他者の言う通りにする
自我を捨て世界に溶ける
まだよくわからないのならば
今日も手ほどきをしよう
とても簡単なことだ
親でも夫や妻でもいい
すぐ近くにいる人
あなたはその人を受け入れていない
ある部分は認めるが
ある部分は自分とは違う
そのような関係性をあなたは保っている
そんな日常のあるとき
その身近な人が
あなたの意に反することを言う
何でもいい
「宿題やったの?遊びにいく前にやりなさい」
「普段疲れてるのわかるけど
次の休みは家族でどっか連れてってよ」
子どものあなたは遊びにいきたいし
大人のあなたは休日はゆっくりしたい
だけども困ったことに身近な人は
あなたを却下する
あなたはこう捉える
「自分のことをわかってくれない」とね
本題に入ろう
世界に溶ける方法は簡単だ
その身近な人の言う通りにすればいい
あなたから見て
どれほど間違った考え方の持ち主であろうと
その通りにする
その言う通りにする
アル中でサラ金に追われて母を殴るような父
彼があなたに何かを伝えれば
その通りにする
いいかい
瞑想的に生きていれば
風が肌を触っただけで
その実在を感じ取る
世界に身を溶かす
だけどもまだそこまでの深さがなければ
日常で起こる何百というヒントからも
何も掴めない
起こるすべてが「それ」であること
その糸口すら掴めない
だが「他者があなたに何かを言う」
これほど直接的な提示はないだろう
「世界」があなたに向けて
とてもわかりやすく手を差し伸べているんだ
他者があなたに意見をするとき
あなたは自我に囚われている
だから意見が生まれる
あなたが世界に溶けているとき
あなたに誰も何も言わない
その必要がないからだ
「あなた」はあなたに何と優しいことだろう
他者の意見とはアスファルトの
小さな欠片を見たというよりも
わかりやすい
だがそのヒントですらはね除ける
「自分のことを何もわからないくせに」とね
それがどんな人物であろうと
あなたが見下していようと
その人は「あなたの世界」なんだ
すなわち「あなた」なのだよ
あなたがあなたに手引きをしている
他者が何かをあなたに言うということ
これがどれほど
ビューティフルなことか考えみよう
あなたとは全く異なったタイミングで
あなたの意向とは違う内容を
あなたに向けて伝えられる
あなたのコントロールは全くない
ただそこに生まれた風景
しかもその風景はあなたに対して直接的だ
他者のあなたへの意見とは一体なんだろう?
それはモーセの十戒と同じ
神、つまりあなたからの啓示なのだ
他者のあなたへの意見
こんなに素晴らしい手引きはないんだよ
他人の意見に流されて生きている
それをネガティブに受け取るならば
あなたは流されたことがないのだろう
つまり「流れていない」
日々の出来事を暴風と比喩するなら
あなたは「自分の考え」という板で風を遮ろうとする
必死に板を支えるが最後は力尽きて飛ばされる
そこにいる限りどちらにしても飛ばされていたんだ
だが板で遮った分、あなたは恐怖を自ら生み出し
そして単なる遠回り、
つまり時間の無駄使いをしていた
覚えておきなさい
何をどうやろうが
必ず流れに戻る
ただ無駄な抵抗をするから
何もかもが遅れてやってくる
最初から流れていること
あなたが何かを努力して
達成を摑み取ったのは
あなたが計画をしたからじゃない
別にその計画をする必要もなく
そこに辿り着いていた
どちらにしろそこに流れ着いていた
あなたが身近な人たちの言う通りに生きていけば
日々に起こる些細な出来事に隠されたメッセージが
見えるようになる
その通りにする
ただそれだけだ
怒るシーンが来れば怒ればいい
抑えるとはあなたの綿密な計画だ
金が必要なら働きまくればいい
可能な限り稼ぎまくればいい
可愛い子と仲良くなりたければ
話しかければいい
「躊躇」はあなたの思考
つまり風を遮る板だ
世界に流れる
それであなたは完全に溶ける
もはや足りないものはない
充足の世界
無限の可能性の世界が見えてくる
世界があなたに提示するメッセージ
そしてあなたの中で生まれるムード
すべて「その通り」にすればいい
それが最もスマートでスピーディに
人生を全うするコツにある
「その通りにする」
それが世界に溶けるということだよ
何も難しくない
それを遮ろうとすることの方が
何億倍も難しいんだ
なぜ難しいのか
それは不自然だからだよ
海で泳ぐ魚を
あなたは地上で生かそうとしている
吠える犬を
吠えないように仕付ける
魚は泳ぐものだ
犬は吠えるものだ
ごく自然でありなさい
それは起こるがままに
身を任せるということだよ
Notes あなたの世界, タオ, 世界, 他者, 循環, 無為自然
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ホントに素晴らしい気づきをくれてありがとうございます。
「流れに乗る」ことをキーワードにして、今はまだまだ自分の強固な意見との葛藤中だけど、でも、あらゆる出来事が、私の凝り固まった考えを溶かすためにやって来るように思えます。
今はまだまだ日々鍛錬中です。
このお題は『他者の言う通りにする」ですが、その中の
怒るシーンが来れば怒ればいい
抑えるとはあなたの綿密な計画だ
金が必要なら働きまくればいい
可能な限り稼ぎまくればいい
可愛い子と仲良くなりたければ
話しかければいい
この、自分の感情に正直で或ことと、他者の言う通りにする事の区別を教えてください。
M子さん
>自分の感情に正直で或ことと、
>他者の言う通りにする事の区別を教えてください。
ここでの他者の言う通りにする、というのは
受容を意味している
受容的であるとき
あなたは消える
つまり「あなたの自分の感情に正直である」というのは
話のベクトル、つまり意識の向きが違うのだ
あなたが自我を捨てて「到達」する道は2つある
ひとつはこの手記の通り
世界の流れに溶けてしまうこと
もうひとつは
自己を想起することだ
それは主体的に在ることを意味する
