そこにペンが置いてある

あらゆる疲れや苦悩、不幸といった要素は
マインドがそのように見せているものであり
そこに起きている物事とは一切関係がない

机の上にペンが置いてある

この静かで、そして完全なる様子
それこそがあなたの本来の姿といえる
一切の惑いも煩悩もなく
そこにペンがある

じっとしろ、という話じゃないよ
何の対立もなく
それがあるがままに溶け合うとき
すべての境界は消えるということだ

体は活動的だ
動くことがエネルギーだ
以前も書いたが疲労というのは
肉体的なものではなく
精神的なものである

肉体は使えば使うほど
喜びのエネルギーに包まれていく

長期の休暇があり
明日も明後日も会社のことを考えなくてよい、
そんなとき
最高のジョギングとなる人は多い
体の喜びがストレートに享受されるからだ

朝も夜もキラキラと輝き
世界はいつだって
祝福の中にあったことを思い出す

「そこにあなたがある」
それが最高というものだ

 

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コメント・質疑応答

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  1. ワモノ より:

    自分さんこんばんは

    今日自分の部屋でくつろいでいて気付いたことがありました。
    私がくつろいでいられるのは「自分の部屋」だからではなく、私がくつろいでいるからなのだと

    私にとってはすごい気付きだったんですが、文章にしてみると当たり前だなという感じですね

    >以前も書いたが疲労というのは
    肉体的なものではなく
    精神的なものである

    街であったり学校であったり職場であったり、私がそこに身を置いて感じた疲労はそれだけ意識を分散させてしまったからなのですね
    自分の部屋には気を配るものは何もありません
    だから、くつろいでいられる、安心して今に在ることができる
    いや、今に在るということすら意識せずにただくつろいでいる

    街に居ても学校に居ても職場に居ても意識を内側に灯せばそこが「自分の部屋」になるのだと思いました

    • -自分- 涅槃 より:

      ワモノさん

      良い洞察だね

      人々は社会や他者の目を通じて
      自分を見ている

      しかも一人でいるときですら
      周囲の何かを通じて
      自分を見ることが癖になっている

      あなたのように
      部屋でもリラックスできる人は
      それほど多くない

      どこにいても緊張状態だ

      部屋で一人でいながら
      頭の中は他者とのコミュニケーションで
      溢れかえっている

      だから極端にプライベートな場所、
      つまり観念的にも「一人でいることが当然」の場所、
      トイレなどかね、
      そうしたところで、やっと人は荷物をおろすことができる

      だがその本来の状態が
      あまりに日頃の状態とかけ離れているゆえ
      それが背徳的な快楽に転じ
      隠れてコソコソとすることに走る傾向が起こる

      盗撮や痴漢などの性癖もそうだし
      万引きやネットでの陰口もそうだ

      守られたエリアにいることを
      より固めたい心理からそれは起こる

      つまり
      日頃から意識が外に向きすぎているのだよ
      性癖はその反動ということになるが
      結局はその「背徳性」ですら
      意識は対象に向けられている

      >街に居ても学校に居ても職場に居ても
      >意識を内側に灯せばそこが「自分の部屋」になる

      それが最も大切なことであり
      そして本当の意味での居場所なのだ

  2. old friend より:

    自分さん-こんばんは
    いま部屋で、自分に意識を向けながら雑務をしていたら、嬉しくも悲しくもないのに突然、涙が溢れてきました。感情や思考を通さず、何も理由もなく、ただただ自然に、とても不思議な感じです。 

    • -自分- 涅槃 より:

      old friendさん

      マインドが去るとき
      肉体は本来の在り方に戻る

      嬉しさや悲しさは
      マインドの解釈なのだ

      肉体が涙を流すとき
      それは自然のままであるということだ

      宇宙の循環に触れたのだよ
      自我が消えると
      世界はいつだって祝福の真っ只中だ

      そこにペンが置いてあること
      そこに音が流れていること
      そこに体の重さがあること

      すべてが幸福のダンスである

  3. 瑠璃 より:

    自分さん おはようございます。

    自分さんの返信を読んでから、後頭部から自分の思考や感情を静かに眺めてみました。おや思考がわかない…何が出てくるかな?と待っていると自分では想像していなかった思考が次から次に流れてきました。時々思考の流れがあまりに速くて気づく間もなくいってしまう事もありましたが、少しずつ眺めている事に慣れて来たように思います。眺めている時は落ち着いているように感じて心地良いのでこのまま続けてみます。

    >以前も書いたが疲労というのは
    >肉体的なものではなく
    >精神的なものである

    さて、今回の記事も興味深く読ませていただきました。
    子供の頃からからだが弱い…疲れやすいから無理をしてはいけないとずっと信じて生きてきました。
    でも、これも思い込みなのですね。
    自分を眺めていくことでこのへんの事も自然に分かっていけると嬉しいです。

    自分さんいつもありがとうございます!

