唯識(1)
今回はこれまでとは別のアプローチから
人生の謎を解いてみよう
だが最初に理解しておくべきことは
これはあくまで「アプローチ」だ
参考文献を提示したところで
それすらも月をさす指のひとつでしかない
つまりどんな話ですらも
あなたのヴィジョンの上に
ただ浮かんでいるということ
様々な経典が存在している
中には神髄とも呼べるべきものもある
だがその「神髄」すら
スクリーンに映ったフィクション
ただの幻影だということだ
それを理解した上で読み進めなさい
今回の手記を最後まで読んでから
もう一度、この冒頭文を読めば
その意味がわかるだろう
唯識
さて「唯識」というものがある
現在仏教、スピリチュアルの骨となる経典だ
釈迦自体は教えをカタチとして
残そうとしたわけではなく
般若経にしろ、この唯識にしろ
いわゆる空思想はそれから数百年後に
龍樹という超人が綴った手記によるものだ
小難しく捉えている人もいるが
そのメカニズムは至ってシンプル
・体験 (五感+意識)
・エゴ (あなた)
・それ (潜在意識)
唯識はこの3つの構成で説明されている
体験とは
見る、聴く、味、嗅ぐ、触れるの「五感」と
それらに向ける「意識」の6つだ
ここでいう意識とは
能動的な意味での意識であり
いましている行為を
照らしているかどうかのこと
例えば本を読んでいて
目は文字を追っているのに
他のことを考えて気を取られている
目に映る文字は頭に入っていない
そんな状況のとき
あなたの注意は目ではなく思考にいく
その「注意」のこと
つまりFocusのことだ
空っぽの人生
肉体的な5つの感覚と
その感覚を明らかにさせるフォーカス
それで6つとなる
唯識では六識と言われる
5つの感覚は常に開いているが
あなたがそこに注意を向けない限り
実質的な体感を得られない
無意識下で体験が過ぎていることとなる
それは体験をしていない、
ということに等しい
つまり空っぽの人生を
送っているということだ
あなたがこれまでの人生を振り返り
「なんと中身のないものだろう」
と落胆するならば
それは無意識に生きてきたからだ
何をやっていても
いつも思考に囚われる
過去や未来、
他者や価値ばかりに意識が向いて
五感の実体験を得ていない
美味しい料理を口にするが
味わっていない
まるで覚えていない
よく出す話だが
思考は上司やら仕事でいっぱいゆえ
体は週末にビーチで過ごしながらも
心は出社をしているということ
心ここにあらず、である
五感をフォーカスできたならば
つまり意識的に生きているならば
あなたの生はもっと
鮮烈に楽しいものとなる
充実した日々
そんな経験があるかな?
幼少の頃?
中高生時代のクラブ活動?
そのときのあなたは
永遠なる”いま”にいた
濃くて熱くてエキサイティングだった
思えば凄いことをやっていたなと
後で実感できるような日々だ
だがいつからか妄想の中に閉じ込められる
で、気が付いたらその年齢だというオチだ
すべての根源
エゴは飛ばして
「それ」を先に説明しよう
唯識とは古代インドからの伝承であり
「それ」のことをアーラヤと呼んでいた
その語源もあって
日本では阿頼耶という
漢字にするとセンスのかけらもないが
現代でいうところの潜在意識や
インナーチャイルドと同じものだ
源泉のことだね
すべてを湧き起こす根源のようなもの
他の経典、スピリチュアルでも
核心の扱いをされるものだ
ただし「教え」そのものが単なる表現なので
言葉の使い方や微妙な相関関係は
それぞれの経典で
異なることは理解しておきなさい
まあ、言葉などどうでも良いのだがね
ハワイに伝わるスピリチュアルに
ホオポノポノというものがある
あれは潜在意識に蓄積されたものを
消去していくというメソッドだ
そうすることで
どんどん人生が軽くなっていく、とされる
釈迦もイエスも
表現が違うだけで同じことを伝えている
つまり阿頼耶を消していく、
これはどういうことだろうか
ここがあなたの人生の謎を解く鍵となる
氷山
意識の構図は、よく氷山のように例えられる
海面上に見えている一角が意識エリア、
海面下に隠れているものが無意識エリアだ
見えているところが顕在意識で
見えていないところが
潜在意識ともいわれる
海面上のものに対し、
海面下は数百万倍の大きさと言われるが
数値で比較するものではない
つまり無意識エリアとは無限の蓄積物である
第一のポイントだ
あなたの見ている世界は、
その海面下のエリアから送り込まれている
つまり潜在意識がその世界を起こしている
潜在意識に刻まれた「あるデータ」によって
その世界が湧き起こっているのだ
世界は心の投影だといわれるが
心の投影というよりも
あなたを象徴するものでできている
つまり「あなた」すら
“象徴されたもの”なのだよ
心自体が投影されたものなのだから
世界が心の投影というのは正しくない
あなたの思想や主義主張、
そういったものも含めて
すべて「あなたという質」の通りの世界が
あなたの生きている世界なのだよ
だからあなたを象徴するもの、だ
では一体何から象徴されているのか
それが阿頼耶だ
つまり潜在意識のこと
”感じたこと”がカタチになる
あなたを取り巻いている生活
人間関係、その性格、思考から言動まで
あなたの「人生」に映っている
あらゆるすべては
その阿頼耶の記録が
そのまま具現化したものとなる
いまこのブログを読んでいる行為もそう
この文章がそこにあることもそう
すべて阿頼耶から映し出されている
ここで理解をしておくポイントがある
阿頼耶に「ブログ」があるのではない
あなたがブログを読んで感じること
つまり、あなたとブログとの間にあるもの
それが潜在意識(阿頼耶)に刻まれている
例えば
