花びらは散っても花は散らない

タイトルは仏教思想家だった
金子大栄の法語のひとつだけども

彼は仏教にとどまらず
幅広い分野への理解と
そして深い自己探究において
ひとつの境地を開いた

さて
「花びらは散っても花は散らない」

もしあなたが
目の前に起きている出来事を
その小さな視野でのみ捉えるならば

花びらが散ったのに
どうして花が散らないの?となるね

もうそこにはないのに
そんなの矛盾してることになる

だが花は来年また同じそこに咲くんだ

形はみえなくても
花を咲かせる「なにか」は
そこにあり続けている

つまり”咲いてるように見えてる花”は
彼の言う「花」ではない

「花」とはそれを咲かせている
永遠の生命のことであり

だからこの法語は
見かけの花を通じて真の花をみよ
ということにある

それゆえ彼は
「花びらは散っても花は散らない」のあとに
「形は滅びても人は死なぬ」と続けている

たとえば私たちは1秒前のことさえ
いまここに差し出すことはできない

1秒前でさえ実体がないんだ
ところがその実体のないものによって
「いま」が連続している

「いま」はすぐに過去となり
言いかえれば
過去が「いま」を生み出し続けている

だからこそ「いま」を変化させるとき
未来(=これからの「いま」)が変わるわけだが

しかし元々は実体のない世界であり
人はそんななかで苦しみ続けている様子にある

だけどもその苦しみは
ある肝心なものを逃し続けているからこそ
生じているのであって

つまりそれが「花」なんだ

 

梵我一如

私たちは自分にとって得するものや
都合の良いものを選び
そうでないものを拒絶する

だがその選別というのは
見かけの世界での判断にすぎない

だいたい価値観なんてのはすぐに変わるもの
“相対的”な観念にすぎないからだ

以前は「ださい」といわれていた服が
いまやみんながそれを着て歩いてる
やがてまた「ださい」となるのだろう

あなたにとって辛かったことや
腹を立てていたこともまた
あとになってみればそうでなかったりする

むしろ素敵な日々に包まれていたような
そんな実感に浸れたりもする
当時はまったくそんな気分になど
なれるわけがなかったのにね

しかしそうして振り返った気分とは
それもまた単に価値観が変化しただけなのだろうか

そうではない

一切の価値観(見かけの花)が散ったからこそ
散っていない真の花がそこにみえているんだ

たとえばあなたが幸せな気分であるとき

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