無意味に生きる

意味を求めることをやめること
それが扉を開く方法である

人は意味を求めたがる
例えば「自分の本当にやりたいこと」を考えるとき
必ず意味に結びつける
金銭的な方面だったり
生きがい、充実感とかね

そうじゃない
意味を求めた時点で
それは本当にやりたいことにならない
苦行と化している

よくある教えに

「ワクワクすること」をやりなさいとあるが
それはつまり
自意識を落とした状態になれということだ

「そういえばこれに興味があった
そうか、これが自分のワクワクだ」
こういう思考を「落とす」のだ

まったく意味や理由も付与せず
それをしたからといって何になるわけでもなく
「ただそうしたい」
それがリアルだ

あなたが自意識を落とすとき
何をやってもワクワクする

「意味付け」はあなたのエゴが発祥となる
群衆の中で際立つ必要もない
輝く必要もない
特別な人間になる必要もない
個性を持つ必要もない
やりたかったことをやる必要もない
かねてからの夢や目標を思い出す必要もない

ただの一般人になってみなさい
あなたは「あなた」ではなく
ただの一般人だ
その辺のひとり

自意識を落としたとき
ただ動物を可愛がるだろう
ただ食べ物においしいと言うだろう
ただ良い天気だと感じるだろう

「あなた」を落とすのだよ
それで扉が開く

 

ただの人になる

無意味に生きるとはニヒリズムのことではなく
意味を求めることがすべての苦の原因であること
そして意味を求めることとは
あなたが形成するアイデンティティの種であること
それを悟ることだ
だから「意味もなく」ただ漠然と在ることが
無限の豊かさに気付く唯一の生き方となる

徹底的に「意味」を追い払うには
あなたが「ただの人」になればいい
よくある
よく見掛ける
ただの人だ

あなたには夢や目標があり
そんなときに何の夢もなくただ生きている人を見て
優越感に浸っていないかね
近所のおばあさんでもいい
自分にはまだまだ人生があるから
そんなことを思っていないかな

あなたは苦しむだろう
なぜならばすべての幸せを逃しているからだよ
だから「ただの人」になりなさい
それが秘訣となる

日頃のあなたはアイデンティティの集積だ
だからあなたが見るとき
あなたは見ていない
意味付けをしようとする思考が見ている
その世界をあなたの思考が変換してしまう
あなたはいつも何か考えている
考えていることを見ている
花を見て「これはこうだから綺麗だ」

だが
あなたが本当に見るとき
あなたが本当に踊るとき
それはあなたがいないときだ
そういうことなのだよ

幸福とは
「あなた」が食べることであり
「あなた」が歩くことなのだ
そのためには
あなたが「あなた」ではないことが前提となる

逆説に感じるだろう
簡単に理解したいのなら
「ただのその辺の人」になればいいだけのことだよ
あなたはいない
あなたがいるから幸福じゃないのだよ

ただ在りなさい
ただ生きなさい
それだけでいい
そのままでいい
何も変えることなどないのだよ

あなたがあなたを捨てるとき
そこにあった苦悩はすべて消える
何度も言うが難しいことじゃない
ただのその辺の人になればいいのだ

ただのその辺の人は
ただ生きている
雨が降れば傘を広げるときもあれば
濡れているときもある
どちらでもいいのだ
ただその光景があるのだから

ただのその辺の人は平凡かもしれない
ただのその辺の人はビジネスで成功しているかもしれない
ただのその辺の人はアイドル歌手かもしれない

その光景がなんであるにしろ、だ
自意識を捨て去ること
あなたが数万人を相手にするアイドルでも社長でもだ
ただの人になりなさい

常にその場所で「ただの人」であることだ
常にそのままでいい

人生は誰もが必ず自分自身を見いだそうとする
それが苦を伴う
クラブ活動でも偏差値でもゲームでも将来の夢でも
どんなこともアイデンティティの種が撒かれる
アイドルを見て私もアイドルになりたい!だ

だが一周まわってただの一般人になるとき
大きな流れのただのひとつになるとき
つまりみんなと同じように
アイドルを見てキャーキャーと騒ぐ人になるとき
意識が「個」から「全体」に移ったとき
あなたは幸せを手にする

溶けなさい
一般ピープルというやつになりなさい

 