「なんて現実味のない話なんだろう」と
疑っていれば
「疑うこと」が阿頼耶に刻まれる
そしてあなたの世界には
疑わしいことばかりが起こるようになる
その「感じたこと」がどんどん積もっていき
その氷山が築き上げられている
だからあなたの人生とは
“あなたを象徴するものだけでできている”
ということだ
氷山の仕組みとしては
海面上が「体験できるカタチ」で
海面下が「その材料庫」だ
こう書いていると氷山よりも
「樹木」の方が表現に適しているかもしれない
土の下で根が養分を吸い
その養分によって幹や葉が茂る
ネガティブな養分ならば、変質した葉になる
さて次のポイント
先ほど飛ばした「エゴ」だ
これは阿頼耶と体験の間に生まれる
ギャップのようなもの
ここにあなたという「勘違い」が起こる
リスナーボイス
そもそも氷山とは「体験者」など必要なく
起こらせる源泉と、
起こった出来事のツインズが
ワンファミリーだ
「起こりが起きた」で解消されてゼロとなる
常にゼロに還っている
だが”あなた”というよそ者が入ってくる
これが「エゴ」だ
ゼロの狭間に入り込んでややこしいことになる
そのせいでエゴは
自分が人生を生きていると勘違いをしだす
勘違いだけならばまだしも
そのファミリーに居候しているものだから
エゴの感想文がアーラヤ編集部に届いてしまう
編集部は貴重なリスナーボイスとして
そのフィーリングを電波でガンガン飛ばしてくる
そして世界は大混乱に陥るわけだ
無論、大混乱しているのは
あなただけなのだがね
そうして
永遠なる自打球に当たり続けることになる
まず念頭に入れておかなければならないのは
世界は「そのまま」であるということだ
そのまま、がもっとも正しい姿だ
氷山、つまり阿頼耶は無記性であるといわれる
ポジティブでもネガティブでもなく
善でも悪でもない
そこに意味や理由もなく
ただその記録が残っているだけ
その記録が肉体的な体験として
カタチの次元に想起する
とてもシンプルだ
しかしどうだい
「通帳残高が20円」
あなたはそれをそのまま受け取らない
あなたは大変なことに捉える
通りすぎる人があなたを馬鹿にして笑う
あなたは複雑な心境になる
そうして面倒が起こる
あなたが「大変なこと」とした気持ちを
阿頼耶は無記性としてそれを記録する
すると「大変なこと」が
姿形を変えてまた出現する
これがサムサーラ
つまり輪廻転生といわれるものだ
このようにメカニズムな解釈をしていくと
もはやシュールなジョークにしかならない
だがそれをジョークとして捉えない限り
あなたは「大変なこと」と受け取ってしまう
するとさらに「大変な氷山」が
どんどん標高をあげていく
コトが起こり
あなたはネガティブを返す
すると似たようなコトが起こり
またネガティブを返す
さらに似たようなコトが、‥
ぐるぐる
ぐるぐる
ずっと廻り続けている
波が引いて押し返すように
何度も何度も繰り返している
これは数年の話でも
一生涯の話でもないよ
あなたは何万年とこれをやってきている
リインカーネイション
話をさらに深部へ進めよう
そこにいる「あなた」ですら
氷山が象徴するものと説明した
あなたが死んでも氷山は依然として
そこに残っているということだ
つまりいくらでも
あなたはリサイクルされていく
消滅することはない
嫌でもカムバックする
これが輪廻転生
輪廻転生について少し書いておこう
人生を仮に80年として
あなたは80年サイクルで
輪廻があると考える
そうじゃない
同じ事を繰り返している時点で輪廻なのだ
つまり毎瞬、輪廻転生が起こっている
毎日同じ日々の繰り返し
それも輪廻転生
それが何を意味するのか
つまり氷山には何の書き換えも
起こっていないということだ
人生の光景を変えるには
氷山の書き換えがすべてとなる
もうあなたの将来は決まっている
アカシックレコードなどいわれるが
それはつまり
確定した未来とは
現在の延長であるということだ
今のままであれば
それがそのまま続く
そういう意味だ
さらにいえば
過去も未来もなく
永遠なる「いま」がドンとあるだけだから
いまを変えればすべてが変わるのは当然のこと
変えなければ同じままだ
アインシュタインが言ったらしい
毎日同じ事を続けているのに
違う結果を望むことがどれほどの奇跡か
その通り
同じパターンの反応や思考でいる限り
同じ世界が続く
つまり繰り返さなければいいのだ
それだけで現実はいくらでも変わる
単純なシステムだよ
だが氷山とはカタチではなく
その関係性、感じたことが刻まれていることを
忘れてはならない
毎日会社に出勤していることが苦痛ならば
その日常というカタチを変えるのではなく
あなたの内面を変えるのだよ
それだけで「現実」というカタチが変わっていく
逆にあなたがカタチの次元だけを
変えようとするならば
それは同じ事を繰り返していることになる
会社勤めが大変だ、としているならば
会社をやめたところで
やはり大変な現実が起こる
氷山が「大変」を返してくるからだ
阿頼耶を書き換えるのだよ
するとカタチの次元が変わる
あなたの心持ちを変えるのだ
“思い”を変えるのだ
触れ合い方をこれまでよりも
もっと密なものにするのだ
それまで通り過ぎていた花に
あなたが愛情を感じるとき
その花はさらに色彩を放つようになる
根っこの栄養素が変わると葉の質が変わる
エゴの存在
エゴとは阿頼耶と体験の架け橋となる
一見、それがない方がスマートにも感じる
ゼロの狭間に巻き込まれて
うぉ−、と叫んでいるのは滑稽だが
エゴがなければ
一切の体験は起こりえないのだよ
あなたの知らないところで
あなたの知らないことが起こっている
その件について知らされることもない
さて、それは本当にあったのかね?
