腕相撲

かなり昔のこと
雨の降っていた夜だった

ついていたテレビの番組を
覚えているから21時過ぎだった

妻と食事を終え
彼女は食器をかたづけていた

そうしてしばらくして
食卓で本を読んでいた私に話しかけた

ねえ、腕相撲しない?

私は彼女が何かそういう番組でも
みたのだろうと思っていた

だから特に理由も尋ねずに
いいよ、と軽く返事をして
エプロン姿のままの妻と
食卓のうえで手を握り合った

へえ、華奢なのに結構力があるんだな

そう思いながら
わざと負けそうなふりをしてあげたりして
笑いあっていた

当時の私は人生に打ちのめされていた
まさに綱渡りだった

外で関わる人々は
血の通っていない悪魔たちにみえ
いったいどこまで
私を食い尽くせば気がすむのだろうかと
じっと堪える毎日だった

毎朝、近所の幼稚園に描かれた
自分を分け与えるアンパンマンの絵が
常に私を混乱させていた

お金もなかった

それまでの人生の結果とはいえ
だがそれはまったく本望ではない世界を
無理やり選ばされてきたようなものだった

そうしていつも崖っぷちに立たされていた
生殺しにされているような人生だった

 

1.

そんなある日
妻が熱に倒れてしまった

彼女もパートに出ながら
一緒に生活を支えていた

一生懸命に頑張って
将来なんかどうにもならないことを
わかっていながらも
それでも健気にやっているというのに

内側にまで忍び込んでくる
仕打ちを私はただ呪うだけでしかなった

いったい何のために生まれてきたのか

私たち夫婦は
いったいどれほどの罪の代償を
払わなければならないのか

だが私たちが
いったい何をしたというのだろう

闇夜のような日々のなかで
時折与えられるささやかな幸せは
こうした不幸な事態をより重いものにする

どうせなら気休めのようなことなど
与えてくれなければよいのだ

ならばどんな不幸も
それで当たり前だと感じていられるのにと
そう思っていた

だから幸せが怖かった
いずれそれは不幸に転ずることを
なんども経験していたからだ

だが妻が熱で倒れた

私は大切なものを守るために
どんなこともやってきた

その大切なものにさえ
こうして手を伸ばしてくるのか

当時私は朝早い仕事を掛け持っていた
だけども辛そうな妻をおいて
眠るわけにはいかなかった

もしかしたら知らぬ間に眠ってしまい
仕事をすっぽかしてしまうかもしれない
そのような迷惑はかけられないし
また信用も失ってしまうだろう

だからどちらも大事なことだ
ただ私が耐えればよいことなのだ
こうした板挟みが幼少の頃からの
私の人生の常々の状態だった

誰が悪いということでもない
もちろんそれはわかっている

「なぜかこうなっている」のだ

だが年齢を重ねるごとに
人生の状況は過酷になっていく
もはや一歩の踏み外しも
許されないところにきていた

彼女の苦しそうな寝顔をみながら
己のやり場のないもどかしさを
「どうすることもできない」と悟ったとき
この世には心の拠り所など
どこにも存在しないことを思い知った

それは真っ暗闇の空間に
放り出されたような気持ちだった

 

2.

翌朝、どうにか仕事へ向かい
早く戻って看病をしなければと
泥汚れの作業服のまま
軽トラックを急がせていた

帰りにキャッシングでお金を調達して
薬局やスーパーで必要なものを買った

これでまた支払いが増えてしまう

でもこれで容態が
良くなってくれたらという思いと

焦りと不安と
かすかな希望と目を背けたい絶望と

ああ、

雨の日の車のなかで
私は自分の無力さに
泣き崩れてしまった

何もかもが許せなかった

まるで仕組まれたように
雁字搦めにされていく

愛する気持ちや
大切にする気持ちを
子供のころから
教え込まれてきたけども

そのおかげで
私はただボロボロになっていくだけだった

叫んだところで
ハンドルにぶつけたところで
そんなことをしてもどうにもならない

もちろんだ

そんなことはわかっている

だが人生で起こる問題は
いったいどう解決すればいいのだ?

自分が無力であるならば
どうして幸せになれるというのだろう?

私は地獄でも構わない
だが私の愛するすべては
誰が守ってくれるというのだろう?

左右に行き来するワイパーの音が
運転席の私の惑いを静めようとしていた

そのとき、同じあの雨の夜の
妻との腕相撲を思い出していた

 

3.

あの晩、私は妻に
負けたふりなどをして楽しんでいた

それが彼女からの申し出をもてなす
礼儀だと思っていた
私にとっての愛の表現だと思っていた

だから妻を気遣う自分の配慮は覚えている

だがどれだけ思い出そうとも
そのときの彼女の顔が思い出せない

私はなにをやっていたのだろう?
激しい雨音の車内で
大事なことを逃している自分が理解できなかった

あれほど大切な彼女のことを
思い出せないのだ

ただ、食卓で握りあったときに
ぐいぐいと伝わってきていた力が
まだ私の腕に残っていた

妻の筋力だといえばそうだ
だがそれは不思議なものだ

どうして彼女は力を生み出すことができるのか

その力とはなんだろう?
どこからやってくるのだろう?

そしてどうしていまも
この手はそれを覚えているのだろうか

あのとき彼女は唐突に
「腕相撲しない?」と言った

だが本当は何を私に
伝えようとしていたのだろうか
もちろん彼女自身に尋ねたところで
現実的な返事が返ってくるだけだろう

そうではなく
あの小さな夜の出来事を
「実現させた何かの力」があったのだ

妻という愛する者の姿を通じて
その力が私に何かを伝えていたのだ

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