奇跡が起こるとき

思考は現実化するというけども、思考の世界が現実をみせているので、それは当然のことだといえる。思考といっても日頃の表層的な思考のことではなく、それさえも規定している「深いレベルの思考」のことだがね。

つまり「シンクロニシティ」や「ダメだと思っていたことがなぜかうまくいった」という不思議な体験の原理をシンプルにまとめるならば、この冒頭の一文だけで十分となる。

だから神や奇跡を「信じる」というのは、言いかえれば、ここが己の思考世界であることを「認める」ということにある。わかるかな、自他が絡み合う混沌を飛び越えて「自分の世界を愛するだけ」だ。深いレベルの思考への到達手段、それが信仰というものだ。

すると世界は「あなたの愛のなか」に、すっぽりとおさまるようになる。もちろんそこには自他の小競り合いはあるだろうし、解決しなければならない問題も変わらずあるだろう。

だが「心の向こう側」には誰もいないし、何も存在しない。そのことを深く納得するほど、シンクロニシティ(奇跡)は多発するようになる。

1.

ここで大事なのは、そのシンクロニシティの多発は、すべてが己のなかにあると「認めている」からこそよく見えてくるということにある。

たとえば「最近気にかけていたことがあって、それがたまたま開いた本のなかに出てきた」とか「何年も会っていない古い友人のことを考えていたら、突然その人から電話がかかってきた」という経験があるかもしれない。

それは「最近よく気にかけていた」「いま考えていた」ということを、つい間近に「覚えていた」からこそシンクロニシティがわかりやすく判明しただけであって、いまあなたを取り囲んでいる光景や、日々の出来事、誰かが話しかけてきたその内容でさえも、実際はそのすべてが「シンクロニシティ」なのだ。

2.

「すべてがシンクロニシティである」という意味を考えてみよう。

ある物事に対して別の物事が偶然的に一致したというとき、その最初の物事は前提条件だっただけでなく、さらに遡る別のなにかの関連として現れていたということ、つまりあなたの現実とは、心が深層で抱き続けていること(無意識的に信じ切っていること)の「無限の連鎖」によって構築されているということだ。

「提灯(ちょうちん)」などの紙細工を支える骨組みのようなもの、そのフレームによって現実世界は肉付けされる。つまりフレームが「深層的な思考」ということになる。よって日頃私たちが頭に浮かべられる表層的な思考(貼られる紙)とは、そのフレームに「制限されたもの」だといえる。

だからふと思考が浮かんだとき、それはフレームに一致されたもの(シンクロニシティ)にすぎず、その意味で、つまり表層的なレベルにおいて「思考の自由はない」といえる。ある物事についてどのように考えなおしても、神社で願いを伝えても、現実は「その現実の通り」なのだ。「確定され続ける運命」を辿っていくことになる。

よくスピリチュアルで言われるように「願う世界”だけ”が実現し続けていく」ことになるわけだね。

3.

よって理解しておかなければならないのは、人間は自分と関わっている対象との関係でしか「思考できない」ということである。

以前ペルソナの話でも書いたように、それは「合わせ鏡の部屋」に入ったようなものだ。あなたがどのように動いても、四方の鏡はそれと同じことを返してくる。それをみて何かを思考するが、それは鏡の世界に閉じ込められているということだ。

自分のエゴ(鏡像)に固執して行動をとり続ける。その結果、妄想世界(合わせ鏡の間に浮かび上がった虚像)はどんどん真実味(リアリティ)を増していく。現実とは「リアル」のことではなく「リアリティ」の集積のことであり、己が何をそこに見て、何を考えたかといった、再帰性(フィードバック、鏡の反射)が積み上げられたものだということにある。

つまり日頃何かについて思考するのは、それは「そう思考せざるを得ない世界」にいるからであり、その観点にいる限り、どれだけ斬新なアイデアが浮かんだとしてもそれは鏡が映し出した産物にすぎず、その「部屋(現実世界)」からは抜け出すことができない。

だから「願う世界”だけ”が実現していく」ように、人間は原理的にダブルバインド(二重拘束)の罠に常に陥っていることになる。

たとえばある旅行者が「誰もいない前人未踏の純粋な自然」を求めて旅をしても、当人が存在すれば、つまり彼の足が一歩でも踏み込めば、そこは未踏の大地ではなくなってしまう。彼はどこまでも追い続けるが、それが実現するほど虚しいものとなっていく。

人間の抱える理由のわからない虚しさや、根源的な苦悩の要因とはこの状態にはまりこんでいるということ、つまりそれは己の影(鏡の像)から逃れようとしているだけなのだが、鏡の前に立っている限りそれは達成されないのである。

4.

また「鏡の部屋」を理解するとき、次のような真実がみえてくる。

それは現実の光景がどのように「必然的にみえる」ことさえも、それらは本当は「ただ偶然に配置されているだけ」だということだ。

たとえば「自分はたったいまここで生まれたばかり」とイメージしてみるといい。あなたはいまこの瞬間に出現した。

そのとき、いまここにある周囲の光景が「なぜそうであるのか」という「理由」を見出すことができない。いま生まれたばかりであるのだから、目の前に置かれたコーヒーカップも「これは以前あの店で買ったものだ」という因果関係を適用することができないということだ。

家族がそこにいても、彼らが何者なのかという裏付けのないまま、「父」や「母」や「妹」がそこにいるのであり、つまりこの観点からみてみれば「理由づけをすること」がフレームの構造の根本にあることがみえてくる。

5.

なぜ宇宙があり、光があり、生物がいるのか。この世がなぜあるのか。その理由が決して解明できないのは「理由そのものを創り出すこと」が人間の世界であるからなのだ。だから人類が追求してきた真理とは、そもそも「真逆」にあるのであって、つまりこの偶然的な世界に「必然を規定すること」によって、「人間にとっての真理」がうまれるのである。

「偶然そうである」という事態を免れ続けているのが人間であり、つまり人は日頃何気なく過ごしているが、蓋を開けてみれば、実際はそんなクレイジーな世界にいるということだ。

だから人間である限り、一切の理由づけを放棄すると気が狂ってしまう。それは精神の強さとかそういうことではなく、人間がそもそも「理由づけのなかにのみ存在するもの」だからである。

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  1. imacocojin より:
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