神の名

スピリチュアルの文献をよく読むと思うけども、いわゆるマスターや聖者の言説は似通っているだろう。「私は在る」や「いまこの瞬間」などが典型だね。それは偶然ではなく、人間の歴史のなかでそういう”表現“が定着してきたんだ。

そこで今回は「私は在る」について、最古の起源というわけではないが、ひとつの参考ルーツとしてユダヤ・キリスト教の史実をもとに進めていこう。

 

私は”在る”

さて、「神の名を口にすることを私は許されていない」と書き残したのはイエス・キリストとほぼ同じ時代人の歴史家、フラウィウス・ヨセフスだった(西暦37年-100年)。

「かつて人々は神の名を一度も耳にしたことがなかったが、しかしモーセが神に尋ねたとき、はじめて明かされた」と続けて綴っている。

それは旧約聖書の出エジプト記エクソダス、3章13節にある。エジプトで奴隷として虐げられていたヘブライ人(ユダヤ人)たちをモーセが先導して脱出するという話だ。彼は神の啓示によってそれを実行する。

そしてモーセは神との”対話”のなかで、私を導くあなたの名を教えてくださいと伝える。すると神はこう答えた。

「私は在る、私は”在る”という者だ」

ちなみに同じ箇所の別の日本語訳をみれば「私はあらんとしてある者である」「私はあってあるものだ」「わたしは”いる”という者である」など表現はいろいろあるが、つまり神は「ある」という者となる。

 

ある?

さて、この「ある」という部分だが、”翻訳元”であるヘブライ語聖書では「エヘイェ」であり、またギリシア語聖書では「オン」と訳されている。「オン」はオントロジー(存在論)の語源であるように「存在する」とか「ある」を意味する。

しかし「ある」とはなんだろう? また、ヨセフスが「口にすることを許されていない」と述べているのはどういうことだろう?

そしてなぜ「ある」がモーセを導いたのか。そもそもモーセがエジプトを脱する話とは何を意味しているのか。

 

なんでも”ある”

あまり話を長くしないように簡単にしておこう。

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