つまりエゴとは観客のことなのだ
ロードショーを観賞しているお客
強いて言えば、観客席にいなきゃならない
世界はスクリーンに映った幻影とは
うまい表現だ
なぜならば
最初から観客はスクリーンの中に
入っていなかったからだ
スクリーンの中という幻想に
あなたが入りこんで
ストーリーの中の人々とやり合う?
馬鹿馬鹿しい
影を相手に戦っているようなものだ
あなたはずっとそれをやっている
そうして苦しんでいる
まず自己観照のシートに戻ること
これはいつも言っている通り
なおかつ、
スクリーンを好ましいものに変えたいならば
あなたが変わることだ
それしかない
イージーに生きていきたいならば、
「この光景はすべて阿頼耶が見せている
私は違う光景が見たいから
これまでと違う触れ合い方をしよう」
これだけでいい
不幸体質をやめる
繰り返すが「あなた」ですら
阿頼耶の産物だ
つまりあなたが死んでも
阿頼耶は記録をデリートしない
あなたの肉体が生まれる前の前世
さらに前世、そうして何度も遡る無限の螺旋
ずっと氷山に刻まれてきたのだ
そして刻まれた”象徴どおりのあなた”が
再生され続けてきた
先祖を大事にとか
先祖の教えがとか言うが
ご先祖とは全部あなたのことだ
血縁とかDNAを超えている話だよ
そんなものは現世のあなたから
見たスクリーンの幻想だ
そうではなく
あなたという”主観”は
あなたが生まれる前も
象徴として想起されていたのだ
あなたが心に感じたことが世界を構築し続け
それが現代にも”そのまま”繋がっている
だから今世のあなたは
過去世の責任がある
利己心を持ち続けてきたお陰で
世界はいまもそうなのだよ
あなたは
1800年代も
1400年頃も
BC.500年の時ですら
まったく同じ性格だった
それをそろそろやめないか
やめない限り
同じパターンの現実が起こり
そしてあなたはその不幸体質のままだ
責任と書けば重い感じがするが
要は世界との関わり方を
変えるということだけだ
昨日のあなたからも
2秒前のあなたからも
ぐるぐると転生して
いまそこにいる
同じ世界が見えているならば
あなたは何も変わっていないということ
「同じ失敗を続けてはならない」という意味は
成功を続けろということではない
同じ生を無駄に続けるのをやめなさい、
ということだ
同じパターンで思考し
同じパターンで反応する
それがサムサーラ
いますぐそこから抜けなさい
ワンネス
さらにもうひとつ重大なお知らせがある
氷山は人の数だけあるんじゃない
ひとつだけだ
ここまできたら
理解をするとかのレベルは超える
なぜならば、理解をしようとするのは
そのエゴだからだ
エゴ自体が象徴であるという前提での話は
エゴには理解できない
ロジカルな解釈はできない
だから氷山はひとつしかないという”感覚”だけ
覚えておけばいい
「あなた」ですら
氷山が象徴した「カタチ」であり
実在するものではない
つまり他人もいない
そしてあなたも他人もひとつのものから
想起されている
もともとここには
なにもないのだよ
ゼロだ
では今日を楽しみなさい
ごきげんよう
Notes あなたの世界, あなたの正体, ゼロ, 世界を変える, 他者, 唯我独尊, 循環, 生き方, 真実
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コメント失礼します。
様々な記事を拝読し教えを実践していると「自分を捨てる。」が答えだと思います。あくまでも言葉にするならです。
「自分を捨てるにはどうしたら良いですか?」と問えば「自分を捨てるだけだ。」と返って来ると思います。
具体的に自分を捨てる方法が知りたいです。
もっと日常生活で自分を捨てざるを得ない様な状況を経験するしかないですか?
それなりに経験はしてますが自分を完全に捨てきれません。それは勿論、誰のせいでもなく自分の責任です。
恥ずかしながら心底に被害者意識があります。
良い時も悪い時も常に原因不明の強烈な不快感を感じています。単に軽い鬱病かも知れませんが。
もっと具体的に自分を捨てる方法、メソッドがあれば教えて頂きたいです。
情けない男さん
捨てられないのは当然だ
捨てようとして捨てられるものではない
なぜならば
捨てようとしているのが自分だから
捨てようにも捨てられない
自分の顔を鏡もなく
見ようとするようなものだ
では逆のやり方はどうかね?
