心の平安をみつける

「大変だ、もう終わりだ」
そう絶望するときがあるだろう

そんなあなたに
知っておいてほしいことが2つある

ひとつめは
あなたが思ってるその終わりの向こう側にも
まだまだ人生は続くわけで
だから終わりではないということ

これまで維持してきたものが解体しても
人生の構成が組み変わるだけであって
だがそれは大なり小なり常に起きてることだ

より正しくいえば
どこからがはじまりで
どこまでが終わりなんてのは本当はないわけで

ゆえに全体や背景に意識を広げてみること

ある人と離別になったからといって
それがひとつの終わりにみえるのは
その人との関係にのみ視点を合わせているからだね

だがより大きな枠組みでみたとき
それは全体の変化の過程であり
むしろ全体の変化の過程だけ
永久にあり続けている

その永久的な流転のなかで
あなたは時折
人生の意味を定めようとしてるだけなんだ

つまりある人との関係にフォーカスするとき
その人との出会いと別れが
あなたにとって”人生”の意味となる

もちろんそれは全体ではない

だがもし視点を限定せずに
大きな流転のみをただ眺められるならば
人生の光景は大きく違うものになるだろう

たしかに起きてることは同じだけども
しかしその背景の動きまで感じられるならば
もう獲得も喪失も
成功も失敗もないことになるからだ

はじめからすべてここにあった

これが禅でいうところの
「本来無一物」にある

「私はなにも持たずにこの世に現れた」わけで
ゆえに逆説的に
何にも執着せず(視点を限定せず)
つまり無所有の感得においてこそ
その本来の悟りの境地に達するというものだ

福音書にも似た話がいくつもあるね

・完全になりたいなら持ち物を売り払いなさい
・金持ちが天の国に入ることは難しい

みたいな具合だが
これらもまた
すっからかんになってはじめて
イエスからなにかを教えてもらえる
ということではなく

所有によって生じていた不安や恐れなどから
解放されたらもうその時点で天国の住人なんだ

絶望などどこにもありはしなかった

なにも失われてもいないし
なにも得たこともない

なにも終わらないし
なにもはじまりもしない

これが禅の目指している”境地”にある

だから”天の国”へ到達するには
必ずホームレスにならなければ
ならないとかではなく

また逆に全財産を手放したところで
その教えの本当の意図に気づかねば
その人はまだ所有を続けていることになる

その人の視野には
はじまりや終わりの区切りがあり
なにかを失ったのだから
きっと報われるはずだという期待がある

だがそれだと天国は開かないんだ

 

執着する心

さてもうひとつのポイントだけども
「もう終わりだ」と絶望するほど
その終わり自体が終わらないという罠に
はまるということにある

恐れを握りしめてる限り
その不安定な宙吊りの現状維持が
いつまでも続くことになる

つまりなにかに執着することは
己自身を解放しない

たとえばあなたが破産したとして
それでもなお絶望しているならば
そこから続く人生のすべてが「もう終わりだ」と
呟くしかない光景の連続に思える

「一歩先で終わり」という絵が無限に続く

そんな地獄から脱するには
絶望するのをやめなければならないわけだ

その方法は話したように
何かになろうとか
何かをつかもうとするのをやめることだ

むしろ何かになろうとか
何かを得ようとかいうのは
本当は必要なくてね

これまであなたの家があったり
家族がいたり持ち物や立場があったのは
あなたが獲得したからではない

そこに描かれていた絵なんだ

その絵をみて
あなたは視点を限定させて
「私の所有物」として捉えていたにすぎない

だから家族に対して
勝手を許さないような態度をすれば
途端にぎくしゃくしただろう?

あなたの持ち物じゃないんだ

それはその肉体も同じ

だがそうして己の持ち物でないことを悟るとき
すべてと共に己は在るのだとわかるんだよ

 

心の平安をみつける

ところで”絵”は
あなたに蓄積する潜在意識の素材によって
描かれる

言いかえれば
その素材の袋こそが
まさにあなたなのであって
人生の出来事のすべてはあなたが描いている

まさにそれゆえに
あなたがあなたからなにかを奪うことなど
できないんだ

だから一番いいのは
良く思えるときも
悪く思えるときも

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