受容的に在ることと
主体的に在ることは真逆の方向となる
だから返答を少し変えてみよう
「自分の感情に正直で或こと」
それは反応を意味する
感情とはそこに起きた物事に対して
引き出されるものだからだ
それは主体的であるようで
そうではない
反応であるか
それとも主体的であるか
その違いだよ
例えばあなたが誰かと話すとき
相手に聞いてもらおうと話すのか
それとも
自分が言葉を発しているのか、
またあなたが何かを見るとき
それは見せられているのか
それとも自分が見ているのか
それらは似ているようで
まったく質が違う
あなたのいう「感情」とは
その場の反応でしかない
つまり対象に囚われた状態
その対象がなければ
それを”やらなかった”のなら
それは反応ということだよ
自分が話し
自分が見て
自分が歩くのだ
それは
話を聞いてもらい
何かを見せられて
目的地に歩かされるのではない
「主体的に在ること」が深まると
やがて受容に溶けるようになる
それは体験すればわかる
真逆の方向なのに
最後には合流する
そのあたりは
また手記にしておくよ
ありがとうございました。
主体的であることと、反応の違い、よく分かりました。
とにかく今は、一歩下がった視点から、反応で行為ぜずに、流れてくる思考を眺めることに鍛錬します。鍛錬が必要なくなる日まで。
思考の強い吸引力に引っ張られそうなときに、いつも涅槃の書に助けられて、一歩下がることができています。
ほんとにありがとうございます。
M子さん
自分を突き放すことだ
最初は強引な方が良い
怒っている自分
辛い気持ちの自分
喜んでいる自分
幸せな自分
そうした「自分」を
そのまま泳がせなさい
あなたがその意識にあるとき
自ずと主体性は目を覚ますだろう
最近、親が「いい加減に結婚しろ」と言います。
うん、・・まぁ素直に従えばいいんだよね。
私と結婚しても良いと言う人間と結婚することにします。
最近と言うか、ここ10年近く言われていたが、ずっと撥ね付けて来た。
全然流れてない。簡単なことだ。aslanさんと結婚したいと言う人と結婚すれば良いだけの話。それが世界に溶けると言うことなんだろう。
しかしいつも、無理筋な女性に片思いばかりしているaslanさんである。
これだと結婚しなくていいからね。世界に反抗しているわけだ。
そうではなく、周りの言うとおりに生きてみる。すなわち、結婚してもいいという人と結婚する。こんな簡単な話は無いだろう。
自己啓発の世界では「他者が反対するような夢を持ちなさい」とされ、もちろん「他者の反対に耳を傾けてはならない」とも強調する。
「世界に溶ける」のではなく、世界を超越せよである。
世界と言うのが自分だとしても、その自分は、単に「今までどおり」を望むので、例えば、サラリーマンがピアニストになりたいと思っても、世界は「あほなこというな」と反対する。その声に耳を傾けていたら夢は実現しませんぜ。私はピアニストであると猛烈に信じ込み、それ以外の意見は聞き入れるな。そのように説かれる。
これも一理あると思う。
世界に溶ける、流されると言うのが単に「今までどおりの人生を肯定する」ならば、こんな簡単なことは無い。「タバコ屋のおばさん」として生きることに何の違和感も感じなければそれでよい。
実際、タバコ屋のおばさんは「平凡が一番幸せなのさ」などという人生哲学を持っていたりする。
つまり、タバコ屋のおばさんの真の目的は命を養うことであり、虚栄心に駆られて変なことは目指さない、実に達観した態度だとも言える。
しかし、意外にそのタバコ屋のおばさんは若い頃にアイドルを目指したとかの「過去」があるかもしれない。要は「納得」があるかないかなのである。タバコ屋のおばさんであることに納得がいかなければ、やはり別の運命を転回せざるを得ないのではなかろうか。
その後、紆余曲折を得て、たタバコ屋のおばさんに戻っているかもしれないが、そのときは、もはやタバコ屋だろうが八百屋だろうが何でも良くなっているのである。
何か自分にとって新しいことをはじめるとき、身近な人ほど反対する。
身近な人とは、過去の自分だからだ。
だから、身近な人の話にしたがっていると、過去の自分から脱却できなくなる面はあると思う。だけど、案外、身近な人って、突拍子も無いことを言うこともある。エジソンは親に「この子はただものではない」と言われたという話しだし、捏造の可能性が大とはいえ、秀吉は母親に「お前は太陽の子だ」と吹き込まれたと言う。小心なサラリーマンの親がふと「坂本竜馬のようなビッグな男になれよ」などというようなことはありそうな話だ。身近な人に誘われて、ジャニーズ事務所に応募したら受かって、スーパーアイドルになりましたと言う話もよくきく。
過去の化身のような身近な人が、何かに憑かれたように、時に、変なことを言うことはあると思う。
その一瞬を見逃してはならないのかもしれない。
私は父親と余り仲が良くないので、余り話しを真剣に聞かないのだが、時折「お前は絵がうまいので画家になればいいと思ってたんだ」みたいなことを言うときがある。ずっと、スルーしてきたのだが、彼の言葉の中に、本当は私の本心があったのだと言えるのかもしれない。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」で、その発言までスルーしなくても良かったのだ。
どうしても「反発心」が芽生えるんだよね。
「お前は画家になれば良い」
「ふん、馬鹿なこと言うなよ」
ではなく
「お前は画家になればよい」
「ほんと?じゃあ頑張るからさ、応援して!」
これで全ての問題が解決して、世界に流れると言うのに、その可能性の扉を自分で閉め切ってしまっているのだ。
しかし、絶対「ほんと?じゃぁ頑張るから、応援して」なんて素直な台詞は言えないのである。つい反発(反応)してしまうのだ。
母というよりタイミングが…。(影響はあるのでしょうが)
詩の文体は好きでないとは言ってましたが絵の才能は認めてくれてて。