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コメント・質疑応答

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  1. kala より:

    子供の頃からずっと、何か特別な存在になることに必死になっていました。

    今でもそうですが、何か違和感を感じていました。

    しかし、その欲求を捨てるのが怖い、「先を越されてしまう」「悔しい」「劣等の塊になってしまう」そんな焦りの引力を感じます。

    でも、その声に従って幸せになったことがない。思い切ってそれらを振り払わないといけないのかもしれない。できるかもしれない。やっと最近思えるようになってきました。

    • -自分- 涅槃 より:

      kalaさん

      有名な公案がある。公案とは真実に気付くための謎かけのようなものだ。

      手を見てごらん。ではその手は誰の手かね?あなたは「自分の手です」と答えるだろう。

      手はわかるね、そこにある。視界にある。だが「自分」はどこにある?その「手」を眺めながらよく考えてみなさい。その手は誰のものか?自分はどこにあるのか?

  2. mitsubachi より:

    初めて投稿します。

    例えば私が社長なら、
    「このような案件、社長どうしますか?」
    「社長、事件が起きました!」
    など、何かと決断を問われます。
    実生活で「一般ピープル」になるには、具体的にどうしたらいいか…。
    何も考えずにすむようになりたいです。

    • 涅槃の書-自分 より:

      mitsubachiさん

      やあはじめまして。よい質問だ。

      いいかい、日頃も決断の連続なのだよ。だから認識を「逆転」させることだ。

      たとえば、何万人もの聴衆を前に舞台に立つ演奏家がいるとしよう。指先の繊細さでその演奏の良し悪しが決まる。

      だが演奏そのものは自宅でひとりでいるときも同じなのだ。ステージの彼はその状況に支配されずに、いつもどおりの「躍動」をここに露わにしようとする。それは自分という扉を開くこと、聴衆を前にして現れている自我を解放することなのだ。

      もし彼が「”自分”はここでうまく演奏しなければならない」とすれば、指先はカチコチになるだろう。

      つまりあなたが「社長の決断」としているのは、まるでテレビドラマ仕立てに重々しいBGMと、彩度を欠いた色調などの演出が混じり込んでいるだけであり、決断そのものは「今日はどの靴を履いて出かけようか」というのと変わらない。

      この手記が伝えているのは、そうした自己演出が個人性を作り出しているということだ。

      そのヴェールを取り払うとき、目の前に何があれ、ここにはただ豊かな流れだけがあることがみえてくる。私たちは現実世界という翻訳を通じて、いつもその豊かさとひとつになろうとしている。

      あなたが安らいでいるとき、純粋に楽しんでいるとき、それは目先の手段を通じて大きな流れとひとつになっている。

      幸せになろうとか、満たされたいとか、また誰かと会話しているときに、話を相手に聞いてもらおうとする意思であるとか、そうして何かと「つながる」こと、つまり「個」が溶け去ることを目的として私たちは各々の現実世界を生きているわけだ。

      だから人生の「本当の目的」とは、翻訳世界上での辻褄合わせではなく、翻訳を通じてその流れと調和するということにあるわけだね。

      表面的な意味性を解除すること、そして自然的存在である本来のあり方を見出すこと、それがこの手記でいうところの「無意味に生きる」となる。

      たとえば「指先の繊細さで演奏の良さが決まる」というのはつまり、私たちが真に心から良いと思うものとはすべて、翻訳世界が薄れてその背後の豊かな流れが透けてみえているということなのだ。

      芸術的な価値も、愛も、感謝も、何かに対して前向きになれる気持ちも、どれもそうだね。

      ところでこの手記もそうだけども、ある期間までの古い手記は、涅槃の書の以前のデザインに合わせるように書かれていたもので(マラルメの詩のように、単語ごとに大幅な空白を入れたり、同じ語調を繰り返したり、大文字や斜体を随所に加えたりして、視覚的にも表現していた)、ところがいまのシンプルなデザインにしたとき、そうした「演出」は取り払われてプレーンなテキストになったわけだが、今度はそれまでの装飾の名残がかえって読みづらくさせることになった。

      そこで古い手記は暇をみては読みやすくなるように手を加えている。多いのでなかなか追いつかないがね。

      なぜこんな話をしているのかといえば、こうしてシンプルに捉え直したときに現れる「余分な脂肪」こそが、まさに私たちの現実上での「恐れ」や「不安」の正体であるからだ。それが現実を重くしている。

