人生という幻想を見破る

人生で一体何が起こっているのか?

それを知っておくことが
早い段階で不幸を手放すステップとなる

あなたには五感という便利な機能がある
もうごく当たり前に慣れ親しみ過ぎているね

見えること
聞こえること
触れること
味わうこと
嗅げること

それらが起こすヴィジョンにまんまと
騙されてしまっている

レクチャーを始めよう

最も「理解」に到達しやすいのは
味覚と触覚だ
いまそこで舌に意識を合わせてみなさい

すると舌が歯に当たっているとか
上顎の内側に当たっているとか
口の中の味がするだとか
何らかの現象が起こっているだろう

あなたが舌に意識を持っていったことで
それらの現象が起こったのだ
味覚と触覚は刺激に対して直接的なものと
あなたは感じている
だから実験の最初にはもってこいだね

それまで「意識していなかった」
ということは
それらの現象は起こっていなかった
ということだ

耳鳴りなどもそう
ある程度の年齢になると常に耳鳴りがする
だが普段は聴こえていない
意識を向けたら聴こえ出す
それもそういう現象が起ったということだよ

あとはいつもと同じパターン
座っているならば
上半身の重みに意識を合わせる
立っているならば足に掛かっている重みに
意識を持っていってみなさい
するとあなたは重力という
現象に包まれる

次は呼吸
鼻腔を空気が通る
そこに意識を合わせる
空気が触れる感触と
何らかの匂い

私は「あなたはずっと呼吸を
していたのだよ」とは言わない
なぜならばそれは嘘だからだ
あなたが意識を合わせたときにだけ
それが現象として起こる

最後は最大のトリック、視覚だ
最初にこう加えておこう
五感が受け取るそれらの作用とは
例えるならば、刺激のようなものだ
「嗅ぐ」という感覚器官に
何らかの刺激がくれば
あなたは「匂いを嗅いだ」と認識する
「触覚」に何らかの刺激がくれば
あなたは「何かを触れた」と認識する
音も味もそう

では視覚

あなたはこの事実を本当に知るとき
世界のすべてがひっくり返るだろう

いいかね、他の器官と同様
眼球が何らかの刺激を受けたときに
あなたの視覚が広がっている
何かを見ている、と感じている

ではその刺激とは何かね?
よく考えてみなさい

匂いも味も触覚も音も
それらはダイレクトなものだ
一方的に飛び込んでくるものとあなたは感じている

甘いお菓子を食べるとき
菓子が舌に触れる
味が伝わってくる
匂いが伝わってくる
周囲の音が耳に飛び込んでくる

だが「見えている光景」とはなんだろう
あなたは視界だけは
他の気管と別の印象を持っている
例えば、繁華街を歩いているときを
イメージしようか

多くの知らない人々がそれぞれ行動をしている
あなたはそれらの人々を見るとき
個別の解釈や判断を持ち込んでくる
つまり視覚だけは
ストレートな感覚を得ていないのだ
つまり見ているのは視覚ではなく
思考であるということ

だが純粋な五感としての視覚はどうだろう

他の感覚器官はあなたが
意識を向けたときにだけ機能する
意識を向けたときにだけそれらの現象が起こる

じゃあ視覚は?

ここに実在の鍵が隠されている

あなたは日頃、何かを見ているとするが
それは見えたものへの解釈だ
だから「思考を見ている」に過ぎない

そうではなく
その思考が起こる”直前まで”に
見えているものは何だ?

それは眼球への単なる刺激なのだよ
味や匂いなどと同じ
五感に与えられた刺激

いいかい、
「刺激」なのだ
視界すら「刺激」なのだよ

では繁華街の光景とは
その光景と思考される刺激が
単に視覚に与えられただけのことなのだ

 

つまり
あなたの外側には
誰も何もないのだよ

 

あなたが口の中に意識を向かせれば
口内の触覚や味覚が起こる
じゃあ視覚はどうだい?