中学までは美術があり、表彰は通信簿も高評価だったので。
高校の時、イラスト関係の専門学校に行くか?と母親から話がでました。
その時、高校では商業科だったせいで物理や音楽や美術という授業は無かった。だからその絵の才能もクラスメートが多少、あの子、絵が上手いと数名知ってる程度で。高校時代、少しグレて煙草で停学ななってたので口うるさい母より過干渉?と思える女の先生と相性が悪く進路指導のとき
専門学校への進学に「お母さん、本人のやる気がないのに行かせても金の無駄ですよ」と説得され、母のやる気萎え。
お金の負担にこちらも無理も言えなかったし諦めました。だけど難しい大学と違い絵は好きだったので、もし高校の時、美術の授業があり高評価で先生も得意と認めてれれば。絵が好きだったってことさえ知らなかっただろうから。その誤解が解けてればと思えば。他者や身内の性格より…。
なんでも「タイミング」さえ…と。
そして当時は絵や詩が好きで自他ともに上手と認められたので、自らの才能、得意分野が「自覚」できた。友人で私が絵が上手いということを知らない人もいたが本当に自信があったから、ひけらかす必要もない。
中途半端な得意で好成績のほうとれたほうが(たとえば英語や数学など)
私って少しできるのよを見せなくなる。
インスピレーションも降りてたから他人が何と言おうと「自らの行きたい道、得意な道が見えていた」
しかし大人になった今は、その楽しさも技術面の才能もやる気も趣味としてさえ降りなくなった。なんでも「収入」に繋がるならを考えてしまう。
趣味として絵画をしてもいいけれど画材も高くつくし…と損得勘定や何も抜きで「描くことが楽しい」が無くなった。
そのせいで「得意分野」「なりたいもの」「何に才能があるか」「やりたいこと」が解らなくなった。体が丈夫でないのでオフィス系しか選べない年齢いっても出来る仕事がいいな。程度の選択の幅。
まだ得意分野やしたいことが解るなら道シルベがはっきりしてる分、目指す方向も解るのですが。。。
私って少しできるのよを見せなくなる。→見せたくなる。
そんで中学までは5教科の成績も悪くなかったし本当は近くの進学校の高校に進む予定でした。そこはおバカさんでも短大目指すような高校なので。
もしそこにいってたら短大などはいってかもしれません。また物理など理系の授業も多かったらしいので、そっちで面白さを発見できたかも。
成績も中学までは悪くなかったし区域内だったこともありほぼ一本でいけたらしい。
なのにこれは母の影響でなく何故、商業科いったというと…。中学での親友、悪友達なんだけど漫画に出てくるような美少女、スポーツ万能、頭良しの親友が当時いてその子が高校出たらすぐ働くのに重宝するといって商業科を選んだので、彼女と離れたくなくて進学そっちにした。
で無事、二人受かったけど。その友達、ちょっと私より本間にヤンキーだったから一年で辞めてしまった。高1の時は悪い友達多かったので仲良かった子ら殆ど2年あがることに辞めてしまって。あと退屈で元から商業科の科目に関心はいって入ったわけでもないので…。一応、自分も友達について辞めたいのような幼いことはいったが親の説得で卒業はして。
今になると親はやはり気持ちへの共感力や配慮は無かったが間違ったことはいってはないなと尊敬やら感謝部分は多い。
で、だからといって友達のせいというわけでもなく「選択肢」があったのに自ら分岐しなかったのか…。それともそのそれぞれも登場人物なら、もとより商業科に荒波に揉まれる道を歩まされるように決まってたのか。
そういう疑問はよくでます。
ちなみに商業科といっても公立だったので。
母子家庭なので私学はきついと言われたので。
当時はまだ総合選抜という仕組みがあり、何故か頭いい大学にすすむ進学校は区域内で試験じたいは受かりやすい。
公立の共学の商業科(日本でも珍しい、商業科、電気科、機械科)がミックスされてる学校。受かるのだけは難しい。確率でいったら、こちらのほうが門は狭きで落ちて泣いた友達も沢山いた。けど入るとみんな、何故かバカになる。もちょっと前提知識あり自分の得意分野確信できてたら電気や機械の選択も楽しかったのでしょうが…。けどまだ社会でてなくて漫画家とかイラストレーターなど特殊な分野いがいはサラリーマンOL分野にどんな職種があり、そのためどんな勉強が必要か、よくわからなくて。
ただ仲のいいいつも一緒にいて楽しかった友達と離れたくない。だけの気持ちで選んだので…。
そういや56億7000万って5+6=11 11+7=18 1+8=9
また9やら11だなって、マニアックなコジツケ計算はインスピ的に降りやすくなるけど、出会いは億千万の胸さわぎ~~♪にワクワクというよりは…。不安のむなさわぎ…という感覚も強く。
こじつけか洗脳かもし本当に集中力高めインスピ降ろす気なら、そのまえの心構えから大事だし疲れて5分持たない。そんな常時なんて。
エゴが殆どで、その間、外の神様にたよって…というような疑問と、ごめん、無理。その役は勘弁とか現世利益のラッキー無しのまま迷いと混乱と悩みと体の疲れとに、やや嫌気が…。の状況です。
そして今日、ぼけっとネットサーフィンしてて地母神から色々、インスピで降りてきましたが…。
ユングの元型
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%9E%8B
地母神(グレートマザー)を求めて
ttp://mandalaya.com/geratm.html
聖書関係とか行くの怖かったしあえて無視したりしたこともあったけど
アニメやドラマや映画でもそれはでてくるから、結局、遠回りするだけでなもかもしれませんが…。
今日初めてこういう知識面を知ったけれど。「先に」これを教えたらいけない法則などあるのですか?
マグダラのマリアも今日、あとで知って、あの時、どうしてインスピ降りて、あれをマグダラのマリアを調べる気になったのだろうと。
逆にこういう前提知識が先に得られると不都合とか?
