人生から苦しみを取り除く

「人生苦しいです」とあなたはいうけども、だが24時間ずっと苦しんでいるわけではないだろう。

苦しいのは「自我」がひょっこり顔を出してるときだけなんだよ。

だから人生が苦しいのではない。

そのわかりやすい例として、以前に相談者の方へ回答した話を引いておこう。手記にあわせて加筆しているので相談者の方も再読してみてほしい。

でははじめよう。

 

──

昔テレビか何かで、アメリカかカナダかどこかの話だったが、慎ましく円満に暮らしていた夫婦がいて、近所からは平穏な家庭だと評判だった。

そんなある日、日頃仲良くしていた隣の一家が高額な宝くじに当選したらしい。

それを聞いた奥さんはノイローゼになってしまった。それまで満ち足りていたと思っていたが、お隣の高額当選を知ってから、自分は全然足りていないと思うようになったからだ。

お隣さんは車を買い替えて、家をリフォームして、いろんなところに家族で旅行に出掛けては、そのお土産をわざわざ持ってくる。

とても楽しそうにやってる。だがそれを見聞きする度に奥さんは心のバランスを崩していく。そればかりか「きっと来月はあんなことをするんだ」とかそんな妄想からも心は大きな傷を負っていく。

ありがちな話だね、だがいまの社会ではこれが普通の状況であって、つまりあなたもこの奥さんとまったく同じ様子で暮らしているんだ。

 

たとえばネットを眺めていれば、さほど苦労もせず豪華な暮らしをしている人がいたり、どうしてこんなに綺麗なの?という人がいたりするだろう。

それをみた瞬間にあなたの心に過ぎるものはなんだろうか。

たしかに「成金だろうし長くは続かないだろう」とか「いい写りを載せてるだけだ、大体こうしてアピールすること自体に心が足りてないんだろう」みたいに自分の反発心を正論化して納得したりもするだろう。

だけどもそれは事後的なものであって、それをみた瞬間にぐらっと浮かんだのは「足りてない自分」であるはずだ。

そのネットの人物に対する直接的な感情ではないとしても、それまで身を潜めていた「足りない自分」が姿を現して、さまざまな不足点やコンプレックス、これまでの後悔などが呼び覚まされる。

それは「どうして自分はこうなのだろう」と後ろ向きになることだけでなく「前から欲しかったあれさえあれば満たされるはず」と前向きに沸き立つこともそう、むしろ”それゆえ”に「満たされている人」に対して無自覚ながらも心の反発が起こるわけで、だから素直に祝福する気持ちになれないんだ。

 

それはあなたの心がもともと欲深くていやしい性格だったというわけではない。

そうではなく、いまの社会はそうして「足りてない自分」を人々に感じ続けさせることで、それが原動力となって維持されていることが要因にある。

流行やメディアを通じて「これがあればもっと綺麗になりますよ」とか「これが家庭に一台あれば便利ですよ」「これであなたも一目置かれますよ」といった具合だね。

もっといえば「こうでなければ一人前ではない」みたいな、いわゆる「まともな人間の基準」さえもその時々で作られているものにすぎない。

ゆえに「大手に就職して結婚してマイホームを持って」みたいな”他人が作った人生”を誰もが歩み始めてしまう。

それが悪いといってるわけではないよ。それこそが時代の豊かさでもあるからね。むしろ経済はそれで安定して回っているわけで、その安定に乗り続けているならば「豊かさそのもの」は枯渇しないだろう。

だけどもそうしたすべてが他人に作られた価値観だと気づかず「私は自分の意思でこれを選んだ」と思い込んでいるならば、いくら豊かさに取り囲まれていても、心は満たされないだろうし、さらには「まともな基準」を保とうとして、不安や恐ればかりに見舞われているようになる。

そしてその不安な心をなにかで埋めようとするが、手を伸ばしたものによってまた「足りない自分」が出現し続けるというカラクリにある。

こうして社会は人々の不安定さを糧にしている。「七転び八起き」のごとく、人は不足をバネにしてどんどん前へと進んでいく。そうした人々の集まりが、もうすでに必要なものは行き渡ってしまい、あとは本当はありもしない欲望を本当にあるかのように喚起させていくしかない、そんないまの経済社会の源にある。

