自分の手でドアを開くことができる

人生が自由でないと感じるほど、自由がなんであるかを見失っていく。人間関係、お金に関すること、生まれ持った境遇、そういった檻の中で「外に出る鍵をどうやって手にするか」ばかりに目が向いてしまう。

実際鍵を手にいれて外に出てもやはりそこも檻のなかだと気づくだろう。そうなるといよいよ「自分が本当はどうしたかったのか」を見失う。つまり外に出ているつもりがどんどん深みにはまっていく。これが多くの人々が陥っている人生の様子である。

「結局、人間に自由などなく、人生は永遠の虚しさを娯楽で誤魔化していくしかない」そんな結論になるわけだ。つまり何をやっていてもいつも得体の知れない重さがつきまとう。見えない重りをずっと背負って生きていかなきゃならない。

1.

さて自由に生きるというのはどういうことだろう。バベルの塔のようにどんどん自分を積み上げていって、天上にある自由の鍵に手を伸ばすことなのだろうか。

もちろんそうだと信じてみんな目の前の問題を解決することに努力の日々を続けているが、ひとつの問題が解決してもまた次の問題がやってくる。いくら塔を積み上げたところで、天はいつまでも遠い上空にあるままだ。

だけどもあなたはこう思っている。「自由になれなければ、自由に生きることができない」。だから一刻も早く鍵を手にしたいと思っている。問題という問題がすべて解決して「やっと自分の人生がスタートできる」と思っている。

だから対立する相手が自分を正しく理解してくれたり、大きなお金が入ってきて金銭的な苦労から放たれたり、生まれ持った境遇をひっくり返すような幸福な出来事が起きてくれないと困るわけだ。だってもう一生の半ばに差しかかろうとしているのだからね。

2.

というわけで誰もが、自由がそもそもなんであるのかを見失っている。

自由に生きるというのは、この世界全体を「自分の家のなかで過ごしているように生きる」ということだ。時間や他者という区切りを捨てボーダーレスに生きることにある。

「でもお金がなければ何も手にできない」という疑問が起こるのは自由がなんであるのかを見失っている証拠だ。たとえば自分の家の中で、トイレに入るときドアを開ける必要があるだろう。ドアを開けなければトイレに入れないというのは「自由の否定」ではない。

自由に働いてお金を稼いだりそのお金を自由に使えること、それが「あなたが生まれながらに授かっている自由」なのだ。つまり自分が能動的に、自主的に活動していけることが「自由」のその意味であるのだよ。

だから「溢れるほどお金が手に入ったから自由だ」とか「トイレのドアが自動で開くから自由だ」ということではない。問題が解決してくれることを待つことでもないし、そもそもそういったことを問題として抱えている時点で、あなたは「自分の持っている自由」を生きられていないということだ。

つまり己の自由を解放するには、欲望や反応に流されない自律した精神(自らに課す不自由)を同居させることが必然となる。ここを理解しないから真の自由を逃してしまうのだ。

3.

大人になるにつれて社会性というものが教え込まれる。それはもちろん大事なものであるのだけども、社会はそのメリットを優先するあまり、人々に恐れや不安という作用を同時に植え付けてしまう。

そのネガティブを誤魔化すために人々は社会が提供する欲望に流れてしまう。つまり自らで「自由」から離れていく。それは本来の自分自身を捨て続けているということだ。

ゆえに誰もが自分で何もできない。自分を信じられない。

会社をやめたらどうなるのか、この先の支払いはどうなるのかといつも怯えている。ゆえに明らかにミスマッチな人間関係や生活関係に耐え忍び、いつか物事が自分を苦しめないように変わってくれることばかりを願っている。

よって自分の足で新天地を見つけようという勇気が起こらない。この蟻地獄のような悪循環が「不幸」と呼ばれるものだ。

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