頭の理解でなく経験と体験を通して真の理解におよぶためとか?
だけどエゴは空海のような方を目指してなかったから。
普通は頼る人、凄い人、凄い人に守ってもらえるから、凄い人だな~と
尊敬やらするわけで。本人なりたいかと言われたら殆どの人、いえいえ恐れ多くて。本音、いやそれまでの苦難が耐えられるかどうかとか。
ちょい小金持ちくらいで余暇時間が持てる普通でいいだろ。で困った時に頼る人で凄い人みたいな。モーツアルトも音楽の才能はすごいけどあのひとの人生自体はホラー映画にも出来そうなサスペンス系だし。エジソンも努力の人は凄いけど割と後半、研究者より経営者方面にいきテスラと葛藤したという話だから…。インスピは遠回りしても無視しても。どんな形でもくる時はくるから仕方ないし…。で手詰まり。
気になったので質問をさせてください。
「すぐ近くにいる人・身近な人」とは「家族」ということで書かれていますが、会社の人を対象にしてもいいでしょうか?
それとも、家族ということに意味があるのでしょうか?
今、会社の人で意見が合わないというか、重要だと思っているポイントが違う人のことで、どうしたものかと思っていたところでした。
試してみたいと思っていますが、この方法が家族というところにポイントがあるのかと気になりました。もっと言いますと見ず知らずの他人まで対象を広げてもいいのでしょうか?
どうぞよろしくお願い致します。
happaさん
この手記は少し視点を変えて言えば、もし自分がこの世に存在していなかったら世界はどうであるのか、というところにある。つまり「自分という抵抗」がないとき、世界はどれだけスムーズに回っているのかということだ。
あなたがその会社に在籍していなくとも、会社はもちろん運営しているだろう。あなたがその友人関係に加わっていなくとも、その人たちの交流はいまも続いているだろう。
じゃああなたがその会社やその人間関係で悩むというのはどういうことなのか。その苦悩は「そこにあるもの」が流れようとすることに必要なことなのだろうか。
これについてよく考えてみることだ。それがこの手記が伝えようとしているポイントとなる。
もちろん他人の言いなりになれという単直な話ではない。流れに抵抗している自分がいないかを「見つける」ということだ。
もしあなたが「邪魔している自分」を見つけることができて、そしてその妨害を自分で静止させることができるならば、あなたは全体とともに、より良いサイクルを生み出していくだろう。ともにどんどん向上していくようになる。
自分さん、皆さん、こんにちは!!!
今日は調子がイマイチだったのですが、家族から〇〇しなさい、と言われたとき、この手記を思い出してその通りにしてみました。
道を歩いていたら、木枯らしが落ち葉をクルクルと巻き上げていて、神の手品を見たような気がしました。他にも道道には素敵な樹木や草花がいっぱおで、重い荷物が肩にかかる負担を忘れて見入っていました。なぜか不調はどこかへ行ってしまって、帰宅してから作った料理は「美味しいよ!」と好評でした。
涅槃の書は最新記事もドンドコ読み進めていますが、どうやら私にはこの手記のタイトルズバリの「他者の言う通りにする」というシンプルなやり方が合っているみたいです。
以前疑問に思っていた、他者は実在しないがよく分からないということも、まあわからないままでいいか。と、気楽になりました。
お金は、ギリギリです。笑
住まいも、古いままです。
でも、なぜか今日、今まで生きてきた中で一番幸せだと思いました。というか、いつも幸せだったのでした。それに気づいていなかっただけで。
本当にありがとうございます。クラッカーをパンパカパーンと鳴らしたい気分です!
休知さん
>どうやら私にはこの手記のタイトルズバリの「他者の言う通りにする」というシンプルなやり方が合っているみたいです。
それはとてもよいことだ。
すべては「流れているもの」をどのように受け取るかであってね、少し話をいれてこう。
たとえば風水といえば、日本では「西に黄色が金運アップ」といったイメージを持つ人が多けども、そうして黄色ばかりを固めていくとどんどんバランスがくずれていくことになる。
なんのバランスなのかといえば、それが「流れているもの」なんだ。
言いかえれば、流れるものが滞留することなく流れること、バランスが保たれていること(調和していること)、つまり西に黄色を固めて一端を盛り上げようとするのではなく、一切の偏りがないこと、むしろゼロにすることが基本にある。
だから加算だけではなく、化殺というのだけども、引き算も使いながらトータルにフラットにしていくことが大事なんだね。
その意味で日本で流布されている風水は誤解が多くて良い顛末にならないことが多い。
そもそも風水の本流は中国にあって、陰陽五行という考え方がベースにある。
陰陽とは「流れるもの」のアップダウンを概念化したものだ。
たとえば私たちのみているこの世は「2つの極」を常に行き来している。そしてその2つが合一するとき、それらは解消される。
昼と夜、男と女、獲得と喪失、正義と悪、生と死、こうした二元性の世界に私たちは取り囲まれているわけだが、つまりコインの表と裏の関係であり、表があるためには裏がなければならない。そうしてコインが存在する。
だけどもいつも話すように視点を逆転しなければならない。コインが存在するために表と裏があるんだ。
すなわち、永遠の生命があるからこそ男と女という「見かけ」があり、永遠の生命が保たれているからこそ昼と夜という「見かけ」がある。この永遠性こそが「流れているもの」となる。「生」も「死」も見かけのドラマだということだ。
