偽りの主語を破壊する

今回は精神の仕組みについてのざっくりした解明と、それゆえに作られるあなたのその現実世界について、またその現実を変える方法について話を進めよう。

1.

あなたに与えられている絶対唯一のものがある。それはあらゆるものが現れることのできる、その空間である。

空間はいつもあなたとともにある。その空間のなかで様々な現象が起こる。人々や音、食べ物、仕事をしたりなど。また笑ったり泣いたりの感情もそうであるし、いろいろと思考したりするのも、その空間上でのことだ。

すべては現れては消えていく。だが空間はあなたが何かをするまえからずっとそこにあり、そして何かが終わってもやはりそこに残っている。つまり空間は常に「いまここ」に在る。

この空間というものに気づいてみよう。それだけであなたの人生はずいぶんと変わる。なぜなら人と接しているとき、その人は「己のなかに現れている存在」であることが前提とされるからだ。

また新しい映画も難解な読書も、誰かがどこぞへ旅行に行ってきたという話も、それらは自分とは「離れた何か」ではなく、すべて自分のなかにあるものだと受け取れるようになる。

2.

さてこの「空間」というのはもともとあなたに備わっているものだ。考えて浮かべる必要もない。「考えること」がその空間に起こるのであるから。

そしてさらにあなたに備わっているものがある。それは知性だ。知性というのは思考のことではない。動物や植物にも備わっている。植物は陽の光を浴びると花を開く。動物や虫は自分の食料となるものを見つけたり、寝ぐらをつくったりするが、そうしたその生物固有の自動機能のようなものが知性となる。

たとえばそこに1本のペンがあるとき、あなたは考えるまでもなく「1」だとわかっている。複数あるなら数える以前に「いくつかある」と瞬時に受け取っている。

物をみたときのその大きさを感じ取ることもそうだ。机や椅子をみてそれが物体であるとわかるのは、それらが固有の大きさを持っていることを、見た瞬間に受け取っているからである。それがなんであるかとか、縦横が何センチであるとか、そういうことではなく「大きさがある」とすぐにわかっている。

このような脳の自動機能がある。だが脳も細胞の集まりであり、それはいわばDNAの情報によるものだ。だから脳を持たない植物も知性的な活動をする。植物がこれまで繁栄してきたのは地球という環境に完全に適応しているからであり、これは人間も己が備えている知性(DNA)に従えば、自然的に在ることが限りなく可能となるということを意味する。

人間に備わる知性は数や大きさだけでなく、「こうなるとこうなる(雨を浴びれば濡れる)」というような予測以前の自明な因果関係、また木の枝をつかめば折れるかもしれないという可能性の判断など、すべて「考える」以前に受け取っている。

ボタンを押せば否応なしにランプが点灯する「すでに出来上がっている回路」のようなものだ。環境における自動的な条件反射、それが知性となる。これは突き詰めれば、自然とひとつであるということがみえてくる。

3.

さて最初に話した空間を自明的に感じていること、これを感性とよぼう。そしてボタン→ランプ点灯のようなDNAの条件反射的な機能を知性とする。

ここまでは思考を必要としない。つまり言葉を必要としないものだ。

人間は言葉の存在であると表現できる。聖書にもある通り、すべては「言」からはじまった。それはロゴスともいわれ、概念や論理などを意味する。つまり言葉のことだ。

あなたが何かを思考するとき、何かについて感情的になっているとき、すべて心の言葉を読んでいる。その言語をよく観察してみると、主語と述語でできていることがわかる。「AだからBだ」というふうにね。

つまり人間世界というのは、常にその「主語を述語で飾り付ける」という形式を持っているということだ。知性はすべて主語のみであるといえる。確かに「雨を浴びれば濡れる」は述語表現ではあるけども、考えるまでもなくそれは自明であり、いわば主語と述語がミックスした「主語のみ」のようなものだ。

だが思考は違う。「雨が降りそうだな、濡れると嫌だな」と考えるのは述語表現だ。つまり述語を浮かべるときそれは思考しているのであり、それは人間特有の世界なのである。

この「主語と述語」という論理性が使えることを、理性という。

4.

ここまで、感性と知性と理性の3つが出てきた。理性は言語的であり、感性と知性は非言語的である。

理性は言語的であるがゆえに、幻想を次々と生み出してしまう。まさに言葉の魔法でどんどん創造されていく。あなたは思考や感情だけでなく、歩いていても何かを食べていても、その行為を「確認」しているとき、必ず心の言葉を読んでいる。

言葉を読むからその行為を知ることができる。言い換えれば言葉を読むから、それらの行為が現象化するのだ。つまりすべては理性が生み出した幻想であり、ペンを握っていることも、理性ゆえに「ペンを握っている」と知るが、理性が働かなければペンを握っていても、それはあなたの人生に「そんなことは起きていなかった」となる。

ところが実際に物事が起こるのは、言語を超えた領域、すなわち感性と知性のレベルにおいてである。それがなんであるのか、と知る以前にそこですでに起きている。

指よ動けと念じても動かない。だが実際に動いているときというのは、空間のなかで知性が働いているだけにすぎない。それを指が動いていると理性が「読む」。

理性がそのように「読む」ゆえに、時間が経過する。思考や感情というのは、必ず時間を必要とする。つまり主語に述語を与えるには、A→Bという経過が必要なのであり、その経過が時間という錯覚を生み出している。

瞑想などで思考を静かにさせると時間が止まるように感じるのはそのためである。時間のなかに思考があるのではなく、思考するから時間が経過するのだ。「いまは9時だ」という時点で、それ以前の過去を思考しているのであり、ゆえに9時という時間進行を概念化しているのである。

5.

さて最後に一番重要なところに触れておこう。

あなたのその現実を作っているのは一体何が作用しているのか、ということだ。考えるまでもなくこの現実はここにあるし、でも考える必要もないならば、それらはそのように見えていないはずだ。

だがいつもの光景がある。いつもの人々がいる。いつもの状況がある。

それはなぜか。

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