無条件に愛するということ

可愛い動物をみたり
おいしい食べ物を味わった瞬間に
心にあったモヤモヤや
心配や迷いが吹っ飛んでいく

だけどもまたすぐに
迷いを思い出してしまい
そうなるともう
動物や食べ物は魔法の効力を失う

人はそんなことを繰り返している

恋心や何かへの情熱も同じだね
まるで全身に電流が走ったかのようになり
それまで抱えていた諸問題が葬られる

あれだけ深刻化していた物事が
まあいいか、どうにかなるだろうと
とても楽観的になる

しかしたとえ一時的にも
どうして解放されたのかといえば
それは「大いなるもの」に共鳴したからだ

「自分」がレベルアップしたのではなくて
自分そのものが脱ぎ捨てられたのである

かわいいとか
おいしいとか
素敵だとか

そうした「理屈を超えた原体験」は
心がスルーされていることを意味する

つまり思考として物事を捉えておらず
ただあるがままの何かを感じ
それを表明している様子にあるわけだ

 

1.

もし可愛い動物をみて癒されたとき
「どうして可愛いのか」
「どうして癒されたのか」を
明確に説明しようとしてごらん

説明しようとするほど
確かに明確にはなっていくが
「原体験」の輝きは薄れていく

ここに人間の世界と自然の世界の
境界線がある

たとえば世界各地に
結界とよばれるエリアがある

神社仏閣のような「聖なる場所」と
人間世界の「俗なる場所」とを
分ける境目のことだ

その聖なる場所に何があるのかといえば
実際には何もない

祠(ほこら)が祀られていたりしても
中を覗けば何もなかったり
あったとしてもせいぜい
石の玉や鏡や木札程度のものだ

人々はその石ころや鏡を神仏のように崇めるが
本当はそれらは
「ここには何もない」ということを意味している

つまり何らかの「物」を
神として崇めるならばそれは偽りとなる

だからお守りや神棚の中は
空っぽでいいのだ

何もないからこそ
何の説明もないからこそ
そこにだけ闇が裂けた領域がある

雲の切れ間から差し込む
その光こそが「聖」なのである

 

2.

さてそうした「結界」だが
場所としてだけではなく
人間の心の内部を象徴しているともいえる

なぜなら聖なるものにしろ
俗なるものにしろ
それを体験するのは己自身であるからね

だから結界という「説明」を通じて
人間に大事なことを
伝えようとしているわけだ

人間が社会的に発展するほど、
合理的で解釈的で説明的になるほど
「聖なるもの」が見失われていく

つまり人間として社会的に生きるなかで
それを超えた満ち足りたエネルギーや
人々との真の分かち合いを失わないためには
「言葉」と「原体験」の
バランスを掴んでおかなければならない

「人間世界の次元」と「大いなる次元」の
バランスを保つ努力が必要だということだ

その保たれた状態こそが
仏教で伝えられてきた「中道」である

どんなことにおいても
真の意味での「理解」とは
言葉で言い表せるものではない

よく他者へのお礼などで
「この感謝をどう表現したらいいのか」
と悩むことがあるだろうけども
それはそういうものなのだ

表現しようとするほど
「言葉にならないそれ」から
遠ざかっていくのであり
あなたはその輝きを閉ざしたくない

恋愛でもそうだね
溢れる気持ちをどうしたら
いいのかわからない

その「わからなさ」を確かめようとするから
相手の存在そのものに依存してしまう

だがそうして自分に「説明」を与えるほど
何かが違うような気持ちになる

しかし相手はその人しかいないわけで
あのときめきを求めようとして
どんどん追求してしまうわけだ

あらゆる欲望が悪循環になるのは
「説明して(手を着けて)はっきりさせよう」
とするがそれによって
ますます曖昧になっていくことにある

つまり欲しいものは
「手にしていない」ときほど
それは完全な魅力を持っているのであり
手にした途端に魅力はどこかへ逃げる

よって延々と追いかけてしまうことになる

 

3.

人間はそれ自体が言葉の存在であるがゆえ
説明の世界に生きている

だから己の中に湧き起こる感情を
「明確にしたい」という欲求を常に抱えている

だが祠(ほこら)のなかにどれだけ
神憑ったようにみえる何かを置いても
それは偽りとなってしまう

だから受け取った物事を
明確にしようとしないこと

詩人は「そのこと」を
ぎりぎりのラインで表現する
つまり書かれた文脈ではなく
その行間を読ませようとする

仏典や仏像
聖書や聖画も同じ
祠の中の石ころや鏡と同じ

見えるものを通じて
見えないものに人間を到達させる

要するにそれは人間に
「人間をやめさせる」ということ
答えを獲得しようとせず
ただ動き続けているだけでよいということだ

なぜなら大いなる次元とは
その「動きそのもの」であるからである

たとえば誰かを愛するということは
それは「無条件で愛する」ということだ
何かの理由や根拠があるからではなく
「ただ全面的に愛する」ということにある

つまりあなたがこの世を
聖画のように眺め始めるとき
すべての背後に神なるものを感じるようになる

いつもの家族の姿
いつもの通勤の道

それらはなぜここにあるのか
それらはあなたに何を伝えているのか

寺の境内からは
外の明るい光が逆光となって
参拝客が影のようにみえる

影たちが次々と手を合わせて
祈りをあげていく

その不思議な光景は
この世が何であるのかを教えているのである

 

4.

現実と戦わないときに「中道」が現れる
つまり「無努力」への努力というわけだ

もちろん不明瞭さが残る

だけども白か黒かという判定は
一体何を基準としているのだろう?

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  1. loving114 より:
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    • 涅槃の書-自分 より:
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