      「”自分”であるために必要なもの」だとあなたはずっと思っていた。だけどもそんなもの、必要なかったんだよ。

  3. mitsubachi より:

    大変ご丁寧な返信を感謝致します。

    自分の価値観で、色眼鏡でものごとを捉えている。
    無意味で生きるとは、本来ならそれこそが本当は意味のあること。
    色眼鏡はいらない。本質を捉えるには、そこに自分なりの意味を見出さなくていいということ。

    ですが、それができるかな?(笑)

    古い手記に投稿してしまい申し訳ございませんでした。
    シンプルに…という自分さんの配慮に感謝申し上げます。

    • 涅槃の書-自分 より:

      mitsubachiさん

      こちらこそありがとう。

      >そこに自分なりの意味を見出さなくていいということ。

      自分なりの意味を見出さないと言うのではなく、日頃の自分が「ある縛られた考え」でものを見ているということに気づくからこそ、自分なりの意味を見出せるのだよ。

      私たちは必ず何らかの意味のなかにある。意味と自分は同時に現れている。言いかえれば、この現実に意味をみているからこそ、”己”はここに存在していることになる。

      だがこの話を理解するにあたって大事なのは、日頃から、いま自分が考えてることが「自分の考え」だと信じ込んでしまわないことにある。

      いま自分が持っている考えや価値観というのは「この現実に」与えられたものだ。よく言われるように人間は己が関わっている環境に支配される。それゆえ人間関係や仕事なりで不和や不調が生じているときは、その場から距離を置くことが一番の解決策となる。

      環境、すなわち現実そのものの「反映」が自分となる。つまりこの現実のほうこそが自分の正体だったとなるわけだね。

      部屋にある服や本や家具、いつも心のなかにある感情、日頃取り巻く人間関係、毎日の暮らし、それらはあなたと密着したものだろう。見慣れたそれらを指差して「これは私の持ち物です、これは私の暮らしです」と話す。

      「似た者同士が集まる」なんて言ったりするけども、それは実は逆であって、自分が関わっているその「似た者の世界」こそが、本当の自分そのものなのだ。

      こうしてまずは「大きな私」の存在に気づくこと。

      だから日頃の自分(小さな私)は、大きな私の反映をひたすら続けているにすぎない。つまりこの大きな私が「縛られた考え」の根源だというわけだ。

      だからいくら「小さな私」が思案したところで、大きな私という領域を超え出ることはできない。大きな私が変わらないことには、考え方もものの見方も、そして後述するように日々起きてくる出来事も変わらない。

      言いかえれば、エゴはエゴであることに気づけないということだ。これは「衝撃的なほどに」気づけない。それはエゴの”内側”にいるからだ。

      たとえば街を歩いているとき、電話でしゃべりながらヘコヘコお辞儀をしてたりする人を見かけたことがあるかもしれない。

      電話の相手は仕事の取引先だったりするのだろうけども、そうして少し離れた立場で見つめるとそれがいかに滑稽な様子であるかがわかる。

      どうしてお辞儀をする必要があるのだろう?

      目の前に相手がいるわけでもないのにね。だがそれはあなたには”みえない”だけで、「その人の世界」にはそこに相手が存在しているのだ。

      実際人間の誰もがその様子にある。不幸でもないことを不幸と思い込み、ある新しい何かを得たらその新鮮さゆえにこれこそが絶対のものだと思い込む。

      だけどもしばらくして別の価値観に染められたとき、どうしてあんなことに苦悩していたのだろうかとか、どうしてあんなものを至上にしていたのだろうかと疑問する。だがその時点でさえもまた、同じように「夢」のなかでそう考えているのだ。

      つまりどこまでいっても「夢」なのだと気づくこと。そして夢を見ていなければ、ここには「なにもない」ということを”知っていること”が肝要となる。

      「知っていること(気づいていること)」が大事なのだよ。

      己がどれほど崇高な考えに目覚めても、そうした考えに目覚めているという「夢」を見ていること、また瞑想やチャクラにしても、それをやろうとしている自分、やって何かを感じている自分もまた、夢のなかでそれを経験している。そしていまこの私の話を聞いていることもまた夢なのだ。