    • -自分- 涅槃 より:

      瑠理さん

      例えばいま考えていること、

      見たり聞いたりしたことへの解釈や
      やらなければならないことなど
      そうしたものは自分ではなく
      そこに置いてある思考である

      目の前のコップと同じ

      だが長年の癖で
      思考に同化してしまっているから
      そこに気付くよう習慣付ける必要がある
      つまり癖を正すのだ

      実はここに唯識の肝があり
      癖を癖と見なし
      その癖を正すことで
      新しい観念が生まれる

      つまり思考は己ではない、という
      観念だ

      ひとつ理解しておくべきことは
      あなたが見たり聞いたりしている世界は
      真実があるわけでもなく
      すべてが観念だ

      白いものがあれば
      そういう観念でそれを見ているわけで
      白いものって黒なんだよ、
      という観念があれば
      あなたは裏側を創り出す

      つまり不幸も観念
      幸福も観念であり

      まずは古い観念を捨て
      新しい観念に変えていくことだ

      そして観念が変わっていく中で
      「あれ?すべて自分の見たままだった」と
      「観念」そのものに気が付くときがくる

      すべてに意味はなく
      理由もなく
      自分が見たままが、そこに起きていることに
      気が付く

      そうして、観念を変えようとせずに
      観念を超越するようになる

      つまり目の前で人間的ドラマが起きていても
      あなたは何の関係もなく
      自由に生きるようになる

  4. old friend より:

    自分さん こんばんは

    お返事ありがとうございます。
    以前の手記で
    >あなたの世界とはそこにあるものを
    ただ映し出しているだけだ
    と書いてあって、ずっとその意味がわからず
    ノートに書き留めて毎日のようにそのノートを
    読み返していました。
    寝る前に、見てたら ハッ!と意味がわかりました。
    今日は、泣き笑いです笑

    いまを鮮烈に生きる大切さが、改めてわかりました。
    自分さん、本当にありがとうございます。

    • -自分- 涅槃 より:

      old friendさん

      よろしい
      その当たり前すぎることに
      人はなかなか気が付かない

      なぜそれらはそこにあるのだろう?

      見たり聞いたり触れたり
      なぜそれができるのだろう?

      それは「見たり聞いたり触れたり」
      しているのではないからだ
      その行為そのものが
      “私”なのだ

      この境地に入るとき
      あなたはすべてに対する距離感を失う
      あらゆるものが
      自分と密着した関係になる

      距離がなくなるということは
      時間が止まること
      すなわち「いま」という唯一の真実に
      留まることになる

      いまに在るとき
      過去や未来への苦悩がないから
      生は鮮烈となる

      目の前のことだけに
      応えていくようになる

      目の前のこと?
      それがあなたなのだよ
      やっと「自分」に向き合えるわけだね

  5. old friend より:

    自分さん

    >やっと「自分」に向き合えるわけだね
    本当に嬉しいです。
    まだ 世界には私だけしかいない という感覚が
    知識でしかわからないので
    いまに在り続け、鮮烈に生きます。
    ありがとうございます。

    • -自分- 涅槃 より:

      old friendさん

      意識の光を手放してはならない
      どんなときも
      体の隅々まで意識を巡らせなさい

      体を感じなさい
      頭は必要ない

      食べるときも
      歩くときも
      仕事をするときも

      体だけを観ていることだ

      すると、ふと”抜ける瞬間”がくる
      それは求めて得るものではなく
      予期せぬときに降り注ぐ

      だからいつも待っていなさい
      体だけを感じながら
      待ち続けなさい

      それが”祈り”の正しい姿だ

  6. old friend より:

    自分さん こんにちは。
    お返事ありがとうございます。

    僕は、ひとつの絶望から探究が始まったのですが
    その最初の頃「常に神のほうを向いていなさい」と
    そんな言葉をよく、
    目にしたり耳にしたりしていました。
    >それが”祈り”の正しい姿だ
    自分さんのこの言葉で、その頃のことが浮かんできました。

    来年の春に法人設立する流れになって、その相談に
    今日、行政書士事務所に行ってきました。
    普段、しゃべるのが苦手で
    うまくしゃべれるかな?なんて思っていましたが
    身体を意識しながらニコニコ笑ってたら
    不思議と言葉がスラスラと出たし
    いろんなことが重なって、いい方向に進み出しました。

    これから、外側に囚われそうになる機会が増えそうですが
    意識を身体の方に、神の方に、向き続けて流れに任せてみます。

    自分さん、いつもありがとうございます。

    • -自分- 涅槃 より:

      old friendさん

      素晴らしい話をありがとう
      苦手な局面というのは
      単に「自分」がそこにいるだけなのだよ
      ありもしない「自分」なんて見る必要はない
      自分とは遥か遠くの壁に映る影のことだ

      その影を見て誰もがソワソワする
      得体の知れない「明日」に
      何から手をつけていいのかわからない

      そうではなく
      現実に向き合うのだよ
      明日を見るのではなく
      いまそこにあるものに飛び込むのだ

      現実は向き合えってしまえば
      まったく怖くない

      なぜならば、
      それは「どうにかできるもの」だと
      わかるからだ

      だが遠くの影はどうにもならない
      あなたの動きに対応して変化するだけ
      掴むこともできない
      怯えて震えているなら
      影も同じようにネガティブを返してくる

      だからどんなときも
      「明日」を見ないことだ

      いつも現実に飛び込んでいなさい
      何も恐れるものなどなかったことに
      気がつくだろう

      そして世界はあなたのためだけに
      広がっていたのだとわかるようになる

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