生物的本能で最高の気分を響かせる

動植物、虫たちと違い
人は心の中を生きている

急な割り込みの車やおばさん
何かが引っかかり取れなくて
イライラする様子
または魅力的な異性、音楽、ムードに
いい気分になったりする
そうした「反応」に関係するものは
“心”の表層的な部分だ

人は反応で生きている
いわば生かされている状態
あなたが自分の主張を掲げたところで
掲げようとしていること自体が
すでに反応となっている

つまり外部に操られているということ

だがそれら外部は何の力も持っておらず
結局はあなたが勝手に
反応しているだけなのだ
つまりその糸を切れば
反応の世界からは解放される

「自分」を意識しなければ
すべて単なる出来事となるのだよ

ここでいう「自分」とは
外部の反応により作り出された自分のこと
ありもしない自分、実在しないもの

あなたはこの「自分」に
ずっと苦しめられてきている

 

心の深層、潜在意識

繁華街を歩いているとき
あなたは何を意識しているだろう?
人々の視線、どこかの店のセール?
それとも明日の不安?

何にせよ”外部ありき”のあなただ
反応以外にどこにあなたがあるのだろう

そしてその対象になぜ反応するのかといえば
「これはこういうもので‥」という
意味付けをしてきたからだ

つまりあなたは

  1. 自分で作り出したものに
  2. 自分で反応し
  3. 怯えたり不安になったりしている

「己との戦い」と表現されるが
まさにその通り

この「1.自分で作り出す」というレベル、
「これはこうであるもの」
という信念を潜在意識という

観念でも想念でも
まあどれも同じ意味だよ

簡単にいえば
あなたの生きている世界とは
自分の思い込みで出来ている
その思い込みの中で問題事を作り
それをどうにか解決しようと
躍起になっているわけだ

宇宙の法則やら
思考が現実化するやら
良い心が世界を変えるやら

それは当たり前のことなのだよ

最初から自分の心の中にいるからだ
心が変われば、つまり見方が変われば
それらの意味付けが変わる、
ただそれだけのこと

だが人はそこに気がつかない
自分は世界という途方もない場所で
人生に翻弄されていると思っている

だから潜在意識や阿頼耶、
神秘や宗教というカタチを通じて
自ら気付こうとする

そう、
“自ら気付こうとする”

翻弄されていながら
心のどこかでおかしいと思っている
だから本屋でスピリチュアルを発見する

‥‥

心の中をぐるぐる巡っていることが
わかるかな?

手にしているそれは本ではなく
紙とインクだ

書かれている「内容」は
あなたの心が作っているのだ
そしてその内容に反応して
また現実に巻き込まれていく

 

本質的な生き方に戻そう

「思い込みと反応」

これが心(人生)の素材となる
自分で投げたボールに必死で追いついて
自ら当たって「痛い」と叫んでるようなもの

さて、ここまでの話だと
「心の世界から抜けられないのか」
となるが、実はこの2つ以外に
あなたは素晴らしいものを持っている

肉体生物的な本能

意識を内側に向けるというのは
心の世界を放っておいて
生物のレベルへ戻るということを意味する
つまり瞑想のことだ

人は心の中を生きているわけだから
心を変えると当然世界が変わる
そうして良い現実が訪れるかもしれない
だがそれは幻想を抜け出ていないのだ

釈迦が言うように
幸福は苦悩とワンセットだ
幸福を求めるのではなく
苦悩を抜き去ることが
現実の殻を破る唯一の法となる

あなたが”生物”に戻ると
自身が存在していたことを思い出すと同時に
あらゆる苦悩が幻想だったことに気が付く

そうして体感する自己の存在性は
まさに至福だ
空を舞うほどの解放的な自由があり
無限の豊かさの中にいることがわかる

「私は在る」
「いまに在る」

これらの言葉がやっと出番となる

肉体が欲するままに
呼吸し、歩き、食べて、眠る
その欲求とは目的志向のものではなく
天候や食物連鎖などの自然の法則と同じもの
つまりいまここで起こっている循環に
委ねているものだ

あなたが”存在”としてあればあるほど
身体が勝手に動いていることを観るだろう
真なる個人、その驚愕の本質を知るに至る

 