自分を徹底的に掴み続けるのだよ
しばらくは
あなたは非難の対象とされるかもしれない
それでもあなたは徹底的にエゴを貫いてみなさい
だがその「非難」とは
あなたが恐れるものではなく
心地良い追い風なのかもしれない
それもまたひとつなのだよ
いいかい
人生とは、いかに心と向き合うかだ
どんな大富豪だろうが
ハッピーな人々だろうが
その逆でも同じ
環境や状況はまったく関係がない
誰もが心と向き合って生きている
そして心が世界を作り出す
いろいろと実験をしてみることだ
やってはいけないことは、ただひとつ
窓を閉めたままにして
新しい風を吹かせない、ということだけだよ
ご返答ありがとうございます。
最後の部分は頭や言葉で理解することではないのも知れませんがもう少しご説明頂ければ有り難いです。
我を通してみるのは面白い試みかも知れません。
幸福な時もそうでない時も何故か不快感を感じてしまうのです。
全部、夢であり幻と知った上で受け流していくのがコツかなと思っていました。
完全に諦めるか、徹底的に執着するのが方法かと思います。
どちらも中途半端にしか出来ないから不快感が消えないのでしょうね。
確実を求める、コントロールしようとする限り安心はありませんね。不確実性の中にこそ本当の幸せはあるのでしょうね。
それが起こるのを待ちます。
いつもありがとうございます。拝
情けない男さん
落ち着かない様子、
スピリチュアルに踏み入れると
必ずその道を歩くことになる
何かを対象とし
そこから自分という位置を見ている
つまり自分を相対的なポジションに置いている
それは我を通そうが
そうでなかろうが
常に他者の中で生きているということ
他の何かの中で自分を見ているということ
あなたのコメントの通りだ
そのように生きているとき
常に妄想の中にあることになる
イメージしてみなさい
地球上にあなたしかいなければ
その同じ苦悩はないはずだ
だが社会の中での自分の位置
他者から見た自分
世に自分を見いだそうとするから
溶けきることができない
いくら夢や幻と思いこんだところで
あなたは自らその「思い込み」を
ひっくり返してしまうだろう
あなたがそこから抜けるには
相対ではなく絶対であることだ
絶対的な位置を掴んだら
あなたは天地を貫く存在性を理解する
そこからはじめて
己とは他であり
他とは己である
そういうことがわかる
ご返答ありがとうございます。
上手く伝えられなかったのですが正にそうです。
外側を調えれば幸せになれると思っていました。一時的に外側が整った時もあります。
でもその時にも不快感は消えませんでした。
外側を調えても幸せになれないのは体感的に分かります。
でも、相変わらず私がやっていることは外側を調えることだと分かります。
絶対的な位置とは示して下さったイメージを想えば掴めるのか?
若しくは、掴めて初めて他=己と解るのでしょうか?
これは教わることでなく敢えてモヤモヤにしておいた方が良いことですか?
益々分かりません。スミマセン
情けない男さん
絶対的な位置に己を置くこととは
あなたの生に光を灯すこと
つまり無意識ではなく
意識的に生きるということだよ
あなたが他者や社会の評価の中でしか
自分を見いだせないのならば
それは無意識の中に生きているということだ
無意識とは闇のこと
闇に光を照らせば
闇は失われる
瞑想とはそのためのものだ
だが座ってボケッとするだけが瞑想ではない
あなたは瞑想的に生きるということを
備えなければならない
そうでなければ一生、そのモヤの中だよ
瞑想技法は本書の記事でもそうだが
あらゆるブログで紹介されている
レジに並んでいるときも
意識的に存在できるようになる
あなたも見たことはあるだろう
だがこれまでそれは単なるテクニックとして
捉えていたはずだ
いいかい
あなたの望むものは
外ではなく内側にある
光を照らすだけでいいのだよ
照らし続けなさい
そうして待っていなさい
毎日待ち続けなさい
求めるものではなく
あちらからやってくる
必ずやってくる
何も考えず
何も期待せず
ただ待ちなさい
あなたは回答を求めているから
すべてを逃してしまうのだよ
宗教など信じていませんが
あまりにもカルマを積み上げてしまって
今生は浄化に費やすしかないのかなと思っています。
「私」という感覚は確かにあるのに
内側を観てみるとそれらしきものは何もない。
何とも摩訶不思議です。
ONEPOINTさん
現世というスケールではなく
さっきの瞬間よりも
いまを新しくする、そのように生きてみなさい
いいかい
時間の経過は起きていない
いま時計の針が指している数値
それがあなたなのだ
過ぎていくものとは
過ぎていく経過があるのではなく
毎瞬違うシーンが
常にそこに起きているのだ
だから
いつも新しく在りなさい
それを心掛けてみれば
すぐに世界は変わっていく
すぐに世界は変わりますかね。
確かに変わりつつありますが
何ともいえない状況が続いています。
最近は10年後も似たような状況であることを
覚悟しなきゃならんのかなぁと思っています。
自分で努力することはできても
最後は大いなるものの采配によるのは
スピリチュアルだけでなく
勉強も仕事も車の運転もみんな同じですね。
人事を尽くして天命を待つしかできないんでしょうね。
ONEPOINTさん
要点を逃してはだめだよ
あなたが変われば
途端に世界は変わる
変わらないと思えば
そのようになる
つまり変わっているということだ
あなたに必要な努力とは
いかにその凝り固まったマインドを
溶かしていくかだけだ
技法はたくさんある
いくらでも教えることはできる
だがあなたがその本当の意味を掴むまで
その努力が報われることはない
すべてあなたの中にある
この言葉に瞑想しなさい
数日前兄に、お前は50年経っても変わらないと言われてしまいました。
確かに、同じパターンで思考し、同じパターンで反応しています。
何も変わらない毎日の平常運転です。
弓矢さん
よろしい
「同じパターン」は
あなたがいつも未来や過去を見ているから
そうなってしまう
あなたがもし
原因や結果ではなく
常に変化し続けている「針先」を生きるとき
決して同じパターンを繰り返すことはない
そこに苦や不幸が生まれる余地はない
何かの対象を愛でることによって、物事を愛すると言う態度が、アーラヤに薫習される。すると、アーラヤは愛を象徴する出来事を次々生み出すと。
例えば、今朝強盗に教われる夢を見たと書きましたが、実際には強盗はおらず、仮に、暴力を受ける、苛められると言ういつものテーマで、アーラヤが、ビジョンを見せただけで、何も起きてない。
もし、会社や学校で、暴力を受けるパワハラされると言う出来事があったとしても、やはり、それは今朝の夢と同じで実在するわけではない幻覚なので、北野映画でもみるように楽しむのが作法なのかもしれないですね。
まあ、北野映画も見飽きたので、たまにはラブストーリー もみたいなと
そう言うときは、いつもの北野映画の展開にならぬように、いつもなら風景として通りすぎる対象を愛でるとかによって、アーラヤが変化し、バイオレンスにラブストーリーが混在する名作ドラマになったりするわけですね
鯤さん
すべては夢だ
数分前のこと
昨日のこと
何年も前のこと
どれも夢だ
今日話した人
彼は彼女は
一体どこへ消えたのだろう?