あなたのお馴染みの「この世」もまた永遠の生命の「見かけ」であって、またこの世という「見かけ」を保つために、そのなかにもいろんな「見かけ(陰陽)」がある。コインを保つためのコイン、さらにそれを保つためのコイン、無数のコインの集まりで「この世」は成立している。
すべてに波動があるのは(つまり動きがあるのは)まさに波のようにアップダウンによる推進力があるからだが、これも視点を逆転させて正しく受け取る必要があるわけで、大きなひとつのエネルギーが進み続けているからこそ、それがアップダウンとしてみえている様子にある。
だから取り違えてならないのは、話したように「流れているもの」を正しく取り扱うために、陰陽という「概念化」をしているのが風水であり、あくまでそれは海上に目印として浮かべられたブイにすぎない。
あと五行というのは、そうしたアップダウンの連続的な変化をより細かくみたものであって「木・火・土・金・水」という概念を割り当てている。
水は木を育て、木は火を燃やす。また、水は火を消し、火は金を溶かす。こうした循環によって自然は永遠にサイクルしている(私たちの世界においては”そのように”みえている)。
もちろんどれかに偏るときれいに循環されなくなるわけで、体や心にしろ、また日常のありとあらゆる物事にその影響が出てくるようになる。
ここでも間違えてならないのは、体も心も日々の出来事もまた、「流れるもの」の見かけとして現れているものだということだ。
こうした五行思想が生まれたのと大体同じ時期に、ギリシアでは哲学者だったヘラクレイトスが「万物は流転する」と語り、インドでは釈迦が「諸行無常」を語っていた。
つまりどれも同じことを言ってるのだけども、大事なのはそうした「説明」の部分に囚われることではなく「流れるもの」をいかに概念化して、私たち自身でそれをコントロールできるか(バランスを保てるか)にあるわけだね。
というわけで、本書にも”いろんな手記”があるけども、それもこの話と同じく「流れるもの」に対する様々な説明にすぎない。ゆえにあなたに合ったものをみつけられたならそれがベストとなる。なぜ合うのかといえば、それがあなたのバランスを正常化するからだ。これはどんなことでも同じ。
kumaさんのところでも話したけども、恋も仕事も料理も「見かけ(流れるものの”説明”)」として、己の世界にみえているのであり、だから清々しい朝を迎えることや仕事で達成感に浸ること、そこにあるものは「同じ」なんだ。それらは「流れているもの」がきれいに流れているからにある。
なにが同じなんだろうといえば、それはあなたが話してくれているように、落ち葉が風に舞い、素敵な花が咲いているのをみたこと、つまりあるがままにすべては流れていること、まさに「すべてが神の手品」であるということだ。
だからこの手記の「他者の言う通りにする」とは「流れているもの」の滞留の唯一の原因である「自分」を解消することにある。
自分の判断や解釈だけでは世界はどんどん狭くなる。だけども「あるがまま」に流れていくとき、自分ひとりでは体験できなかった世界が開かれていくことになる。大体は家族や友人の誘いは億劫なものだろう。だけどもそのおかげで新しい体験ができるんだ。そうしてみてみれば、家族や友人とは本当はどのような存在であるのかがみえてくる。
だけどもこの話は「他人に流されている」という意味で理解してはならないよ。他人という見方がある時点で「自分」が存在しているからだ。
そうではなく、自分がいない世界は常に安定して満たされていること、無限の可能性が開かれていることを知るということにあるわけだね。
>クラッカーをパンパカパーンと鳴らしたい気分です!
素晴らしい表現だ。
まさにその通り、硬く握った手をゆるめて解放するとき、あなたは「神の手品」そのものとなる。だがそれはあなたが神そのものだということなんだ。
こんにちは!
返信ありがとうございます。何度も読み返して、もう一度手記の最初から自作オーディオブック(朗読)作ろうと思いました。何度も聴きます。
今朝、遠方に住む母がコロナ陽性とわかりました。自分で食事ができているそうなので、多分回復すると思っていますが、それに付随するアレコレで心が大荒れしそうなのをなんとかコントロールしていました。
夫のために昼食を作りながらずっと手記を聴いていました。私が思い浮かべたことに呼応するかのように自分さんの言葉が私の声で再生されます。それを私は聴いて、目は自分の手が動くのを眺めていました。
少し疲れたので横になっていますが、ふと、今朝からの自分を思い出して滑稽とまでは言わないけど、妙に芝居がかっていたなと覚めた気持ちになりました。
寝て、起きて、ご飯食べて、また自作オーディオブック作りに励みます!いつもありがとうございます🎉🎉🎉
休知さん
こちらこそありがとう。お母さん、具合はどうだろう? 少し経過しているので無事だったことを願っている。
前回の話の続きとなるけども、だがこういうときにこそ、あなたは「自分」を脱して、大きな流れに委ねることの意味を学ぶことができるんだ。
もちろん「ただでさえ自分のことで目一杯なのに、さらに他の人のことを抱えるなんて耐えられない」となるね。誰もがそうだ。
だけども耐えられないのは、他の人のことを抱えたからではなく、自分のことをずっと抱えているからにある。
つまり誰かのために心を重くしなければならないという状況でこそ、私たちは眠りこけた目を開くことができるんだ。だからお母さんのこととは「あなたのこと」なんだ。
人生を振り返ってみれば「もうお手上げだ」という局面が結構あったりする。
その数だけ乗り切ってきたということだが、しかし不思議だね、お手上げ、つまりなす術もないのにどうやって乗り切ったのか。
そもそも本当に「お手上げ」だったのだろうか?
