      実によろしい
      そして「私は誰か」も同じ答えとなる
      つまり答えがないことが答えだ

      あなたがいないということ
      それは、すべてがあなたである

      答えのない問いとは
      実に美しい

      すべてのアートは
      それを指し示している

      ありがとう

  3. komatta より:

    おこたえかな…というのは上がって来られますが。

    神仏たよりで正気を保ってる感じだけど
    夜中の変なビジョンが。しんどくて…。もうダメかも…
    のところまできています。

    • komatta より:

      まえ、会社で働かなければ知ることもなかったでしょうが
      法隆寺とX線が関連されてるなんて知る由しもなかったですからね。

      文化財の放射線利用とはどんなもの
      ttps://www.jrias.or.jp/iso_and_tope/menu4.html

      全てはシンクロ。それは感じてる。けど無の道にいくまえに…。
      つぶれそうなビジョン。何をどうしたらいいかもわからなくなって。
      3次元システムは変わるわけではなし、普通の状態を。理性を保たなくてはと変な使命感みたいなのと。
      上記のようなURLもピンとラジオアイソトープ!と記憶からきて、ああ法隆寺か…となるだけだから。

  4. komatta より:

    竜首水瓶
    ttp://www.emuseum.jp/detail/100214/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=12&title=&c_e=&region=&era=&century=&cptype=&owner=&pos=1&num=2

    うちの爺ちゃんのも雲龍だったけど、心落ち着かすためいつもいく寺の綺麗なモミジも龍。なんでもかんでも「龍」とは当たりますし。

  5. moonriver より:

    素晴らしい記事だと思ってコメントを見たら昔のIDで私がコメントしていたが、日付を確認すると7年前!?7年前だともう別人で、なんだか他人のように見える。でも、この記事が刺さったのは同じのようで、この七年間、この記事の教えを自分なりに実践し続けてきた後の自分になっているのは間違いない。
    素晴らしい人生を送ってきたし、個々の出来事への執着も薄い方ではないかと思うのだが、この間、コロナで、死にかけてみて、生きることそのものへの執着は無くなっていない自分にも気が付きました。人生が遊園地のように楽しい、ゆえに、遊園地自体に執着してしまっているし、死の覚悟を持つことと、リアルな死ぬ苦しみから受ける感想はまた違うと言うことも体感した。
    7年前は、遊園地にいるのに立ち尽くしている自分。
    7年後は遊園地を遊び尽くして、遊び疲れてすらいる自分。「私」は肉体的にも若者から中年になっており、乗り物に乗るにも体力が要るようになっている。
    ジェットコースターに乗るよりも、コーヒーカップに乗って風景を楽しんだり、子や孫が乗り物に乗っている姿を楽しむような心境にもシフトしている。
    7年も経つとそう言う心境の変化もありますね。
    そう、遊園地で何をして遊ぶかではなく、どうやって遊園地から上手に立ち去るかと言う事が、次第に裏のテーマになって来ていると言うことなんです。

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