明日もまた現れる
一体どこから現れるのだろう?
夢見のとき
あなたはどこにも登場しない
常にシーンだけが展開する
そして日常も同じだということだ
少し前に書いたが
遠くの風景ですら
その目の表面で起こっている
つまり「遠く」などないのだよ
すべてあなたに張り付いて
起きている
ご返答ありがとうございます。
意識的に生きてみます。
自分の存在意義や価値は外からの評価だと思っています。それを壊して行こうと思いました。
他人からの評価を求めるのを止めてみます。
人に蔑まれたり損することが嫌なのですが、順応になるより軋轢とかあっても良いかなと思います。
馬鹿にされても笑って返し自分の人生を生きねばと思いました。
ありがとうございます。拝
情けない男さん
それでいい
どんな状況にあろうが
それまでと違った心を持つことだ
環境を変えるのではなく
視点を変えなさい
もし馬鹿にしてくる人がいたとしても
それはあなたが作っているのだよ
他人の評価が気になるとき
あなたが気にする限り
他人はあなたを評価するだろう
そこに気が付くことだ
潜在意識の解説ありがとうございました。
具体的で分かり易かったです。
潜在意識=記憶=現実世界=スクリーン=幻影又は幻想
ということでしょうか。
潜在意識とは通常言われている意識だと理解すればいいのでしょうか。
でもそれだと何か矛盾が、どうもそこが分かりません。
kouitiさん
言葉に囚われないようにしなさい
多くの宗教や哲学
スピリチュアルがあるが
仏教ですら、単なるアートだ
何かを伝えるための表現技法
だから言葉同士の共通点を求めてはいけない
それは要点を逃している
そうではなく
あなたがいまどこかにいるならば
そこを離れた後、
その場所はどうなるのかを瞑想してみなさい
深く感じてみなさい
何かをつかめたら、、
ここで教えてくれないかね
有難うございます。今この場所から別の場所へ移動したとして、この場所はどうなってるのか。ないのだと思います。存在しない、頭の中にもうないことだからです。
ただ記憶はかすかに残るので潜在意識の中の記憶をたどればかすかにその場所の輪郭が思い出されます。
kouitiさん
その通りだ
いまあなたに「起きていること」
それだけがすべてなのだよ
ただしこのように捉えられるよう
もっと意識的になってみなさい
そこで立ってみる
足の裏が地面を捉える感覚がある
だが感覚を捉えた時点で
それは過去のものだ
つまりいま起こっているものではない
じゃあいまって何だろう?
あなたはそのように考え出す
だが答えを探してはならない
ターンテーブルの針のように
ただレコードが過ぎていく
過ぎた後に
音が流れる
この記事を熟読し、自分を変えようと意気込んだが、アーラヤ放送が提供する恐怖ドラマに対し、念仏を唱えるだけで精一杯だった。
しかし、先日はやたら調子がよかった。
先日は相手を喜ばせようとした。
今日は自分が得をしようとした。
しいて違いを上げればそこだけだ。
自分が得をしようとすると、アーラヤは恐怖ドラマを放送するし、相手を喜ばせようとすると、天国チャンネルに切り替えるみたい。
私のアーラヤ識は、ネガティブな面を強調すれば、恐怖、孤独、不信、忍辱、鈍感、自己中などで構成されている。
この輪廻から出かけることもあるけども、再び戻ってきたりもする。
今日の午前中、もう地獄は懲り懲りだ、よし、私は愛をテーマに生きようと決意したのだが、いきなり疑心暗鬼にとらわれ、これは夢だ、夢だ、何でもない、何も起きてないと、愛してる愛してるヒー、、と己に言い聞かせながら必死に真言などを唱えていた。
よっぽど業が深いのだろうか
或いは、疑心暗鬼が現れると言うことは、疑心暗鬼(過去世からの燻習)がひとつ消えると言うことか。
しばらく、アーラヤの恐怖放送を淡々と見物してればいいのだろうか。
鯤さん
よろしい
よく宇宙の法則と言われるが
あなたのしたことは
必ず還ってくるようになっている
したこと、というよりも
あなたの「思い」だ
だが見返りを求めてはならない
その思いが世界に氾濫する
よく「世界で起こる悲惨な出来事」について
問合せがくる
いいかい
あなたがハッピーならば
そういう事件は目に入らない
あったとしても
良い展開になったそうだ、というニュースだけが
あなたに報告される
ただし良いも悪いも
人間的な解釈だ
すべてそのまま戻ってくると
捉えておけばいい
本当にシンプルなのだよ
あなたがドキドキすれば
ドキドキしたことが
そこに起きているようにね
人間は他者によって簡単に破壊される、卵の殻のように脆弱な存在だという信念を僕は心にずっと秘めてました。
そんな危うい自分を強く魅せようと補うため、過去と未来の情報を集積化させることで現実をあらぬ方向に歪ませて、物語を語らせることで、自分のこの世界はいつまで経っても灰色の不幸な状況が創造されているみたいです。
そもそも、今の自分は取り散らかった部屋みたいに集積物が多すぎて混乱してるのかもしれません。エゴを邪魔者扱いして抑え込まずに、自由に真っ白なところに表現すればよかった。
実行できることとして、紙やEvernoteなどの表現媒体を使い、この世界で起きているものごとを書き留める作業をコツコツと続けたいと思います。自己観照をして自分の世界を俯瞰できていないと、寂寥で窮屈な人生を生きることしかできないな、と思いました。
現状の自分からなりたい自分へと変容したくても変容できず、焦燥感が募ってましたが、そんなもの諦めて起こるがままにします。
水彩画さん
それでいい
あなたは薄々気が付き始めている
ではどうかね
こういうテストをしてみよう
明日一日、自分よりも他者を優先しなさい
どんな細かいことでもだ
それは行為だけではなく
心の中、
つまり思いの時点でも
自分を排除してみなさい
