世界は一冊の書物である(前編)

何かを考えるとき、当然その対象がある。誰かのことだったり、何かの心配事だったり、いま着手している家事や仕事のことだったり、心の中のことであれ、事物であれ、考えるということは「考えるための何か」が必ずそこにある。

ということは、つまりその対象に「考えさせられている」ともいえるわけだ。

たとえばいま私の目の前に地球儀がある。見た瞬間にすでに様々なことを考えている。ちょうど中南米のあたりが視界にあるのだけども、キューバとかカリブ海とかベネズエラとか、そうした地名から連想される事柄やアルファベットの綴りの感じ、また地球儀そのものに関すること、ちょっと埃を被ってるなあとか、国ごとの色分けのうちのオレンジ色に意識が向いたりとか、さらには地球儀そのものとは離れた関係性、たとえばこれを購入したときの情景だったり、まったく無関係な知人の顔が浮かんだりする。

その知人の顔はこの地球儀にまつわる一切とは完全に無関係だけども、地球儀をみたことによって浮かんだことに違いはない。

つまり私がキューバやオレンジ色や知人について「無」から発想したのではなく、たまたま目に留まった地球儀によってその連関を「考えさせられた」というわけだ。

1.

もちろん地球儀を見る以前には別のことを「考えさせられていた」わけであり、そしていまはMacのキーボードの指先の感覚や、自分で書いている”つもり”のディスプレイ上にどんどん起こされている内容について「考えさせられて」いる。

ここで下手に「この手記はこういう話にしよう」とか、まだ書き始めなのに「結論はこのように持っていこう」とか考え出せば、途端に指は止まってしまう。

もちろんそのように”仕向けよう”とすることも「考えさせられていること」のひとつであるわけだが、指が止まらずスラスラと言葉が出てくるのは、まさに地球儀から様々なことが引き出されたように、ただ言葉の吐き出しに身を任せているときとなる。こうしてわざわざ「まさに地球儀から様々なことが〜」と書いていることもその通りというわけだ。

この「身を任せている状態」にあるとき、私はとても楽に手記を書き進めることができる。

もちろん脈絡のない行き当たりばったりのようなことが書き出されるというわけではなく、むしろ余計な路線変更を選択しないほうが、私自身が経験してきたこと、知っていること、感じていることをありのままに文字にしていくことができる。いや、「文字にされていく」といったほうが適切だろう。ただ眺めているだけなのだから。

2.

このように潜在意識(無意識)が自我の計算的な意図とは無関係に溢れ出てくる様子こそが「インスピレーション」というものとなる。

ただしよく言われるような「無意識のうちにやっていた」というのではなく、ちゃんとその無意識を「意識的に」眺め続けているという前提にインスピレーションの定義がある。私は己を通じて流れ出るものを知っている。それは同時に「この世がどのように造られているのか」に気づいているということでもある。

もちろん私は私の知らないことを流れ出させることはできない。たとえばさっきベネズエラと言ったが、訪れたこともないので「ベネズエラで知り合った友人」について話すことはできない。その国の空気や雰囲気も語ることはできない。ただベネズエラという語句に私が連想するもの、すなわち潜在意識から引き出されるものはいくらでもある。

経済危機や難民の問題、仮想通貨、マドゥロ大統領などの時事的な知識、そしてまた地球儀と同じように、ベネズエラそのものとは無関係な事柄が湧き出てくる。いま頭のなかを素直に吐き出せば、パレスチナ問題や作家のジャンジュネ、タバスコのロゴマーク、あとなぜかスライのFamily Affairが脳内再生している。

国際的な問題としてパレスチナ、そしてそれを題材にした著作のあるジュネまではいいけども、それ以降は個人的な経験や傾向によるもの、また言葉そのものの発音やイメージの連想によって引き出されたものとなる。

3.

どうしてこんな話をしているのかといえば、以前にも手記にしたことがあるように、人は「自分が事物に沿って話している」と思い込んでいること、つまり裏返していえば、人間の世界とは言葉だけが活動しているのであって、人間とは言語が活動するための「乗り物にすぎない」ということを理解するためである。

あなたはこれまでたくさんのことを見聞きしてきた。そしていろんなことを考えてきた。食事の際もそれがなんであるかとか、どんな味がしているかとか、常に考え続けてきた。何かを目標に立てそれに向かって活動することもそうだ。嫌な思いをして悩んだり立ち直ろうとしたときもそう。

あらゆる行為は「考えること」によって成されてきた。だから人生とは「考えること」だけで埋め尽くされてきたものだといえる。

ところがあなた自身がゼロから考えているのではなく、ひたすら現れ続ける様々なものに「考えさせられてきた」のであるなら、あなたは常に世界の「受け手」であることになるわけだ。

受け手?
そう、受け手でしかない。

となれば、あなたの人生の主体とはなんだろう? つまり私たちはこの「自分の」人生でいったい何をしているというのだろう?

というより、こういうことだ。

そもそも私たちとは何者なのか、である。

4.

少し話を飛躍させるけども、ここで輪廻転生について間違えやすいポイントをあげておこう。

誰もが勘違いしているのは、自分は「世界のなかで個人として生きている」とした観点から輪廻転生を捉えてしまうことにある。つまり「いま自分と思っている肉体」のなかに「本当の自分という魂が入っている」と信じているということだ。

だが輪廻転生と言うのは、そうした「人それぞれに入っている魂」が移り変わっていくということではない。魂の転生とはそういうことではないのである。

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