豊かさは向こうからやってくる

お金持ちになりたいと願う理由は様々あるだろう。あの高級な暮らしがしてみたい、毎日好きなときに起きて、いつでも自由に旅行に行きたい。

それは結構なことなんだけども、あなたがそうしてお金持ちになって「こうなりたい」というすべてには、ひとつの共通点がある。

なにかといえば、人間関係であれ労働であれ「心をうるさく煩わせるものから離れたい」ということだ。

つまり何が本当は欲しいのかといえば「この海辺の静かな豪邸で暮らせたらリラックスできるだろうな」とか「こんな高級な服を着ていたら誰もが一目置いて特別扱いしてくれるだろうな」とか考えて、その家や服を手に入れることではなく、穏やかになれている心が欲しいだけなんだ。そこに気づいてみよう。

だからいまある持ち物、いまの暮らしのままで「自分をそうなるように仕向けるだけでよい」のであってね、しかもそれは無料となる。さらに後述するように、そのあり方において新しい現実は”向こう”から自然にやってくることになる。

むしろ大枚叩いて豪華な暮らしを得たところで、自ら穏やかになれる精神がなければ、それはなんの価値もなく、また借金や支払いだけが増えるだけでなにひとつ得ていないことになる。心煩わされる要因が余計に増えただけだろう。

 

用意された真実

ではどのようにして「いまの暮らし」に充足できるのか。

まず理解しておくべきは、心煩わされていない、つまり「穏やかであること」と、胸躍るように何かを楽しめたり、物事にひたむきに没頭したりすることは「同じ」だということだ。

どちらもエネルギーが充実している様子にあるわけで、つまりその充実をどのように表現しているかの違いにすぎない。

言いかえれば、エネルギーをうまく使うことにあるわけだが、しかし「エネルギー」とはなんだろう?

エネルギーというのは科学が”説明”のために作った言葉であり、実際それがなんであるのかを科学は知らない。変に聞こえるだろうけども、これが私たち人間の世界なんだ。その意味では、空気も水も光もそれらが本当はなんであるのかを、いまだ人類はわかっていない。

これにはある”根本的な事情”があって、私たちがどれだけ探究してもその答えは「わかりようがない」んだ。

というのは、私たちが知っているのは、空気や水や光、また原子や素粒子といった「説明のしかた」だけであり、では説明をしているその当のもの自体がなんであるのかは、私たちは自らで生み出した説明を通じてしか、それを理解することができないからにある。

 

無限の源泉

ここに「理解」がそもそもなんであるかがみえてくる。

それらはあくまで「人間がつくった説明」を矛盾なく取りまとめることにあり、だから新しい説明(これが科学の新発見とか、文明開拓といわれるもの)が発明されれば、当然のごとく人間の世界のあり方も変わる。

たとえば17世紀にニュートンが万有引力を”説明”するまで、引力は存在しなかった。

「でも古代だって地表で生活してたじゃないか」というのは、この話の意図がみえていない。それはあなたが「引力」という説明を知っているからこその考えにすぎないわけで、むしろそんなあなたは「引力」という観念に縛られていることになる。つまり「みえていないもの」が目の前にあることに気づけない。

言いかえれば、私たちはよほど深い気付きにない限り(つまり”目”を開かない限り)、型にはまった考え方に支配され続け、自らのその型(=信念)を覆すことができないんだ。

何を発想してもそれはいま己を巻き込んでいる信念に従ったものであり、さらに厄介なことに、こうして己を規定している信念に対して疑問を抱くことさえできない。なぜならどのように疑問したところで、その疑問のあり方がすでに信念に沿ったものであるからだ。

だから人間の世界というのは、人間が人間のうちに自らをアップデートしていくわけだが、ニュートン以降に様々な機械(自動車、飛行機、高層ビルetc..)が発明されたように、私たちが「エネルギー」と呼んでいるものを、いかに人間の観念世界のなかで、それを新しい形に置き換えるかを繰り返してきた。それが時代の進歩となる。

