世界は遊び楽しむもの

想像力
言葉は何でもいい
ヴィジョンでも幻想でもいい
ここでは想像力にしよう

あなたはある巨大なエネルギーが
生み出した想像力を見せられている
ただ「見せられている」のだ

見る、と書けば視界をイメージするが
そうじゃない
音も感触も、すべて見せられている

その巨大なエネルギーが醸し出カラフルな世界
それを見せられるために
あなたはそこにいる

目の前に何がある?
見慣れた光景?
それすらも
エネルギーの想像力そのものだ

どこかに重くて固そうな物はあるかな
ガラス瓶でも石のブロックでもいい
触ると固いし重い
それも「想像力」を見ているのだ

感触
あなたは指先の感触を通じて
その「固さ」「温度」などを見る

頭の中でドラえもんとのび太を会話をさせてみる
その場には本当は音はないのに会話は聞こえる
音も見ていることがわかる

記憶も五感も科学も
すべては創造力が生み出した光景
その光景をあなたは
記憶や五感、科学と名付けたり
何かに対しては重いとか、暑いとか
色々と個別の意味を与えていく

悟りの境地とは「忘れていくこと」と言われる
それは個別の意味などなかったことを示している
すべての現象に意味を与えなくなったとき
エネルギーそのものが姿を現す

ただ漠然とあるエネルギーが生み出す想像力が
そこにあるだけだ
あなたすらも想像力により映し出されている
だから「自分」という個別の意味を与えなければ
あなたは実在しない

自我とはよく出来た言葉だ
どうやって自我を見つけた?
「悟りの境地」よりも素晴らしい発見だ
自我があるということ
自我がそれを見つけたのだ
そしてそれを定義した
感心すべきことだ
自我はそれほどに優秀だと思う

極端な言い方をすれば
サーモスタットのようなものだ
水槽の温度が下がれば作動して
設定温度まで水温を上昇させる
温まれば停止する
すべては自動的に行われる
自らの動作すら自動的だ
その単純なシステムが
「今日はもっと温度を上げたい」とか
そういうことを考えだす
それが自我

自動的に行われるとはどういうことか
それこそがエネルギーの全一性を語っている
あれかこれ、ではない
常にあれとこれ、だ
すべて含んでひとつだ

ただ漠然と広がる想像力に
ある箇所を見ては個別に意味を与え
自らにも意味を与え
そうして自我は暴れまくる

いいかい
すべて主観的なものだ
巨大なエネルギーの「想像力」が
そこにある

あなたが見ている人間の形と
誰かが見ている人間の形はまるで違う
2本の手があって2本の足があって‥
同じ解釈なのに
その世界に表現されているものはまるで違うのだよ

想像力がそこにあり
意味付けの解釈は自我がしている
何の意味付けもなく風景を眺めてみなさい
木を木とせず
空を空をせず
通行者を通行者とせず
ただ漠然と眺めてみる
油断せずに眺めてみる
焦点を合わせなくていい
ピントの必要もない
空間だけを眺めてみる
そこには無形があり無色があり
つまり想像力が広がっている

だけどもひとつひとつを注意して見ると
木は木になる
だから各々の世界は違う

想像力と書いても
あなたが想像しているんじゃない
フェラーリを想像したら出てくるんですか?
そうじゃない
だがなぜ「フェラーリ」を知っている?
あなたは「想像力」を見せられているだけしかない
このブログも地球もフェラーリも
何もかも実在しない
想像力の中で自我が個別に意味を与えているから
実在しているように見える

水中でバケツに水を汲む
バケツは満タンに見えるのか
空っぽに見えるのか
どちらも意味付けだよ

あなたがどれだけ素晴らしい人物と出会ったところで
彼はいずれ灰になる
本当にいたのかすらわからない
どれだけ素晴らしい建物や車にしろ
いずれ消えてなくなる
そこに本当にあったのか?

あるものが消えてなくなるとき
すべてのものが
想像力によるものだったことを悟る

あなた自身の想像力じゃない
あなたは意味付けだ
つまりエネルギーが無形を想像し
あなたという自我がそれを意味付けする
だからその無形は偉大な人となり
カッコいい車となる
だけども実は無形の創造物だ
水中のバケツの中
常に水の中

歩いて疲れている
疲れているという重さや疲労感
そういう想像力をあなたは見せられている

だけども
疲れるというニュアンスは意味付けをしている
意味付けをしているのが自我だ

巨大なエネルギーの想像力の中にいる
すべて想像力を見ている
何もかも実在しない
1mmも動いてもいないし
固いや暑いもない
そのようなヴィジョンを見せられている
誰が見ているのか
見ているのは「エネルギー」だ
ところがサーモスタットが「思考」を始める
つまり「あなた」だ

ただそこに想像力があり
始まりも終わりもない
宇宙に中心や端がないように
切りがない

だから人生には何の価値もない
「人生」と括ることがナンセンスなのだ
そんなものはない

すべて想像力
目の前に美女が通りかかれば
男性のあなたは目を奪われる

油断してはいけない
美女なんてのは実在しない
それが「何か」に見えるというのが
自我の働きである

想像力の邪魔をするのが自我だ
本来は遊び楽しむもの

判断しない、選ばない、
そういう教えがあるが
そんなに堅苦しいことじゃない

すべては想像力
ただそれだけだ

あなたが「エネルギー」に意識を置くとき
エネルギーの創造性が備わる
つまりエネルギーと一体化する
あなた自体もエネルギーの想像力だから
当たり前のことだ

自我がいかに邪魔をしているかを知り
常に自我を見張っていくことが
最初のステップだ

油断せず見張ること
あなたが自ら油断するな、と言うとき
自我は離れている

 


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