ところで先日あなたからのメールで「ファクトフルネスが届いた」という話をしてくれていたね。とても良い本で、私も著者のハンスロスリングの公演や論文は本が出る前からよくみていた。ファクトフルネスはそれらの集大成ともいうべきものだ。
だがあの本から学ぶことは、実はあの本自体には書かれていないんだ。つまり聖書と同じ読み方をする必要があり、まさにそこにこそ彼の真の意図がある。
つまりあちこちで見受けられるレビューのように「現代の世界状況は思っているようなものではないですよ」と納得するためにあるのではない。
じゃあその真の意図とはなんなのか。
まず彼の方法論を要約してみれば「相対的な価値観やバイアスによって”リアルタイムな事実”が歪められている、だから「いまの観点」「いまの事実」を基にもう一度現実を捉え直してみよう」ということにあったね。
私たちはこれまでの経験から植え付いてしまった情報やその関係の仕方が常に認識の枠組みとしてあり、その枠組みのなかで目の前にある物事を捉えてしまうゆえに、正しく世界がみえていない。
言いかえれば、常に「過去が前提になっている」わけで、ひたすら過去を再生し続けている様子にあるわけだ。
前の職場の人間関係が嫌になって新しい職場に入っても、やはり同じ人間関係で苦しむことになる。まるで外面の着ぐるみを替えただけで、実は中身は同じじゃないのかとなる。
だがそれは同じ枠組みのままに新しい世界を解釈しようとしているからにある。つまり同じなのは己のほうであり、もうそこには新しい世界などない。じゃあ「新しい職場」はいったいどこに消えてしまったのか。
ゆえに「チンパンジーのほうが正しく世界を理解している」とされ、わけもわからず指差すチンパンジーの方が実際高い正解率をあげている。
ここに理論的でないとかナンセンスだという批判もあるけども、だがこの本の意図を理解したとき、そうした批判こそがナンセンスであることになる。
つまりそのような「論理的思考」は、そもそも何を基準にそのように成立しているのか、というわけだが、しかし”このこと”を突き詰めて掘り下げていくと、そもそも人間が認識している「すべてが虚構」であることがみえてくる。
わかるかい、「環境が破壊されている」または「環境が破壊されていない」のどちらが真実なのかと選ぶことではないんだ。
私たち人間だけが、人間の世界の”なか”でのみ、「自然」や「環境」や「破壊」といった概念で、この宇宙と呼んでいる「連続した流れ」を捉えているのであって、つまり環境が破壊されているわけではない。
なぜなら環境なんてものはそもそも存在しないからだ。
たしかに”私たちの目の前”では水は100度で沸騰する。そして温暖化も進んで気候変動も起きている。だがそれらは”私たち人間が”そのようにみているものなんだ。
じゃあ変えるべきものはなにか?
それはもちろん温室効果ガスの削減であり、マイクロプラスチックの排出減少だろう。だがそれもまた人間がみているものであって、人間は人間が創った枠組みのなかで、この現実を生きているんだ。
もちろんロスリングはそこまでは言及しない。彼は仏教徒でも哲学者でもないからね。「実は私たちが思っている世界とは本当は違う」ということを、あくまでアクチュアルな題材をつかって説明しているにすぎない。
これは言ってみれば、16世紀の哲学者だったフランシスベーコンの帰納法をそのまま現代的に言い替えただけなんだけども、だが彼が最も強調するのは「私たちの知る世界は、実際の世界と違う」ということではなく、「実際の世界を、私たちは自分たちの知りたいように変えてしまっている」ということにある。
つまり認識論の話なんだ。
なにより、まず彼はこれまでの人生で医師や研究者として、様々な途上国や貧困地域を渡り歩いていたが、その度に自問自答を続けていた。
というのは「世界の”常識”」において、これらの国が貧困とされているゆえに、貧困の「扱い」をされているにすぎないわけで、それが発展途上や格差を生んでいる。そうした観念は相対的な比較によって生み出される。
このような彼の実地調査の上層に人類学の裾野が広がっているのだけども、たとえば「東洋」というのもそもそも存在していたものではなく、西洋が自らが何者であるのかを確信するために「非西洋」が必然的に生み出されることになった。
前にburuku10さんのところでも話しているので引いておこう。
──
サイードは「西洋が西洋であるために、”東洋”という架空の領域を生み出している」と糾弾した。光を捉えるには闇が必要なように、ある新しい知識を生み出すとき、異質な他者(大体は負の要素として定義される)を同時に生み出していることになる。
これは二項対立が生まれる典型的な原理であり、たとえば私たちが「貧しい国」をみているとき、もうその「貧しくみえる」ということがすでに自己の価値観に染められた視点であるわけで、それゆえに貧しい国を救おうとすることは、盲目的な押しつけにすぎないことになる。
何かを認識するというのは、同時に「認識している己」も定義しているのであって、少し乱暴にいえば「自分という存在」を立てるために「困っている他人を”作り出して”」それを助けているようなものなんだ。
だがより重要なのは、ファノンやサイードの議論(西洋中心主義、人間中心主義、植民地主義etc..への糾弾)さえも、それもまた西洋中心主義、人間中心主義、植民地主義の観点によるものだというパラドクスにある。
もちろん彼はそのことを理解していたが、よって彼以降の思想家や人類学者たちは、人種問題やジェンダー問題など、より狭義のアイデンティティ問題を取り扱うときに「同じ罠に陥らないように」慎重な眼差しを獲得するようになった。
※この回答はファクトフルネスよりもさらに深く踏み込んでいる分野をベースに話しているので、またあとで全文を読んでみてほしい。
──
というわけで、日本で生まれた私たちは東洋人などではない。「じゃあ何人だ?」と尋ねられてもそれを答えることはできない。答えを用意することで、今度はその枠組みに当てはめられることになるからだ。
つまり「何人だ?」とか「どちらが正解だ?」という土俵から飛び出すこと、そしてこうしてカテゴライズすることによって、人間世界での「あらゆる存在」が生じていることに目を向ける必要がある。
たとえば猫の脚と私の脚は「同じ脚」だが、そんなことを言ってるのは人間だけであり、しかし”このこと”も突き詰めてみれば、人間以外の生物もまた「人間が生み出した存在」となる。
じゃあいま私の足元でお腹をみせてひっくり返ってる動物はなんだといえば、人間である私は「猫だ」というほかない。そして猫は当然猫の親から産まれたと私たちは”知っている”。
だがこの「知っている」とはなんだろう? それは「創っている」んだ。だから猫は親猫から産まれたのではない。猫は人間から生まれてくる。
こうしてすべての存在や事物が「人間だけにしかみえていない」という視座に立つとき、死さえも幻想であることがわかる。つまり「死ぬ」のは人間だけなんだ。
だが「死ぬ」とき、それは消滅するのではなく、別の信念体系と共に新しい己が生まれてくることを意味する。
“それゆえ”私たちは何度も死を経験していることになるが、こうして「何度も死を繰り返している」という観点においてはじめて「時間は流れていない」のだと理解するようになる。これについては長くなるのでまた手記で話そう。
さて話が遠回りになってしまったけども、つまりファクトフルネスが伝えているのは「世界は実は危機になど陥っていませんよ」ということではない。
だから彼の「本の」話を鵜呑みにして、たとえば紛争地域に赴いて「君たちは貧困ではないだろう」と話しかけるのは取り違えている。たぶん大変な経験をすることになる。
じゃあ彼は何を伝えているのか。
まずあの本で示されている方法論をつかって「いまあるデータ」だけを基にリアルタイムな「いまここ」をあぶり出していくこと。言いかえれば、過去から引きずる価値観、自動反応する心の法則、すなわち信念体系をまったく参照せずに、純粋に「いま」をみつめること。
するとなにがみえてくるのか。
それはつまり、あなたは本当に悩んでいるのか、ということなんだ。
こんばんは!