“最高の気分”を響かせる

忘れてはならないのが「死」である

死はあなたがイメージするような
ネガティブなものではない
翻弄されて「生き延びたい」というエゴが
死を恐怖のものにしているだけ

あなたの経験している人生とは
すべて記憶、映像のようなものだ
つまりあなたは生きていない

死が延々と回想を観ている状態にある
死とはあなたのことだ
つまり死なない

例えばいまそこで家族と話していても
それは太古の記憶なのだよ
ずっと記憶を見ているだけだ

じゃあ”あなた”のところには
何があるのかといえば、何もないのだ

あなたが自分の顔を
直接見ることができないように
察知していないところには
何の幻想も浮かべることができないからだ

ゆえに「無」となる
逆にいえば「有」とは
日頃のあなたの心の様子と同じ
そこに作り出した自身の幻影のこと

この”死を回想している”という位置が
真我というものになる
これが”観るもの”

そして存在という本能
自然の循環に流れ委ねるその姿とは
回想そのものに溶け合わさることを意味する

フィルム映像の内容になるのではなく
カラカラと回るフィルム自体の動き
そのものが己の存在性となる
これが”観られるもの”

「観る者」「観られる者」
それらが合わさるとき
梵我一如となる

以前も伝えたように
あなたがコップを見ているとき
見ているのはあなたではなくコップなのだ
あなたはコップを認識する
つまりあなたを通じてゼロが起こる

だから観る者と観られる者は同一のもの
そこにあなたというエゴが入り込むから
それらの分離が起きているだけで
すべてはパーフェクトなのだよ

記憶の中をありのままに存在するとき
その記憶そのものになる

つまり自他の分離が消滅し愛だけが残る
すると躍動するハートが湧き起こり出す
ハッピーコメディ映画の
エンドロールのような祝福が起こる

何度か経験があるだろう?
“最高の気分”というやつだ

なぜ”最高”なのかといえば
それは解釈でも理屈でもなく
意識の本来の性質だからだ

ダイヤモンドは自らの輝きを
知ることができない
だから記憶という鏡を作り
そこへ自身を映し出して
その美しい輝きを見つける

もちろん、意識が何かを
求めているというのは詭弁だ
それは人間的な解釈だからね

そうではなく
「ただ映している」だけ

なぜあなたが最高の気分に
なれるのかといえば
意識の本質に共鳴しているからなのだよ

幻想世界の中で自身の存在を貫きなさい
それが”最高”を響かせる唯一の手段だ

 

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コメント・質疑応答

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  1. 名前のない男 より:

    役者の様に自分に与えられた役を人生(ドラマ)で演技している感覚になりました。するとそのドラマを演じている者も観ている者も強く意識できました。

    自分でない役を演じ様とするからおかしくなるのかな?と思いました。悲しい場面も楽しい場面も意識して演じればそのドラマを観ている者も同時に感じれます。

    ドラマのシナリオは常に完璧です。拝

    • -自分- 涅槃 より:

      名前のない男さん

      役に入るというのも
      ひとつの瞑想となる

      例えば男性のあなたが
      「よし男として生きるぞ」と自覚することで
      男性としての自由を獲得する

      自覚、つまり意識を内側に向けると
      パワーが漲ってくることがわかるはずだ

      そうして意識をコントロールできるようになれば
      あらゆる局面で恐怖はなくなるだろう

      言葉はなんでもいい
      意識を動かす引き金となれば
      なんでもいいのだよ

  2. aruaruばー より:

    生死について疑問を解消したく質問いたします。

    釈迦はもう輪廻しない。と言いましたが本当にしていないのでしょうか?
    釈迦の修行をすれば、無になり切ってもうイメージも感覚もないままであり続けるのでしょうか?

    生きている間は夜も昼も夢を見て、毎朝体が在り飲食排泄をし活動を見続け、死直後からは無になり切るなんて芸当が可能なんでしょうか?
    生きている事自体も死も夢の中にあるのに・・・・

    臨死体験の手記にはすぐに光などのイメージが現れてくるようです。
    私も一時的に死を体験しましたが、あの無に居続けることが可能ならば夢を見ないという選択が可能だと思います。

    私はほぼ毎晩夢を見みますが、夢を見ないという選択は可能なのですか?
    私の観察ではイメージは勝手に現れます。
    見るから展開するのだ。といわれるかと思いますが、何も無い所に出てくるわけですから気づかないわけがないというか・・・。
    同時にギョッと私が現れます。確かに何もなく平安そのものだったのに・・・と知ります。
    朝、体が起きる時もにほぼギョッとして起きています。
    ギョッとしなければ・・・・と思いましたが、現れていいよ~的な?現れてるのは無だよ~的な???

