我々は動きの中にいる

瞑想的にあるとき
身体も思考も出来事も
すべてはあなたの手を離れ
起こるべくして起きているという
驚愕の事実を悟ることになる

それが世界の本当の姿だ

植物が育っていくように
すべてが循環している

それらは自然の法により
ずっと動き続けている

なぜ世界が動いていることが
わかるかといえば
静止しているものがあるからだ

唯一、静止しているのが
本性と呼ばれる「意識」
それがすべての動きの背景にある
つまりあなたの深奥のことだよ

「動き」に囚われると
どんどん引き摺られてしまう
世界と一緒に動いている限り
正しく捉えることはできない

だから静止のエリアにいなさい
その様子のことを自己観照という

 

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コメント・質疑応答

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  1. 名前のない男 より:

    常に意識的に在りたいと思います。

    無意識に生きること(意識が外に向いている状態)が無明(地獄)だと解ります。

    意識的に在る時は必然的に「今」に生きています。今に生きていれば全てが充たされています。不足はありません。

    このコメントも勝手に起こり眺めています。コメントの内容に特に意味はありません。

    何かに動かされて書きました。書きたいから書きました。拝

    • -自分- 涅槃 より:

      名前のない男さん

      それでいい
      重要なのは
      いかにして「いま私は無意識だった」と
      気付けるかどうかだ

      主婦の知恵的な
      何かアイデアが必要かもしれない

  2. suisen より:

    常に私がわからなくてウズウズしていた事の記事に会えて嬉しいです!

    この記事での自己観照はただの観照ではないかと思います。自己観照はつまり自己想起という事という記事を以前読んだ事があります。その時「???」と思いました。なぜなら自分を想起させるというのは「自分が見る」「自分がやる」というように自分を世界に際立たせる、世界の中心にいるような感覚かと理解していました。
    「自分から見る」自己想起と「見ている自分を見る」という自己観照は段階的に違うような気がするのですが…なぜ一緒なのでしょう?

    最終的には全て一緒なのでしょうが最近「涅槃の書」読みすぎて知識ばかり増えて消化していない感満載ですが頭がパンクするまで理解に励んでいる最中です。

    • 涅槃の書-自分 より:

      suisenさん

      よい質問をありがとう。多くの人にも参考になるものだ。

      >自己観照はつまり自己想起という事という記事を以前読んだ事があります。

      “自己”観照と自己想起は同じことだね。だが観照そのものと自己想起は次元が違うものだ。ちなみにこの手記ははじめの段落は観照について話しており、そしてそこに行き着くまでの足がかりとして、自己観照について語っている。

      多くの手記は読み手の意識を昇華させるためにこうした仕掛けを施しているけども、そこに難解な言葉が絡んでくるから、たぶんそこで混乱があるのかもしれないね。

      質問に答えていこう。

      自己観照と自己想起、そして観照について進めていくよ。

      まず「自分から(世界を)みる」というとき、それは同時に「みている自分をみている(感じている)」ことになる。つまり”自己”観照と自己想起は同じことになる。あなたのいう通り、”単に段階の差”であり、過程の違いでしかない。

      それはたとえば自転車が細いタイヤだけで直立しているためには、走行してなければならない、といった程度のことにすぎない。

      自己想起とは「意識が主体性を獲得する」ということだ。

      通常人は他者の目のなかで生きている。他者というのは他人のことだけではなく、物事や未来の空想(将来の不安など)もそうだね。つまり主体は己にあらず、常に外部の反応として生きている。

      そこで主体を取り戻すわけなんだけども大事なポイントがある。それは意識は人格を持っていないということだ。

      つまり「suisen」という人格がいて(日頃のあなたのことだね)、その人格を徹底的に意識が注視している状態、それが自己想起というわけだ。

      人格というのは、社会的に生成された機械のようなものであって、言ってみれば、人間世界は巨大な機械が連結しているような様子にある。常識や価値観、意味付け、判断など、そうした「普遍的なもの」が全機械を規律化する信号として流れている。