母は回復しています。まだ入院していますが、早く帰宅して料理したいそうです。
ファクトフルネス、勧めてくれた方との間に心のしこりが残る出来事があったので手をつけていませんでした。ここで自分さんから認識論という言葉が出て、ハッとしました。
死について、今日、考えていました。私は母に死なれたら生きていけないです。というか、ペットだろうと花壇の昆虫だろうと、死なれるのは嫌です。受け入れられません。私自身も絶対に死にたくないです。
「死はない」というセリフがLUCYの中に出てきたけど今の私には分かりません。
ああ、今書いたことは自動反応です。純粋に今を見つめる。
私は何をしているんだろう。
そういえば、5年前の秋、市役所でなにかの書類に記入していたとき、私は書くことだけに意識を注いでいて何も考えていませんでした。すると職員の方が、まるで芸術品を鑑賞するかのような目で私を見ているのでした。彼はハッと息を飲んだ。その様子を感じながら特に感想を持たずに紙を出して悠々と歩いていました。
今の私は何をしてるのか分からない。迷子。そんな状態です。死についての手記、楽しみにしています。そして過去の手記からもヒントを探します。何故こんなに死を恐れるのか分かりませんが、書いているうちにそうか?言うほど怖いか?という気分にもなってきました。
>あなたは本当に悩んでいるのか
あら!
と思いました。
一瞬、呆気に取られた感覚が挟まったようです。
寝て、起きたら、気分が変わってるかも!夢の中で遊んできます!ではまた!
休知さん こんにちは
お母さん回復傾向で良かったね♪
また元気に自宅で料理出来ますよう(幸)
Shiyさん、こんにちはこんにちは!
ありがとうございます!!!
はい!肝に命じて!
ヒントはたくさん来てたのに
またスルーでした。
反省…。
もう一度!いや何度でも!
チャレンジします!
教えくれている全ての皆さんへ!
ありがとうございます!!
これからいろいろな変化を起こさなくてはならない不安の中でこの記事を見つけました。
それからはゼリーのガイドに身を任せるように行動していたいと願い、ゼリーからの感覚に耳を澄ませるようにして過ごしています。
そうこうしているうちにだんだんと人や物の境界線が薄まって、薄いヴェールの向こうのゼリーと踊っているような感覚になってきました。
私をイラつかせるSNSや友人からのアドバイス攻撃は、私自身の認めてほしいという思いの鏡。
できる自分も表現していくといいよというゼリーからの導き。
以前はやってたけど今はそんなこともしてないよね、またやるといいよ、ともいってくれているのかもしれない。
そんなことを思いました。
まだまだへっぴり腰ですが、世界に溶けていけるようがんばります。
urikoさん
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それからはゼリーのガイドに身を任せるように行動していたいと願い、ゼリーからの感覚に耳を澄ませるようにして過ごしています。
そうこうしているうちにだんだんと人や物の境界線が薄まって、薄いヴェールの向こうのゼリーと踊っているような感覚になってきました。
私をイラつかせるSNSや友人からのアドバイス攻撃は、私自身の認めてほしいという思いの鏡。
できる自分も表現していくといいよというゼリーからの導き。
以前はやってたけど今はそんなこともしてないよね、またやるといいよ、ともいってくれているのかもしれない。
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よい気づきにあるね。そのとおりで、この現世とは”あなた自身”の反映以外の何ものでもない。
より正しくいえば、この現世に対して、自分は苛立ったり、不安になったり、また何らかの理想を浮かべたりするのだけども、つまりそれは現世と自分とで凹凸の関係にあるわけで、結局はその両者でひとつにある。そこにこそ「他者の言う通りにする」というこの手記の核がある。
そのひとつこそが”あなた自身”であり、だからあなたはあなたのなかでこの人生の体験をしている。あなたはあなたのなかで生きている。
先ほどNPC774さんへの返信でも話したことだが、人生の本質とは「自らで問いを生み出し、その問いを解くことに追われること」でしかないが、そうして原理を俯瞰してみれば、チャップリンが述べたように「クローズアップでは悲劇だけども、ロングショットでは喜劇」となるんだね。
まさにその喜劇的な性向こそが、ときに私たちが感じ得る根拠なき安心感であり、つまりあなたが話してくれているその”導き”なんだ。
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できる自分も表現していくといいよというゼリーからの導き。以前はやってたけど今はそんなこともしてないよね、またやるといいよ、ともいってくれているのかもしれない。
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そう、そもそもが”あなた自身”であり、あなたが自らで苦難を生み出しているのと同じく、あなたは自らでその苦難のなかに道を見出せる。
その道は創造主であると同時によき破壊者である”あなた自身”につながっている。
しかしなかなかそのような達観には到達せず、いつも人生の問題に追われてしまうのはやはり現世のなかをさまよう自分に同化してしまうからだね。
話しているように、現世と自分とであなたなのであって、むしろそれは人生で出会う出来事や他者こそが、己そのものであるということだが、それは「この人は私なのだから」と自分を犠牲にして相手を立てろということではない。