なんでこんなこと‥と思いながら
他者を優先するのはだめだ
最初に言っておくが
必ず「なんでこんなこと」と思うだろう
その都度、振り出しに戻しなさい
やりなおしなさい
繰り返しているうちに
その思考を離れた位置から
捉えられるようになる
このテストの本質はそこにある
まあ、やってみなさい
エゴやアーラヤから送られる世界をひたすら体験する。体験することでゼロに帰る。
一方、アーラヤ自体にポジティブな体験を送り込むと言う方法もあるわけですね。
ポジティブかネガティブかはエゴが判断している訳ですが。
こうやって悟り系の本を読んでること自体、何万年も繰り返した、アーラヤに貯蔵されるビジョンなのでしょうか。
悟り系の本を読むことをポジティブな体験とエゴは解釈しているので、何万年と悟り系の本を読んでいるのでしょうね。
良くも悪くも悟った人から学んでいる人を菩薩と言うそうですが、私は何万年も菩薩として輪廻転生していると言うことになります。
多分私は、これから、サラリーマン辞めて彫像家になると思う。
こう言うことは何回もあったとしても不思議ではない。
唐の時代とか、江戸時代でも、宮仕えが合わねーとか言いながら、さりとていきなり出家も出来ず、在家で修行しながら仏像彫刻とか作っていたような気がする。
いや、唯識理論からすると、そんな過去世が無い方がおかしい。
やはり、今世でもそうするのだろうか。
はっきりいって、そうしたいし、そうなりたい。駄目なんでしょうか
鯤さん
彫像家になるならばそうなのだろう
だがひとつ理解しておきなさい
いまあなたが
「このままじゃだめだ」という類いの思い
ケースは違えど
それを繰り返してきた
何万年もそれをやってきている
今回本書があなたの前に現れ
あなたはどのように受け取っているだろう?
その受け取り方が
そもそものあなたの特質なのだ
いいかい
その特質を理解しなさい
完全に受けいれなさい
完全に飲み込んだとき
あなたはこれまでと違う意識になるだろう
同じパターンを踏むことがなくなるだろう
仕事より趣味の方が好きなので、このままじゃだめだというより、これでいいんだになってますね。
もし、私が会社で出来る社員だったらこの才能には気が付かなかったと思う。
逆に言うと、芸術分野での才能や志がなかったら、普通に仕事人間になっていたと思う。正直、何万回繰り返してもいいと言った、ニーチェの言う永劫回帰的輪廻もあるのではないでしょうか。
それと社会で上手く行かなければいかないほど人間としてはものすごく充実する。
駄目と最高!が混在しているのがわが人生のようだ。今のとこ。
鯤さん
思考をやめて
行動を起こしなさい
行動だけがあなたを変容させる
行動があなたの生に炎を灯す
あらゆる冒険活劇があるだろう
嵐を超え逆境を超え
そして到達する
あれは人生そのもののメタファーだ
見えない未来に恐怖する
捨てた過去に後悔をする
だが行動の次元にいる限り
あなたにあるのは「いま」だけだ
私は飛び込んだ
すべてを捨ててダイブした
すべてとは
私の資財やプライドだけでなく
愛する家族の安心や健康、未来だ
ダイブして数年、途方もない闇を彷徨っていた
だが完全に己を捨てたとき
いや、
「そのこと」に気が付いたとき
私は闇を抜けた
よくわかりません
>永遠なる「いま」がドンとあるだけだから
いまを変えればすべてが変わるのは当然のこと
「いま」とは「ただいま」世間でいうところの「現在」の事ですか?
仮にそうだとしたら、輪廻とか過去とかどう整合性が取れるのでしょうか?
サボさん
あなたの人生が一枚の画用紙に
描かれているとしてみなさい
「時間の流れ」を無視した絵が
その紙に描かれている
思考は順序を計算するだろう
だがそうではなく
「その思考を超えた状態で描かれている」
このニュアンスをそのまま受け取って
それをイメージする
すべて同時に起きた
あなたが生まれてから今日まで
そしてこの先も
さらにあなたが生まれる前
何千年というシーンが
その”一枚の紙の上”に描かれている
これが時間を超越した様子だ
その絵は物理的に描くことができない
マインドはパラドックスを超えられないからだ
だからカタチの次元ではなく
感覚的なエリアの話となる
あなたがその時間を超えた絵に
何かを書き加えるとしよう
するとすべての輪廻が変わったことになる
「一枚の絵」だからね
「すべて、いま起きている」のだよ
言葉の便宜上、輪廻やら過去やらを使うが
それは言葉自体がマインドのものだからだ
いわば、言葉がマインドであるのだよ
言葉が浮かんでいるその空間
そこに意識を向けなさい
「一枚の絵」がわかったようなわからないような・・・
人生というものを産まれてから死ぬまでの連続した毎日というふうに認識していましたが、なんとなくそうではない気がしてきました。「連続」という勘違いをしているような、「毎日」という言葉にも違和感を感じます。
コップを見て水が入ってない、コーラが入ってないと色々なものを渇望することが多かったのですが、コップそのものが「一枚の絵」、「夢」かもしれないという認識が出てきました。
もう少しで何かがわかりそうなのですが・・・
意識的に瞑想的に生きる時間を増やしていこうと思います。
ワモノさん
よろしい
コップに水が入っていないのではなく
水のないコップが在るのだ
前者は意味を与え
そして望みが含まれている
つまり「そこにないもの」を見ている
後者は「ただそれだけ」だ
時間の錯覚を超えたいのならば
いま、これまでの過去を思い出してみなさい
過去はいまそこにあるのだよ
そしてもうひとつ
未来は現在に影響を受ける
これは時間的な解釈の上での説明だ
例えば未来に向けて
何かを始めたとする
それだけで
始める前と後とでは
「いま起きている未来」が違う
では時間的な解釈を外してみなさい
どうかね?