    もし可能であれば、ぜひ方法を教えて欲しいです。
    ・夢を見ない方法
    ・現れてきたイメージにギョッとしない方法

    • -自分- 涅槃 より:

      aruaruばーさん

      いくつか質問を頂いているが
      ひとつ大事なことを理解しなさい

      それらの話は「あなたの聞いた話」だ
      つまり釈迦も史実も実在しない

      あなたがそこに存在していること、
      そこに付随しているだけの単なる光景なのだよ

      あなたが疑問に思えば疑問になるし
      納得すれば納得となる

      人生で起こる「内容」に囚われてはいけないよ

      素敵な手品ショーがあって
      ただ素直に感動してればいいのだよ
      わざわざ種明かしを探ろうとすれば
      そりゃいくらでも見つかる
      あなたが”探した”からだ

      あなたは何でも作り出すことができる
      Google検索で「釈迦」と入れれば
      その情報をあなたは返す

      果たして「種明かし」も「検索結果」も
      事実といえるかね?

      何が真実かといえば
      それがそこにあった、ということだけなのだよ

      だからあなたの見たり聞いたりしてきたすべては
      あなたがそこにいるからそれらが起きたのだ
      それはあなたを象徴とするもの
      つまり”あなた”でさえ、
      あなたを象徴とするものとして
      そこに出現している

      探求は良いことだ
      だがそこに掴まれてはならない
      決して答えなどない沼

      あなたの関わるものはすべてそうだ
      他人、学問、目標、夢、愛、金、健康、

      それがそこにある
      その真実だけを感じなさい

      それがあなたを導く道となる

  3. aruaruばー より:

    たぶん、すごくわかりやすく説明してくれているのでしょうが
    何が仰りたいのか、意図というか意味がわかりませんでした。

    私にとっては、全てどんなこともOKなんです。

    次の夢をまったく見ないという事が選択的に可能なのか?
    聞いてみました。
    知らなくても、答えられなくても全くOKです。

    • -自分- 涅槃 より:

      aruaruばーさん

      たとえば今回の質問に限らず
      人生のあらゆる難題、苦難とは
      野球というゲームでいかに勝利するか
      いかに相手を攻略するか、
      それと同じことなのだよ

      そこに野球を見ているから
      グラウンドのコンディションを気にかけ
      試合の日にベストを尽くせるよう
      練習に励む

      だが自分は「野球なのか?」といえば
      そうではないし
      野球に関わらなければ
      それらを意識することもない
      逆に言えばね、
      意識することで野球が生まれているのだ

      それをあなたの人生そのものに
      置き換えてみなさい

      あなたの生み出した問いの答えは
      あなた自身の中にあることがわかるはずだ
      つまり、問いが答えなのだよ

      他のことでもいくらでも質問してきなさい
      だが私は同じ返答をするだろう
      なぜならどの問いの答えも
      すべて同じものだからだ

      私のコメントに
      どういう意味があるのか
      理解してみることだ

      問いに対する答えは
      あなたがもたらすものであり
      それは問いという概念を超えられない

      つまり真実とは
      問いが問いであることなのだよ

  4. M子 より:

    自分さん、観る者と観られる者についてもう少し詳しく教えてください。
    「あなたがコップを見ているとき、見ているのはあなたではなくコップなのだ」
    がやっぱり分りません。よろしくお願いします。

    • -自分- 涅槃 より:

      M子さん

      まずあなたは
      「自分」がそこにいると錯覚している

      だが「自分」とは循環の狭間に出来た
      影のようなものだ

      有名プロ野球選手から
      名前や職業、性別など
      外側の要素を外していくと
      最後は何も残らない

      それはあなたも同じ
      「自分」がいると錯覚しているだけで
      そこには誰もいないのだよ

      じゃあ、自分がいなければ
      日頃の体験とはなんだろう?