実際、現代の人々が働く先もそうした「足りてない自分」を人々に与えるための職種が大半だろう。素敵な商品やサービスを宣伝に乗せて提供するわけだからね。

 

ところで、この「足りない感覚」というのは大人になってから生まれたものではない。幼少時から”根源的”に染み付いてきたものであるから、経済主体のなかに生きている私たちは「足りない自分」をなかなか跳ね返すことができない。

たとえば学校がそうだね。偏差値というのは、集団の中で自分がどの位置にいるかを知るための基準だけども、つまり生徒たちの相互作用においてその都度繰り返し構成される幻想にある。

この幻想内部においては、自分が上位にいるのであれ、中間層にいるのであれ、常に頑張らなければ「いま立っている足場が崩れる」という不安を与え続けるわけで、まさに「足りてない自分」を感じさせるのに打って付けのシステムにある。

たしかに向上心など精神的な成長を養う要素はあるけども、ところが大半の人はそれが裏目に出て、不安や恐れのほうが染みついてしまい、結局のところ日本全土に不幸の土台を生み出している根源になっているともいえる。その意味で、偏差値とは別の、つまり偏差値そのものに関する教育(己が枠組みのなかにいると”知るため”の教育)が必要だといえる。日本では難しいかもしれないがね。

これは偏差値だけではなく、たとえば勧善懲悪をテーマにしたアニメもそうだ。そこで備わる「正義感」というのは本当に善なのだろうか?

幼少時に養われたその「己の正義」において、どこにいっても常に自分と意見の合わない”敵”を生み出してしまい、さらにはそれを制裁しなければならないという”義務”を生み出すことになっていないだろうか、そしてその染み付いた義務感によって己自身いつも落ち着かずに苦しんでいないだろうか、ということだね。

つまりどんな他人にであれ、本当は「そんなこと」を思う必要などなかったんだ。

しかし子どものころに読んだ漫画の、単にその作家が締め切りに間に合わせるために創作した筋立てプロットがまさに「この世の真理」のようにセットされ、以降の人生において、己の正義にそぐわない相手をみるために「そう思わずにはいられない」ことになる。

それは結局のところ敵視する相手と出会うたびに、己はその相手の人生を生きているだけであり、やがて振り返ってみれば、自分自身の人生を一度も生きていなかったことに気づく。もちろん当時のあなたはその”つもり”ではいたんだがね。

 

だから上のノイローゼになった奥さんの話に戻してみれば、彼女は本当に「足りない」のだろうか?

そうではないね。

囚われている自分を離れて世界を再びゼロから捉え直してみたら、つまり他人の人生を生きるのではなく、自分自身の人生に再び歩みを戻してみれば、「足りる・足りない」は比較によるものであることがわかる。つまり表面的な次元を離れてみれば、ずっと満ち足りていることに気づくんだ。

そう、それこそが宝くじの話を聞く以前にあった、奥さんの穏やかな暮らしそのものだった。

そうして彼女が人生を取り戻したとき、お隣さんを心から祝福することができる。なぜならお隣さんの幸福は彼女の人生のなかにあるからだ。

──

 

というわけで、自我というのは「あれが欲しいのに手に入らない」とか「この憎しみを晴らしたい」「不安を解消したい」といった感じで「心が満ち足りていない」という意識の形態のひとつにある。

つまり不満足や憎悪、不安、恐れなど、そうしたマイナスな感情を抱えているわけだが、ところが自我そのものは、自らでその苦しみを解決することは決してできない。

なぜなら自我が生じているとき、それはその求めるものも”同時”に出現しているわけであって、いわば表裏の面がある1枚のコインが現れているようなものにあるからだ。

つまり自我がどれだけ裏面に手を伸ばしても、くるりと反転して、それはいつまでも手に入らないわけでね、だからコインがそうであるように「自我」と「足りない気分」はそれでワンセットにある。

ゆえに24時間のなかで「苦しんでいないとき」というのは、自我が裏面に手を伸ばせたからではなく、自我コインそのものが存在していないときなんだ。

苦しんでいないとき、あなたの心は満たされようとも求めようとも思っていない。つまりコインは生じていない。

だからこそ「はじめから満たされている」のであって、ここに充実した人生を歩む秘訣がある。

それはとても単純なこと、すなわち、

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