あなたが「見ること」に意識を向ければ
その光景が「起こる」のだ

あなたの見てきた風景
あなたの知っている人々
あなたの生きている世界

それはすべて
あなたが起こしているのだ

何もかも
ありもしない、でっち上げなのだ

人生とは現象であり
すなわち「生」とは
現象の起こる空間のことなのだよ

 

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コメント・質疑応答

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  1. より:

    家族も友人も職場の上司も概念に過ぎませんが、私が勝手に作った概念ではなく、後天的に教え込まされるものではありませんか?親は「こんにちは赤ちゃん、私がパパよ。ママよ。」と、しつこく洗脳するのだし、他人の家の人をママとかパパとか認識してついていくと、コラコラ違うよと怒られるのだから、何が事実かは自分で勝手に決められる訳ではない。
    ニーチェだったかは真理は権力が作るのだと言ったと思いますが、思考の在り方は統制されており、ルールを破ればペナルティを課されますし、最悪殺される訳です。
    もっとも死と言う現象の虚構性を見破った人ならば何も怖くないでしょうが、普通の人の思考はつまり世界は死の恐怖によって統制されています。

  2. より:

    一休さんも死にたくないと言ったと聞きます。全部幻想だと言ったところでやらなければいけないことが無くなるわけでもないでしょう。稼がなければ食っていけない、トイレに行かなければ、排泄物まみれの部屋で苦悩することになるでしょう。思考を見ているのだと言われても、ヤクザ風の人間が前から来れば道を譲るのではないでしょうか?これは自分の幻想だからとか思考は見なくて良いのだからヤクザが来ても道を譲る必要はないという結論にはなりませんよね。

  3. より:

    今日は、ちょっとしたことがあって、諸行無常の真理を深く実感しました。
    我々はこれでいいんです。何かになる必要は無い。

  4. より:

    世界は自分が体験するためにあるとのことです。
    稼がなくても食べていけるかもしれません。
    汚物まみれの部屋で過ごす体験してもいいし、ヤクザに道を譲らなかったらどうなるか体験してみてもいいのでは。

  5. より:

    ちなみに自分さんは幻想に巻き込まれることは全く無いのかな?
    幻想だとわかった上で出勤前にネクタイしめたり、愛想笑いしたりするの辛くないですか?

  6. 自分 -涅槃- より:

    多くのコメントをいただいているので
    まとめさせてもらうよ

    人生にはルールというものがないが
    それは「ルールを作っているのは自分自身」
    そういうこととなる

    「食べなければ餓死する」
    それは本当だろうか?

    「働かなければ生活ができなくなる」
    それは本当だろうか?

    多くの「気がついた人々」は
    実際に自分が「こうなったらこうなる」という
    状況に遭遇している
    もちろん想像通りの展開だ

    だがね、そこで終わりじゃない
    その「続き」があるのだよ

    それを知った人が
    覚者と呼ばれている

    まあ単に「不器用だった人々」のことだよ
    世間に肌が合わず
    合わせる方法もわからず
    何をやっても満たされない
    どこをどう考えても自分は不幸であり
    理不尽と灰色の世界

    それを避ける
    いかにして「起こらないように」しようか思案する
    その考えが不幸の根源だ

    手を離せばあとは落ちるだけなのに
    あなたは細い枝にぶら下がったまま
    永遠なる恐怖と
    永遠なる疲労に支配される

    離しなさい

    あとは落ちるだけだ

  7. 情けない男 より:

    お世話になります。

    出来事自体はただ起こっているだけなのに、思考が勝手に好きだ嫌いだと判断しています。

    自分さんはどうやって物事をありのままに観れる様になったのですか?エゴがパンクする迄、苦しみを感じ続けたとかですか?