      「いま周囲の光景が見える」

      だが「私」がいないとするならば
      それらは”見えている”のではなく
      “見える”だけがあるということになる

      見るものがいないのに
      見えるとはどういうことか?

      それはつまり
      見えるものが見ている、となる
      循環という大きなうねりの中で
      存在性が成立したのだ

      これを本書ではゼロと呼んでいる
      見えるもの自体が自身を見て、
      ひとつの波動は終結する

      よく心理学やらスピリチュアルで
      起きた感情を認めないから
      潜在意識に残り、
      それが負の感情になるとされるが
      それはゼロとして完結させていないからだ

      つまりありもしない「自分」が
      邪魔をしているということ

      出来事をありのままに流していくとき
      あなたは消え
      そこに悟りの境地が開いている

  5. aruaruばー より:

    今更ですが夢は私の反映だという事を思い出しました。

    潜在意識も、観念も、イメージも思いも感覚も物もあなたもわたしも、善悪、美醜、苦楽、何もかも私から見れば同じものです。
    迷いも悟りもOKなんです。
    このOKというのは完全肯定、手付かずのありのままで良いという事です。

    仰るゼロとして完結させる必要さえないんです。
    認めてもOK、認めなくてもOK。わかりますでしょうか?

    こればかりは夢から出るしかありませんが・・・。

    本当にご親切にご対応いただき、ありがとうございましたm(__)m

    • -自分- 涅槃 より:

      aruaruばーさん

      そう、その通りだ
      ついでにひとつ助言しておくよ

      >仰るゼロとして完結させる必要さえないんです。
      >認めてもOK、認めなくてもOK。わかりますでしょうか?
      >こればかりは夢から出るしかありませんが・・・。

      その現実も夢だよ

      つまり現実すらも心の反映だ
      そこに物理的な原理がどうとか
      因果関係がどうだとか
      “現実に囚われる人々”は言うが

      それらを含めたその現実自体が
      すでに反映されたものだ

      あなたが超えるべきなのは
      自分の信念がいったいどこから
      やってきているのか、ということだ

      その前提を覆せば
      すべては「自分の意見や考えなどなかった」
      となるだろう

      それは他者や私に対しても
      「彼らもそうだったのか」と
      気がつくようになる

      固執しないことだ

      こちらこそありがとう
      またいつでもきなさい

  6. M子 より:

    いつもアドバイスをありがとうございます。
    観るものと観られるものは、私という映写機を使って、コップ自身がコップを観ているということなのですか。映写機である私が自分が見ていると錯覚してしまっているからややこしくなっているだけで、すべての出来事として私が知覚しているように見えるものは、その出来事自体がその出来事を起こしてあらゆる角度から観ているということですか。その出来事はなぜ起こるのですか。
    コップはなぜコップを観る必要があるのですか。

    • -自分- 涅槃 より:

      >M子さん

      >出来事はなぜ起こるのですか。
      >コップはなぜコップを観る必要があるのですか。

      逆だよ
      つまりそれを疑問に思うあなたがいるから
      不思議に思うだけだよ

      そもそもコップという形は実在しない
      あなたという認識を通じて
      それはコップになっているだけだ

      つまりあなたもコップもなく
      その関係性だけが起きている

      意識の作用はごくシンプルだ

      あなたが食べ物を食べて
      その食感やおいしいという気持ち、
      それらがそこに発生したのだよ

      無論「おいしい」などは人間的な解釈だから
      本質のそれとはかけ離れている

      しかし、あなたが好きな人と
      そうでない人との違いがあるように
      ある種のハートが意識の本質であるといえる

      だからハートが先に起こる

      そして現実という
      辻褄合わせで発生する”あなた”という視点から
      「これはどういうこと?」と考えるから
      答えが見えないのだ

      理解できるかな?