未来は、そこにあるだろう
いまはすべてを内包するが
時間的な変容の基点となる、というわけではない
変容そのもののことだ
つまり針先
さきほど、他の方のコメントでも書いたが
ターンテーブルの針だ
針をレコードが過ぎていく
過ぎた後に音が流れる
針はいつも同じ位置にある
つまり「いま」とは
軌跡を生み続ける彗星
踊る光景をそこに残すダンサー
連続ではない
それは時間軸が前提となる
そうではなく
針だ
針は連続しない
そこにただあるだけだ
自分さん。
私、名前を「岩窟王」から「爽やかさん」に変えます。
そもそも「岩窟王」は大怨霊なので、今回の記事でいう、「自打球に当たり続ける名前」でした。
私は日本の歴史を調べて行くうちに「大怨霊」が好きになってしまって、洋画なんですが「Vフォー・ベンデッタ」という映画も好きで、この映画の主人公の「V」が、「岩窟王」好きだったんです。
「V」も大怨霊です。
ちょっと説明させてもらうなら、この映画は「お能」で、主人公「V」が、「仮面」を被っているんですが、そもそも「お能」の役目というのが、亡くなった人を舞台に呼び寄せて、大活躍をしてもらう事で「鎮魂」をする。 という舞台なんだだそうです。
怨霊の解消です。
お能で、「面(おもて)」を被っている役は全て「霊」です。
ほとんどが「怨霊」です。
「都合が悪かった人たち」です。
ちょっと、前置きが長くなってしまいましたが、
今朝、「おもしろい夢」を見ていました。
そこから、スーっとフェードアウトするように目が覚めました。
それと交代するように、「ものすごく重い憂鬱なもの」を感じました。
この記事を読んだ後の朝だったので、「これ」だと思いました。
ゼロの狭間に巻き込まれて
うぉ−、と叫んでいるのは滑稽だが
エゴがなければ
一切の体験は起こりえないのだよ ←これ凄いですね。
この「うぉー」と叫んでしまっている元となっているもの。
この「重さ、大怨霊」が、自打球に当たり続けている「原因」だと思いました。
「うぉー」と叫ばずに、「う~ん 爽やか~」になればと思いました。
それと、もう一つ発見しました。
「幻想」です。
「私」の状態の時に、目の前の世界を見て、いくら「これは幻想だ」としても「幻想」には見えないんですね。
幻想は、「それ」から見た時に初めて、「私を含めた世界の全て」が「幻想」だと気付くことが出来る。
私も、「スクリーンの絵」というよりは、もっと立体的でモヤがかかったように見えました。
昨日から、頭の後ろあたりから「私を含めた世界」を見るように心がけていたら、お客様と対話をしていたそのシーンが「ぼやけて曖昧に」なってきて、すごく儚く見えました。
「この人」も「私」も、“空”の「色」だ。 いずれ無に返ってしまう。
儚さを見てしまったので、「それは、分かち合いなのだよ」「大切にしなさい」と教えてくれたのが、すごく身に染みました。
「私の世界」に現れてくれた人達と接する事は、繊細で大切な宝物なのだと、つくづく感じました。
爽やかさん
それでいい
ここ一連の手記でも伝えているが
あなたの体験のすべては
実のところ、すべてバーチャルだ
本当は何も起こっていない
あなたが受け取ったと思っていること
その記憶を見ている
つまり実際には何も起きていない
体験とは何かといえば
それそのものが幻想なのだよ
つまり
体験をした、ということ自体が
最初から夢だった、となる
あなたは良い道にいる
良い人生を歩む人は
総じてあなたのようなタイプだ
良い幻想の中で過ごしなさい
良い夢を
自分さんありがとう。
一人の覚醒者がいる。
凄い話をしている。
皆が気になって聞きにくる。
でも話が伝わらない。
言葉に出来ないことだから、伝わらない。
未知の世界だから、伝わらない
今のところ、1 対 多数。
これが自分さんから多数に伝われば、どのようなエネルギー交流が起きるのだろう。
私は、何が言いたいのかわかりませんが、
ただ起こりだけがある。
爽やかさん
あなたのその話は
「他」から世界を見ている
いいかい
「自」から世界を見なさい
それが真実だ
それ以外にないのだよ
世界では「世界の意見」がいつも飛び出してくる
だがそれを聞いているのは
「自」ひとりだ
「自」だけがここにあるのだよ
「他」は幻想ゆえ
囚われないようにしなさい
光を失わないようにしなさい
「あらやしき」という音だけ友達から聞いたことがあったので、今の今まで、わたしは「アーラヤ放送局から電波を配信中」のアーラヤを、自分さんのジョークだと思っていました。
いま、インドでアーラヤだったから当て字で阿頼耶?!と、意外なことを知ったみたいに笑ってしまった。
唯識の話は難しくてよくわからないのですが、面白くてたまらないです。前、このブログを見つけた時もそうでした。面白くてたまらない。
愉快さん
あなたが興味を持つことはすべて
その世界に実現される
それが唯識の真髄だよ
阿頼耶はまるで遠い宇宙のような話に聞こえるが
そうではなく
その宇宙はあなたの中にあるのだ
世界を深めていきなさい
そして深めた世界のすべてが
カラクリであることを見破りなさい
