自他のトリック

他者の目が気になってしまう
そんな話をよくきくね

そこに他人の目がある限り
いつもぎこちなくなる

ひとりでいるときも
どこか他人を気にしている
だからのびのびと物事にも励めない

批判されるのではないか
怒られるのではないか
笑われるのではないか

そんなことばかりを考えるから
外出の用意も時間がかかるし
きらびやかな街を歩いていても
美しい自然の光景があっても
己の目は何も見えていない

さてどうすれば
他者という鬼たちを気にせずに
自分の見たいものをみて
触れたいものを触れることが
できるようになるのだろう?

どうすれば他者たちと
真にわかり合うことができるのだろう?

もちろんあなたは純真に
そうでありたいと思っている
なのにできないわけだね

 

1.

それにはまず
「自分が生きている」ということを
実感することだ

そんな子供騙しは通用しないと
あなたはいうかもしれないが
この話はもっと深いものとなる

そもそも「生きてる」とは
「死んでいない」ということ

つまり停止していないということだ

それはわかるね

だがもっと厳密にいえば
生きるということは
「死に続ける」ということでもある

細胞にしても現実にしても
「次」へ進むためには
常に現在が消滅し続けなければならない

だから本当の意味で死ぬというのは
「死ぬのをやめる」ときとなる

奇妙だろう

死ぬのをやめたとき
はじめて死ぬのだから

だけどもこの奇妙さを感じられるところに
この世を解明するヒントがある

つまり「生」と「死」は
常にワンセットにあるだが

日頃考えている死とは
「生きている自分」が概念としてみている
単なる言葉のひとつでしかない

じゃあ本当の意味での死とは
なにかということだ

だから「自分が真に生きている」ことを
実感するには
死について学ばなければならない

死について学ぶほど
生で起こるあらゆる問題から解放される

 

2.

さてよく話すことだけども人類史上
未だかつて「自分が死んだ」
ということを知ったひとはいない

だがこれにはあるトリックが隠されている

たとえば親しかった人の死に目にあうとき
それは彼の人生ではなく
私の人生だったのだと気づく

その人の死を知っているのは
その人ではなく
この私であるからだ

彼の人生は私の知る限りのなかにある

あなたの勘がよければ
この時点ですでに
自他の克服がみえてきたかもしれないね

愛する人であれ嫌いな上司であれ
名も知らぬすれ違いの人であれ
つまりどのような他者であれ
彼らの生とはあなたの生なのだ

言いかえれば
その他者を気にしているというのは
「自分を気にしている」ということにある

わかるかい

あなたが他者について
別の見方するだけで

あなたは他者に自分がどう思われているのかを
気にしなくなる

すべてあなたのことであるからだ

 

3.

死についてもう少し話しておこう

死は必然的なものでありながら
同時に理解できないものだといえる

人が自分の死に向き会うとき
そのドラマは壮絶なものであり
まったく不可解な意味不明さがある

「死んだら自分はどうなるのか」
「どうなるのかと考えることさえないのか」
「だが考えることができないとは
いったいどういうことなのか」

だからそれが起こるということさえ
理解できない

まるで空想のなかの空想のようなもの
つかみどころのない何たるかであり
個人において自分の死とは
「事実としてありえない」わけだ

だが一般社会からすれば
死はよくある「実際の出来事」であり
むしろ日常において死は
平凡な出来事でさえある

市役所での死亡係は
他の係に並べられたひとつの係であり
出生や婚姻を届け出るように
そこでは単なる一部門でしかない

死は婚姻や離婚届と並んだ
引き出しのラベルでしかない

また法律や病院においては
死は当たり前の要素であり
料理に塩が不可欠なぐらいのものだ
死という原理がなければ
そもそも仕事をはじめることすらできない

人口が出生と死亡によって増減することは
小学生でも知っている周知の法則である
ここでは死は小学生のテスト範囲でもある

このように死はいたるところで
便利に使われている

共同社会を成り立たせる口裏を
合わせるために打ってつけな
共通の認識、共通の事実であるからだ

つまり社会において死はいかなる神秘もない

ところが明日の面接の
受け応えの練習はできるが
死はどのような練習もできない

それは死がどのようなものであるのか
誰も知らないからだ

つまりこれだけ平凡で当たり前の事実が
誰ひとり経験されたことさえないのである

 

4.

そうして誰もが再び考え始める

「だいたい自分が死んだら
残されたこの世はどうなるのか?」

「残された家族は?」

「やり残した仕事や
恥ずかしい秘密の日記はどうなる?」

という感じだね

確かに遺産や保険金受取り人の指定などで
「空想上の死後」を想定することはできる

だが「自分の遺産が相続される世界」は
本当に存在するのだろうか

もちろん自分以外の誰かが死んで
その後の葬儀やら諸手続きについては
見てきたことがあるだろう

だがそれはその死んだ彼の世界ではない
じゃあ彼の残された家族の世界?

いやそれも違う

その家族が死ぬことを知っているのは
」だからだ

つまり私の知る家族や友人や
テレビタレントたちなど
はそうした「すべての人々の人生」であり
彼らの死とその死後を知るのは
私以外にありえない

もちろんあるタレントの訃報を
テレビを前にして一緒にみていた友人はいる

だがその友人の死を知るのは
彼自身ではなく私なのである

つまりタレントの訃報をみたという
彼のその人生は
私の人生だったということだ

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