世話している家族やペットにあなたは助けられている

たとえばうちには動物たちがたくさんいるのだけども、彼らは基本的に「食べて、トイレをして、眠る」これの繰り返しにある。

それが彼らの”仕事“であり、そして彼らと共に暮らすというのは、そんな彼らの仕事をサポートすることにある。食べ物を調達してトイレ掃除をして、よい寝床を確保してやることだね。

だから彼らが”仕事”をしているとき、必然的に私も”仕事“をしていることになるわけで、つまり”仕事”とは、この宇宙全体の流れが「どのように見えているか」だけのことなんだ。

たしかに人間の観念世界では「動物のそれは自然の摂理で、私たち人間が社会でやってることは別だ」という考えが働くだろうけども、ところが”自然の摂理”というのも人間が作り出した観念にすぎない。

だからそのように捉えていること自体、なによりそのような考えをしている自分が「すでに」観念世界の内側で叫んでいるだけとなる。

むしろ働いて報酬を得てそれが生活に支払われていくことこそ”自然の摂理”として理解するべきであり、そうして「意味づけられた世界」を外側から眺めるとき、人間自らが規定した世界に人間自身が囚われている様子がみえてくるというわけだ。

 

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だからたとえば「動物は可愛い仕草をしてくれるけど、世話するのが辛い」というのは、動物たちの自然な仕事を勝手に区別して捉えているだけであって、その区別が取り払われるとき、ただひとつの大きな潮流があるだけなのだとわかる。

それはもはや”動物”という識別すら消え去ることになる。

じゃあなにが残るのかといえば、ただ”仕事があるだけ”であり、つまり動物たちの暮らしやそれを世話する自分の姿が消えて、流れ続けている永遠のなにかがここに露わとなる。

ところで「仕事」という単語をみてなんだか重苦しい印象を受けてるかもしれないが、よくいわれるように日本人は世界で仕事嫌いのトップにある。

じゃあ他の国の人は、こんな面倒で辛いことを自虐的に喜んでいるのかといえば、もうその観点がいまある枠組みに囚われているのであってもちろんそうじゃない。

ここにたとえば信仰の大切さがあったりするのだけども、つまりどんな職業でも、それらは”見かけ“であるということだ。

 

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その職によって世の中になにかを提供し、そして対価(お金であれ、感謝や満足であれ)を得ることによって次の生産へとつながり、また授受へと結びついていく。

その様子は経済活動の一面ではあるけども、しかしその”循環”は、動物たちが「食べてトイレをして眠る」のとまったく同じものが流れているんだ。

もちろん野生の動物たちは自らで大地の恵みを探しにいくだろう。だがここに奇跡がある。

彼らが求める限り、恵みは与えられるからだ。つまりイエスが言ったように「求めれば与えられる」わけだが、しかしこれはよく理解しておかなければならない。

この「求める」とは

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