私には師と仰ぐ人がいます。私の生殺与奪をにぎっている方です。40年近く慕い従っていますが、同時にコントロールされている恐怖も感じています。まあ、とんでもなく存在感のある中小企業の社長に使われている使用人という感じです。涅槃の書のおかげで、今やかなり平安な生を送れるようになったのですが、この方の前に出ると、あまりのパワーに負けてすべてが元に戻ります。こうした状況からの脱却は可能なのでしょうか。
mantaroさん
世界は構造的なものだ。物質が分子構造を持っているように、あなたと周囲の人々の関係性、あなたの生活環境、状況、日々の出来事など、あらゆるすべてが構造的な仕組みで成り立っている。
つまりあなたの現実とは、あなたの知っている通りの実体は持っていない。釈迦は因縁生起というものを説いたのだけども、それはまさに世界は構造が見せている幻想であることを言っている。
たとえば車社会がある。
自動車メーカーの経営や製造するためのプロセス、バスを通勤に使う人たち、週末のドライブを生きがいにしている人たち、デート、自動車ローン、自動車保険、それらの中を流動するコストなど、様々な要素が絡み合っていて、そしてそれらの要素のひとつひとつも、なんらかの構造として見えているものに過ぎない。
もし愛する人が交通事故に遭ったとしよう。するとその人は車社会へ憎悪が向けられる。なんで車なんか存在するのか、そんなものがなければこんな悲しいことにならなかったのに、とね。
いまあなたが抱えている悩みとは、これと同じように構造の一面を見ているにすぎない。つまりその相手さんから感じるパワーとは個人の力ではなく、彼を通じてみている構造全体のパワーなのだ。
交通事故にあった人が受けている精神的ダメージとは、事故そのものからではなく、その背後に広がる車社会全体、そしてその加害者の人生全体がのしかかっているものであるようにね。
だからそれが人であれ、物事であれ、その一面だけを信じないことだ。
たとえば円柱の物体があって、あなたはそれを円だというが、別の人は長方形だという。どちらも「見えた様子」としては正しいが「見方」が物体そのものを言い表しているわけではない。
どういうことかわかるかね?「見方」があるだけで、円柱は実在しないのだ。たとえ私が「それは円柱だ」といったところで、それもある角度からの見解でしかない。
じゃあそこにあるのはなんだ? あなたにとっては「円」だし、別のひとは「長方形」だ。そして私には「円柱」だ。だがさらに別のひとは「 」だという。見方の数だけ無限に「それ」は変化する。
だからその相手に力があると思うのをやめることだ。それは真実ではない。その人はあなたが「低い姿勢」から見るから「そう見えるだけ」であり、あなたの目の前に座っている彼はこの世の者ではない。
無数の要素が絡み合った「構造(幻想)」と接しているのだ。
いいかい、その相手も涅槃の書も世界のどんなこともすべてがそうだ。その「実体のない」ことを、実体のない本書が伝えているのだ。すべてがフィクションだ。
ゆえにどの角度で見るかはあなた次第であり、言い換えれば、その人があなたの「生殺与奪」を握っているのではなく、あなたがその人の生殺与奪を握っているということだ。そこに気付きなさい。
真実などどこにもないことが真実なのであり、つまりすべてを司るあなただけがこの世の唯一の実在者、すなわち「真実」なのだ。
凄く昔のことですが、近所で大火災が起こる夢を見ました。
私はキッチンにいましたがの消防車のサイレンの音がして飛び出してみると、我が家のすぐ近くの道路を渡った向こう側のアパートの複数の窓から炎が上がっていました。
既に消防車が来ていることと、細いながらも道路を挟んだ向こうということもあり、炎がこっちまで燃え移ってきたらどうしようという恐怖心はありませんでしたが、かなりの大火災だったため気になって消火活動をずっと見守っていました。
消火活動をしている間もどんどん消防車の台数が増えました。
ーそこで目が覚めました。
当時私はとてもけたたましい音がする目覚まし時計で起きていました。
寝起きがいいので普段は最初のチンで目が覚めるのに、この日は3分くらい鳴り続けていたようでした。
すぐに「ああ、この音のせいで火災の夢を見たのだな」と思ったのですが、夢では火災に気づいて家を飛び出し結構長時間消火活動を見守っていたので不思議に思ったのを覚えています。
今は「当時の良好な精神状態+目覚ましの音」から”近所で火事が起こるけど心配はしていない夢”を見るという動画データを阿頼耶が返してきた。それを私が時間軸に沿って見た。そういうことかなと思っています。
私は阿頼耶識の「本当のことが知りたい。世界の仕組みが知りたい」という願いの結晶として生を受けたように感じています。
でも「知れそうで知れなくて苦しい」という状況が何十年も続いています。
気分も環境も受け身の部分が多い気がして現実はなかなか変化しませんが、
”本当のことが分かる人”になれる日を待つのではなく、
「自分が分かっているところまでだけでも表現していくことを楽しむ。表現できる喜びを体験していく。」
それでいままでの輪廻からは抜け出せるように感じています。
(本当のことがわかるという意味では別の飛躍的なものが必要なように感じていますが。。)