    エゴというフィルターを外して出来事を観れる様になれば、何を見ても感じても「何だこれ?」という反応になると思います。

    エゴというフィルターを外して全てを観れる様になりたいです。
    今はエゴやマインドというフィルターが「これは良い、これは悪い」と判断して物事を観ています。

    何事もフラットに捉えられる方法等あれば教えて下さい。

    • 自分 -涅槃- より:

      >>情けない男さん

      例えば本書に多くのコメントが寄せられる
      メールも多くくる

      ほぼすべてが人生の悩み事についてだ
      彼らは自分がネガティブに染まっているとしている
      だが私はそうは見えていない

      私の世界は誰もがハッピーに
      踊っているように見えている

      この話を表面だけで受け取れば
      「私のどこがハッピーなんですか」など
      正しく伝わらないだろうが
      あえて書いておくよ

      こちらからはどこにも不幸は見えない

      私もあなたも隔たれていないのだ
      だからポジティブもネガティブも
      その発想すら起こらない

      私は不幸が何なのかを知っている
      それは不幸ではないことを知っている
      そしてそれがどれほど素晴らしいのかも知っている

      だからといって
      よくある人生の応援歌のような話ではないし
      自己啓発やポジティブシンキングでもない

      そういう「何かを変えていく」ような根性論ではなく
      何もかもがそこにあるのだという満ちたもの
      それを私は知っているのだ
      そしてそれが私なのだ
      私はおらず、私を生み出している私が
      いつもここにある

      母でもなく
      地球でもなく
      暖かい気温でもなく
      優しい気持ちでもなく

      ありとあらゆる
      知っていることすべて
      そして
      これから知ることになる可能性のすべて
      そういったものに包まれている

      もっといえば
      「包んでいるという様子だけ」がある

      つまり私はラッピングすらされていないのだ
      実在していない
      あるのは「すべて」だ

      包み紙だけがある

      あなたはもう今日は外に出ないかな?
      コンビニなりビデオ屋なり
      どこかへ出かけるのならば
      歩きながらこのように感じるようにしてみなさい
      最初はフリでいい

      「ここにあるものだけで十分だ」

      そのとき
      ある一瞥が起こる
      非常に短い間かもしれない

      どういうものかといえば
      それが「良い」とか「悪い」とか
      そういう判断すら起こることもなく
      いつも自分は「包まれていた」という気付きだ

      あなたは「フラット」であろうとしているから
      まだ判断が作用している
      そうではなく、
      どちらでもいい、と考えるのでもなく
      そういう考えすら起こらない様子

      すべてはそこに全部あるのだという「受け取り」を
      体験しなければならない
      するとネガティブもポジティブもなくなる

      それを言葉にすれば
      どうでもいい、やら
      諦めた、やらになるが

      ちょっとニュアンスが違うかもしれない

      あなたが得点を競うゲームをしていて
      相手から点数を奪うが
      ゲームそのものになれば
      あなたの得点も相手の得点も
      それがあなたの存在であることになる
      これが般若心経でいうところの「不増不減」となる

      つまり無限の豊かさというやつだよ

    • 情けない男 より:

      凄い解説をして頂き驚いています。
      やってみます。

      また何か気付きがあれば書かせて頂きます。

      いつもありがとうございます。拝

    • 情けない男 より:

      お世話になります。
      教えて頂いたことをやり、気付きがありました。

      あらゆる物を産み出している「源泉」を感じました。それは目には見えないけど全部あるというものです。

      最初に源泉が意味のないものを産み、それをエゴが幸や不幸と判断していました。

      あらゆる出来事も「私」がいなければそれを判断する人はいないので、幸も不幸もありませんね。ただ出来事があるだけになりました。

      今回自分さんから頂いたメッセージは「ゲーム自体になりなさい。=あらゆる出来事を起こしている、色も形もないけど全部ある(源泉)に還りなさい。」という風に捉えました。

      今述べさせて頂いたことにも意味はありません。ただ源泉から起こっているだけです。

      私が文を書いたという意識でなく、ただこれ見ている感覚です。

      いつもありがとうございます。拝

  8. 岩窟王 より:

    すいません。
    ここの部分、微妙にニュアンスが違っていませんか?