そうして犠牲にしている自分がいる時点で、その他者はあなた自身ではないからだ。
そうではなくて、自他の関係がなぜ出現しているのか、それはいったい何の表れなのか、つまりそもそも本当はここにはなにがあるのかを感得しているとき(つまりこのすべての背後に透明のゼリーを感じているとき)まさにその表面的な現れである”現世”は、あなたに眺められている劇場となるんだ。
たとえば今回コメントをくれている手記に、休知さんが同じく4年前にコメントを投稿してくれているのだけども、その返信の結びで私はこのように話している。
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たとえば猫の脚と私の脚は「同じ脚」だが、そんなことを言ってるのは人間だけであり、しかし”このこと”を突き詰めてみれば、人間以外の生物もまた「人間が生み出した存在」となる。
じゃあいま私の足元でお腹をみせてひっくり返ってる動物はなんだといえば、人間である私は「猫だ」というほかない。そして猫は当然猫の親から産まれたと私たちは”知っている”。
だがこの「知っている」とはなんだろう? それは「創っている」んだ。だから猫は親猫から産まれたのではない。猫は人間から生まれてくる。
こうしてすべての存在や事物が「人間だけにしかみえていない」という視座に立つとき、死さえも幻想であることがわかる。つまり「死ぬ」のは人間だけなんだ。
つまり「死ぬ」とき、それは消滅するのではなく、別の信念体系と共に新しい己が生まれてくることを意味する。
“それゆえ”私たちは何度も死を経験していることになるが、こうして「何度も死を繰り返している」という観点においてはじめて「時間は流れていない」のだと理解するようになる。これについては長くなるのでまた手記で話そう。
さて話が遠回りになってしまったけども、つまりファクトフルネスが伝えているのは「世界は実は危機になど陥っていませんよ」ということではない。
だから彼の「本の」話を鵜呑みにして、たとえば紛争地域に赴いて「君たちは貧困ではないだろう」と話しかけるのは取り違えている。たぶん大変な経験をすることになる。
じゃあ彼は何を伝えているのか。
まずあの本で示されている方法論をつかって「いまあるデータ」だけを基にリアルタイムな「いまここ」をあぶり出していくこと。言いかえれば、過去から引きずる価値観、自動反応する心の法則、すなわち信念体系をまったく参照せずに、純粋に「いま」をみつめること。
するとなにがみえてくるのか。
それはつまり、あなたは本当に悩んでいるのか、ということなんだ。
──
これだけを読んでもいまひとつ飲み込めないと思うのであとで本文を読んでみてほしいが、そこで話しているのもまた、人間がいかに「幻想制作」のプロであり、そして自ら創り出した幻に、逆に追われる始末にあるということにある。
だけどもそれは単純な話ではない。なぜなら、私たちが何を見るにしても、何を聞くにしても、常にそこには幻想制作が入り込むからにあるからだが、むしろ見るとか聞くとかいった知覚作用を通じて世界を”認識”していること自体が、すでに幻想制作の着手にある。
つまり私たちの各々の人生体験とは、それ自体が自ら生み出した幻想であり、まさに”そのこと”に気づいたとき、このすべてがいったい”何の”現れであるのかに気づくんだ。
だが間違えてはならないのは、そうして”気づく”のは指さしている先にある朧げな月の”所在”であって、もしあなたが「私は”月”を知った」というならば、それは月をさしている”指”について述べているにすぎない。
それもまたこれまでの現世の延長として、単に高尚な何かを定義しているにすぎず、やはり幻想をみている。(これらの話も休知さんの返信に含まれている)
つまり瞑想のなかで仏陀が現れたら斬らなければならない。それは”仏陀”ではないからだ。
じゃあ仏陀はどこにいるのか。
それは仏陀を斬ったときに、あなたが実感しているその何かこそがまさにそれにある。
それはこのすべて、すなわち自分と現世をこうして出現させている当のものだけども、つまり”あなた自身”の真の源泉(生まれた本当の場所=あなた自身)のことだね。
ゆえにあなたがあなた自身に戻るために、創造主であると同時に破壊者であるという両面性があるんだ。むしろ”創造”するためには破壊せねばならないが、その連続が現世というフィルムを展開させていくことになる。
しかし破壊とはなんだろうか。
それはもちろん自暴自棄になって周囲に迷惑をかけることではない。
自ら生み出した幻想に閉じ込められていることに気づいて、その幻想に憑依している”己”にダイナマイトを仕掛けることにある。
憑依していた”己”は木っ端微塵となるだろう。
依然として同じ世界はそこにあるが、しかし己の眼前には瓦礫の山がある。あなたが憑依していただけ瓦礫は山積みとなっている。
大事なのはその山のなかに一本の道がみえてくるということだ。
上で話したことをもう一度書いておくよ。
──
そもそもが”あなた自身”であり、あなたが自らで苦難を生み出しているのと同じく、あなたは自らでその苦難のなかに道を見出せる。
その道は創造主であると同時によき破壊者である”あなた自身”につながっている。
──
休知さんに話したように、己は本当に悩んでいるのだろうか?
自分に憑依しているかぎり悩みは尽きないが、しかしそれはどういうことなのか、ということだね。
あなたが粉塵舞う瓦礫のなかを歩いて抜けた先には、相変わらず”現世”があるだろう。
いつもの顔ぶれやいつもの街並みがある。いつもの解決すべき事柄がある。
だがそこはこれまでいた世界とはまったく違う場所なんだ。