 

みえるものはすべて幻想

だがここで注意すべきは、自動車もビルが並ぶ大都市も、すべて私たち人間の”認識上の産物”であること、つまりすべては幻想であるということだ。

猫と一緒に暮らしていても、あなたがみている家のなかの光景を猫は同じようにはみていない。あなたがキャットフードをあげる動作にしても、猫からすれば、あなたの知らないまったく異質の光景がそこに起きている。

だがこれもまた、わざとこのように話しているのであって、より正しくいえば本当はそこに猫などいない。「猫」もまた、私たちにみえている幻であるからだ。

繰り返すように、ここには「エネルギー(と呼んでいるもの)」があり、それを「どのように理解するか」によって様々な人間の世界が現れている。

太古に引力がなかったわけではないと「いまの私たちだからこそ」そう認識しているわけだが、これは逆にいえば、いま私たちがみえていないことが、未来の私たちからすれば山ほどあるんだ。

目の前にあるのに、それは「まだ」存在していない。つまりまだその説明がつくられていないだけとなる。

同様に、私にはみえるがあなたにみえていないものがある。子どもの頃のあなたにみえていたが、大人のあなたにみえなくなったものもある。あなたが心満たされているときにだけみえるものがあり、逆に不安で恐れているときにだけみえているものがある。

だからこそすべて幻想なんだ。

 

釈迦の説法

もちろん「エネルギー」も”説明”であり、その概念自体は幻となる。科学が論理的な構造をつくるために考案した定義にすぎない。

これは宗教も同じ。釈迦はいろんな比喩を用いて話したが、まさに彼のそのあり方に大きな意図があったんだ。

それは彼の巧みな「比喩を用いて話している内容」の先に真理があったのではない。彼が真に伝えていたのは「私たちの”知るすべて”が比喩なんだよ」ということにある。つまり”最初から”彼は答えを提示していたんだ。

神とか仏とか愛とか、いかにそれらの語が素晴らしい響きを持っているとしても、それ自体は月をさす指であり、月そのものではない。

ゆえに「エネルギー」には二重の意味がある。そうした説明のもとにあるもの、つまり”いまここ”には説明のできないものが満ちている。”それ”だけが幻想ではないんだ。

 

幻想と思っていたものこそ実在だった

ところが”幻想に包まれている私たち”は、目に見えないものを「幻想だ」としてしまうジレンマにある。

つまり「目に見えているものだけが真実」であり、目に見えている世界のなかで、それらをうまく並べ替えようとする。目に見えないものなど信じられない。そんなのあるわけない。「そんなの幻想だ」とね。

だがそれはまったく正反対の様子にあるんだ。

どうしてそうなるのかといえば、話したようにひとつの信念体系のなかからでは、己の信念そのものを疑うことができないからにある。

己そのものが信念のなかに表示されている像であり、つまり自分の心も、そしてこの体も(容姿や性別や健康状態などあらゆるすべて)、いま”己”が信じ切っているパラダイムの産物として現れている。

だが「エネルギー」という語が二重の意味を示しているように、神も仏も愛も、その表面的な言葉の意味ではなく、それらの語が内包している二重性に気づかなければならない。

私たちはこうして「言葉を介して」でしか、幻想でないものを知ることができないわけで、つまりその視座においてこそ神も仏も愛も幻想では「ない」んだ。むしろそれこそが、唯一の実在にある。

その観点に立ってみたとき、すわなち、その”眼差し”でこの世を見つめたとき、私たちが現実に行う何気ない一切や目の前にあるものすべてが、月そのもの(=神との対話)だったことが明かされるのである。

この「逆転」を頭に入れておこう。

 

正義が悪で悪が正義

話が遠回りになってしまったけども、ではどのようにして「エネルギー(と呼んでいるもの)」をうまく使えるのか。

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