      これはいわゆる「願望実現」にも適用できる

      つまり幸せな気持ちを先に起こせばいい
      すると辻褄合わせの現実が起こり出す
      簡単なことだよ

      何が起こるかわからないから
      願望実現とは少しニュアンスが違うがね

  7. より:

    外国人が、握り寿司のウニとかを初めて食べて、吐き出しているのを見ると、「美味しい」は幻想だなと思う。
    我々だって、子供の頃は、あの脳味噌みたいなビジュアルが受けいれられなかったのに、段々と高級食材に見えてくる。
    そして、ウニを吐き出した外国人も、あるとき、「ウニの美味しさに気がつく」
    美味しいとか不味いすら、対象の属性ではなく、心の中にある。
    ウニが美味しいのではなく、ウニを美味しいと感じる心がある。

    • -自分- 涅槃 より:

      鯤さん

      そう世界とは心の情景なのだ
      つまりどんなこともハッピーであれば
      それはハッピーとなる

      無論、そういう心の情景が起こるということだ

      “自ら作り出す幸福”に親しんでくると
      だんだんそれすらも必要がなくなってくる

      つまり幸であるか不幸であるかを意識しなくなる
      そうして幻想を超える

  8. えくぼ より:

    自分さん、
    横から失礼します。

    M子さんに回答してる中に
    ≫何が起こるかわからないから
    願望実現とは少しニュアンスが違うがね
    との一文がありますが、結局 巷で流行っているような、自分が狙った特定の「願望実現」はできないもの、という事でしょうか?
    ハッピーでいればハッピーな事が起きるけど、その中に自分の望んだ物が含まれていればラッキーな程度という感じですか?

    • -自分- 涅槃 より:

      えくぼさん

      逆に考えてみるといい

      ネガティブに染まりクヨクヨと
      毎日不安になっていると
      あらゆるものがあなたを刺激してくる

      正しくは、
      あなたがそのように受け取るようになる

      実のところ現実はなにひとつ変わっていない
      あなたの見え方が変わるのだよ

      つまりハッピーな物事はいつもそこにあり
      それを見ているか見ていないかだけのことなのだ

      「今日突然、親戚が家にくる」
      これをどう受け取るかだ

      心は錬金術を司る
      親戚が来ることにサプライズを感じておれば
      親戚に対する態度は良いものになる
      すると彼らは何かを提示してくるかもしれない
      そうしてひとつの循環に触れていくのだよ

  9. りお より:

    自分さん、おはようございます
    おとついの夜、寝る前に身体を意識する瞑想が深くできたのか身体の感覚も消えました
    これってもしかしてウワサの見性ですか?(だったら嬉しいですw)
    昨日はそこまでいきませんでしたけど
    とにかく続けたいと思います!

    • -自分- 涅槃 より:

      りおさん

      おはようございます
      >瞑想が深くできたのか身体の感覚も消えました
      それはとても良いことだ

      眠りに入る前に「浮いている」としてみたり
      60兆といわれる全細胞を感じてみたり
      動き続ける心臓、呼吸器官、髪や爪など
      方法は何でも構わず
      じっと体に関心を向けてみる

      それだけであなたの体はリフレッシュされる

      体がリフレッシュされると
      脳も心も同様にクリアとなる
      すると世界の光景も変わる

      ここに神髄がある

      スピリチュアルでは
      物理次元を幻想とするあまり
      肉体を軽視する傾向にあるが
      幻想の中にスピリチュアルがあるのだ

      体を感じるのは素晴らしいことだ
      私も常に体に意識を向けているよ

      そのまま続けなさい

  10. M子 より:

     > あなたが好きな人と
      そうでない人との違いがあるように
      ある種のハートが意識の本質であるといえる

    とアドバイスをくださいましたが、ハートで感じることと、感情は違うのですか。
    ハートでも、好きな人とそうでない人との違いを感じるのですか。

    • -自分- 涅槃 より:

      M子さん

      >好きな人とそうでない人との違いを感じるのですか。
      それも逆となる

      つまりハートが起こり
      あなたはそれを好きな人とする

      感情はその後に
      マインドが起こすものだよ

      例えば猫が可愛いとするならば
      可愛いという前提の上に
      その笑みが起こる
      それはマインドのものだ

      だが猫を見た瞬間に起こるもの
      それはあなたの解釈を通じていない
      それがハートとなる

      真実のプロセスは、
      ハートが先に起こり
      そしてあなたと猫が現象化される
      その後にマインドが感情を作る

      ハートはサプライズなのだよ

コメント・質疑応答

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