      だから「suisen」という人格はその機械の一部分だけを捉えているものというわけだ。

      さて自己想起(自己観照=自己観察)において注意が必要なのは「観照している意識」そのものをみて、そこになにかを発見することはできないということだ。これはスピリチュアルでよく誤ってしまうポイントとなる。

      「suisen」から注意を離して、意識そのものへ意識を向けることはできない。仮にそこに何かを捉えたとしても、それは虚像でしかない。禅の教えで「瞑想中に仏陀が現れたら殺せ」なんて言われるのはそういうことだね。

      なぜなら意識というのは実体ではなく、エネルギーの動きそのものであるからだ。このエネルギーとは宇宙全体の摂理のことであって、つまり「生命的な意味」での私たちの本当の正体となる。

      だから意識が「suisen」を注視しているとき、つまり自己想起にあるとき、それは宇宙全体の流れが「suisen」を完全にフォローしているということになる。だからある種の無敵感というか、万能感的な力が漲ることになる。

      それはつまり「普遍的な信号を受け取る連結した機械」であるけども、己がそうした機械であることに気づくからだ。夢のなかでここが夢だと気づいているようなものといえる。

      連結した機械とかけば、まるで身動きが取れないみたいな印象になってしまうが、そういうことではなくて、たとえばこの社会の存在というのが連結した機械ということだ。

      たとえばリングに上がるボクサーやテニスプレーヤーなどのスポーツ選手などは自己想起の状態にある。剣道や弓道などはまさに自己想起を磨くための武道となる。彼らはスポーツという人間観念の世界(連結した機械)のなかで、それらに接続されていることによって、ノイズ(心の抵抗感)が除去された、伝達ロスのない完全なパフォーマンスを発揮することができる。

      つまり機械は潜在意識(無意識)のレベルで繋がっていて、心があれこれ迷う表層意識(これがノイズ)をいかに払拭するかによって、ピュアな活動が可能になるということだ。作家も芸術家も、宗教家であっても、それが人間同士で通ずる何かを提供している限り、それは機械との連結によって流れ来るインスピレーションに従っているものとなる。

      だから自己想起は自由の獲得ではあるけども、それはあくまで主体的な自由の獲得であって、宇宙空間に放り出されたとか、砂漠に水を巻くとか、そうしう切り離された自由ではなく「suisen」としての自由を獲得することができることにあるわけだ。

      さてそうして自己想起(自己観照=自己観察)を継続するにつれて、つまり他者からの反応でない「suisen」は、「すべての他者との対等な関係」を見出していくようになる。

      ここが重要だ。これが観照へのステップであり、この手記はそのことを伝えている。

      自己を観察する意識は先にも話したように、それ自体が実体を持っているものではない。もし意識が己をみて何かを発見しているならそれは虚偽となる。

      じゃあ観照とはどういうことかといえば、それは観察の対象が「suisen」を超えるということだ。つまり機械全域に意識が行き渡るということにある。

      するともはやそれは対象ではなくなるということだ。

      だからよくある誤解のように「腹の立つ他人も受け容れなければならない」ということではない。それは他人の存在が対象化されている。

      では対象化せずに全域に意識が行き渡るにはどういうプロセスをたどるのか。

      それが先の「自己想起によって、すべてが対等な関係になる」というところにある。「suisen」がノイズレスなパフォーマンスを発揮するとき、連結した機械の各部分が各々の役割で稼働していることを知るようになる。

      たとえば自転車には、ギヤやチェーンやブレーキゴムなどの部品で構成されているけども、「suisen」が自らの役割を完全に充実して、余計な誤作動で己を見失っていないとき、同様に他の各部品がそれぞれ違う役割でありながら、そのすべてが存在していることによって一台の自転車を生み出していることを悟るわけだ。