      毎晩眠っているなかで夢をみていないときがあるね。つまり熟睡しているときだ。

      意識は消失しているから、自分も世界も存在しない。それは言いかえれば、生も死もないということだ。

      この観点で「生も死もない」というとき、それは人間的な意味での生死の概念を超えているのであって、ただ永遠なるものだけがあることになる。

      空を見上げていて、雲がすべて去ったときに露わになる大空のようなもの、それは動かず、ただ深く広大で、そしてなにより「ただひとつ」だ。

      つまりその永遠なるものを背後にして私たちは夢をみているわけで、だから「大きな自分」に気づいているというのは、エゴの外側から見ている、すなわち、その永遠なるものを感得しているからこそとなる。

      悲しい経験をした人ほど、また逆に心が解放されるような嬉しさや喜び、また好きな人と過ごすときの満ちた愛に包まれた経験が多いほど、永遠なるものに近い場所にいる。つまり表面上の夢を絶対のものだとは「思っていない」という確信が心の深層に漂っている。そういう人は度々奇跡と遭遇したり、シンクロニシティも起こりやすい。また”望み”が実現しやすくなる。

      親しかった人、愛した人、温もりを与えてくれた人、守りたかった人、そんな人たちがみんな私の目の前で死んでいった。昨日まで笑いあってた人がもうこの世のどこを探してもいない。

      死が不可思議でそして奇妙に感じられるのは、それは相手がどこかへ行ってしまったからではなく、こちらの己が夢のなかにいるからであり、つまり死は究極的に己が夢の住人であることを知らしめているからにある。

      これは喜びや愛による自己解放もまた同じであり、よくいわれる「夢見心地」という言葉が示しているその一般的な意図は実際は”真逆”となる。現実こそが夢であり、夢から解き放たれるからこそ苦が消え去るのだ。ここで注意すべきは「夢そのものを眺められている別の場所」に立っているからこそ心地よいということにある。

      つまり「大きな私」の存在に「気づいている」ときに、大きな私そのものを書き換えることができるのだよ。書き換え方は様々な手記で話しているので参照してもらうとして、つまりそれは自分の生き方(考え方や価値観)が変わるということであり、そしてなにより「この現実そのもの」がごっそりと入れ替わることになる。

      日々起こる出来事も変わり、それまで固定されていた他者の本質が変わる。それまでの現実プログラムは解放され別の形態へと組み変わる。

      繰り返しておくけども、外の世界だけでなく己自身の考え方など内的ものも含めて「己の知っているこの世全体」が変わる。

      身近な例なら、たとえばあれだけ意地悪だと思っていた人が、実は裏ではとても親切な心を持っていたという出来事に遭遇したりする。もうその時点でその人の「意地悪だ」というレッテルは剥がされる。

      そのとき己はその人をどのような目でみているだろう? たとえ相変わらずな意地悪をしてきても、もう以前のような受け取りにはならないはずだ。よくある聖者の話で「石ころをパンに変えた」といったような魔法とはこのことにある。

      すべては主観的なもの、だけどもこの主観性とはこの手記の根底にあるように、客体が主体であること、すなわちこの現実が自分であること、さらにそこから逆説的に「自分の活動自体が客体的な対象として捉えられていること」にある。そうして己自身を客体化しているその主観性こそが魔法なのだ。だから「現実という夢」を明晰夢として眺めていることが「常に気づいている」となる。

      もちろん”現実上の光景”としては、以前の信念法則に引き戻されるかどうかの瀬戸際をまずは跨ぐことになるから、それをぴょんと飛び越えなければならない。前の返答の演奏家のようにね。

      そうして制限されていた可能性が解放される。「大きな絵に描かれている通り」の新しい現実が次々と起こるようになる。

      だから「意味を見出さない」というのがゴールではないというわけだ。むしろそれは、意味を見出さないという夢に閉じ込められていることになる。

      よって、いまここで思考している己が何者であるのかに気づいていること。気づいているだけでいいんだ。そうして気づいているならば、あなたは”すべて”を変えられるようになる。つまり「自分なりの意味世界」を創造できるようになる。

      >古い手記に投稿してしまい申し訳ございませんでした。

      いやいや、そうして古い手記に投稿してくれるほうが私もそれに気づけるので助かるよ。

      ありがとう。

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