    その思考が起こる直前までに見えているものは何だ?

    それは眼球への単なる刺激なのだよ
    味や匂いなどと同じ
    五感に与えられた刺激

    では繁華街の光景とは
    その光景と思考される刺激が
    単に視覚に与えられただけのことなのだ

    と、


    あなたが「見ること」に意識を向ければ
    その光景が「起こる」のだ

    ①の方は、そこらじゅうに浮いている思考が、直接眼球に当たってそれが見えているという事でしょうか?

    「人生という幻想を見破る Ⅱ」 を、お願いしたいです。

  9. 岩窟王 より:

    コメント欄更新されていませんね。

    今ふと分かりました。
    目に意識を向けると眼球に刺激を感じて、その刺激が「繁華街の光景と思考してしまう」刺激だ。という事ですね。

    • 自分 -涅槃- より:

      >>岩窟王さん

      遅くなったね
      「人生という幻想を見破る Ⅱ」をいずれ記そう

      だがその前にひとつ
      理解を「手放して」おきなさい

      あなたが知ること
      それが1+1=2であろうと
      また違うところで
      1+1=100であろうと
      それはあなたの認識の中にある
      つまりどちらもあなたの体験なのだよ

      マインドはこのように動く

      「1+1=2のはずだ、100なんてありえない」
      「でも2と教えられてきたことが間違いだったら?」
      「そもそも自分の知ってきたことが間違いだったら?」
      「ならば100なのかもしれない」

      何かを「定義」しなければ落ち着かないのだよ
      それがマインドの作用であり
      固定観念、あなたを掴んで離さない執着のはじまりとなる

      無論、探求者は1+1= 2でもなく100でもない
      ただ見たままのそれがあるのだ、と受け取る

      だがね、もっと深い事実
      つまり真実とは
      そこに1+1=があること自体が想起であり
      己が浮かびあげているものなのだ

      だから「見たままのそれがある」というのも
      2である、100である、と変わらない

      認識すら捨てるとき
      それがマインドとの距離ができたとき、となる

      だからあなたの質問は愚問なのだ
      要点を逃している

      本書の文章、そこに意味を求めてはならない
      あなたが読解しているに過ぎない
      もし本書の内容とラブコメディと受け取れば
      そのようになる
      難解だと受け取ればそうなる
      ただの文字列だとすればそうだ

      本書をインド仏教総本山の長が書いているとするのと
      中学生が友人同士と悪ふざけで書いていたとするのと
      どちらかの情報があなたに聞こえてきたら
      あなたはその都度、読み方が変わる

      文章に力はないのだ
      伝えられる知識や知恵、そういうものに意味はない
      だから禅は言葉を捨てた
      釈迦の教えを弟子が文章として残したとき
      仏説〜とくくりから始まる
      それは「私は仏陀からそのように聞いた」という意味だ

      あくまで「私はそのように聞こえた」とする
      それは独自の解釈が混じるということを危惧したものだ
      どれぐらい混じるのかといえば100%だ

      釈迦が死んで大乗小乗の時代まで500年が過ぎたが
      500年経ったから仏陀の教えがゆがんできた、のではなく
      釈迦が1秒前に話したことすら
      そこにいる10人は10通りの教えを受けている

      だからいいかい
      あなたのその疑問、質問は「あなたのもの」だ

      質問されたことを
      はぐらかせているのではないよ
      いくらでも「あなたの質問」には答えることができる

      だが要点はそこではないのだ
      いまここで、あなたと私が「関わっていること」
      それが真実なのだよ

      あなたはその質問を世界に浮かべ
      そしてその体験をしている

      マインドに囚われず
      その全体性に溶けてみなさい

コメント・質疑応答

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