      すると意識は自転車そのものに浸透する。

      多元的であり一元的である、そういう多種多様なカラフルな世界、みんなそれぞれやってるけどもひとつの流れにある、といったコスモポリタニズム的な一元世界が現れる。

      よく挙げる例だけども、草花や樹木、虫や動物、鳥たち、そしてランダムな天候、季節など、それぞれ各々の活動をしているわけだが、その集まりの結果として「森」がある。ミツバチは自分のことをやっているだけだ。花もそうだ。彼らは完全に己を全うしている。つまり自己想起にある。

      ミツバチが蜜を採取するとき、花粉を運ぶ役割も果たしている。個体の生物としてみれば当然蜜を吸うことがメインだと捉えてしまうが、全体としてみたとき、どちらがメインなのかはない。それゆえに自然の森は全体としてあり続ける。そのことを彼らが気づいているならば、それはもう自己想起ですらもない。

      つまり彼らは己がハチであるか花であるかを知らず、全体に流れるエネルギーのままにあり、もはや現実上の存在ではないということだ。

      ハチや花の姿はそれを客観的に捉える者(たとえば「suisen」)が認識上に描いている映像にすぎない。機械上で伝達されるプログラムだ。つまり宇宙の壮大なエネルギーを、多種多様な表現としてあなたは捉えているのである。

      だから観照というのは、個人的な体験ではなく「エネルギーそのものに在る」ということ、己がそうであると同時に世界のすべてが「同じ」となり、言い換えば「この世界が己そのものである」という深い納得に溶け去るということにある。

      観照へのメソッドはいくつもある。ただ完全に観照意識(個別化された自己意識がもとの大いなる意識へ還元されること)になるとは、それは「死ぬ」ということだ。禅は生きながら死ぬということを至上の境地とするけども、それはいわば半死のようなもので、観照意識を背景に感じながら自己想起を楽しんでいる、つまりRPGゲームという「守られた世界」のなかで冒険を楽しんでいるという状態にある。

      だけどもこの見解さえも自己意識を持つ者からみた捉え方であって、実際は生も死もない。逆にいえば、私たちは「豊かで満ちながら最初から死んでいる」のであって、そのことに気づくことが悟りとよばれるものとなる。

      街や公園などで、そこにあるすべての存在(人や動植物、木漏れ日、風、石の風化など)が「みんな一緒に同時に動いている」ことを感じてみることだ。後頭部から意識が広がってそこにあるすべてを包みこむような感じだね。

      つまりあなたの背中から「天使の羽」が伸びてそれが世界全体を包みこむとき、「suisen」は消えて、ただ優しく満ちたもの、ワンネスに到達する。

      もはや自己想起や観照などといった言葉や説明は、すべての現実と同じくただの戯れ、ただのお遊びだったとなる。

      つまり登りきったハシゴはもう必要ないということだね。

  3. suisen より:

    自分さん

    ご丁寧な回答ありがとうございます。
    お返事いただけないと思っていたのでとても嬉しく思います。

    頭の中でごちゃごちゃしていた「観照」までのプロセス理解できました。
    私には自己想起を深める必要があると再認識しました。私の視点はまだまだ外側の対象の方が大きくて主体の自分がよく消えてしまいます。「同等」に見える ステージをまず定着させたいと思います。

    本当にありがとうございました。

    • 涅槃の書-自分 より:

      suisenさん

      たとえば観照であるならば、そのインスピレーションを補助してくれるものに習慣的に関わるようにしておくといい。観照の一番のコツといえば、それを忘れないことだからだ。

      たとえば名画などをプリントアウトして飾ってみるのもいいね。パブリックドメインになった高解像度なものがwikipediaなんかでもダウンロードできる。有名どころでおすすめするならモネやルノワールあたりかな、印象派の絵画は日本人の禅的な素養に共鳴しやすいといえる。

      私も一時期それに凝って、油絵の雰囲気が出るアート紙などでA3出力したりしていた。いまはもっと大きなサイズが欲しいので複製画を購入するがね。

コメント・質疑応答

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