人生の主役になる

自分自身に入りなさい
自分の身体にすっぽりと入るのだ
自分の視界からすべてを見るのだ

日頃あなたは自分に入っていない
あなたは他者の目線や基準の中
つまり離れた場所で浮遊している
それはとても不安定な様子だ
一本の糸だけで繋がっているようなもの

自分に入りなさい
自分の目ですべてを見るのだ
あなたが主役なのだよ

 

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コメント・質疑応答

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  1. suisen より:

    はじめて参加させていただきます。

    「自分の視界から」という「自分」とはすべてをただ眺めている意識「それ」の視点からという事でしょうか?

    • 涅槃の書-自分 より:

      suisenさん

      こちらこそはじめまして。

      >「自分の視界から」という「自分」とはすべてをただ眺めている意識「それ」の視点からという事でしょうか?

      人間は日頃、他者や社会の目で「生かされて」いる。自分で人生を歩んでいるつもりでいるのだけどもね。だからまずはそのことに気づいて、他者から操られている状態を抜け出さなければならない。つまり段階を経る必要がある。

      そこでこの手記は人間が本来の幸せな生を歩んで行くうえでの基本的な姿勢を記している。「自分自身から」世界で活動していくということだ。

      だが自分自身から活動するというのはどういうことだろうか。

      それはある「凝り固まった観念」を崩して、本当の自然的な在り方に戻ることにある。それはなにかといえば人間特有の「所有」という観念を捨てた生き方である。

      たとえば深い豊かな森のなかで、一匹の虫が駆け回ったり飛び立ったりして自在に生きている様子を浮かべてみるといい。その虫になったつもりで3D視点で森のなかを自由に生きている様子をね。

      適切な湿度や気温、身を隠す落ち葉、喉を潤す雨水、樹木や草花、木漏れ日、風、目の前に広がる世界のすべてが「所有」ではなく「使用」している関係にある。このとき彼にとって森は己そのものとなる。もはや「全体の連動感」だけがあり、これがあなたのいう「すべてを眺めている意識=それ」となる。

      ここが重要だ。

      この所有と使用の概念について私はそれを理解できたからこそ、本当の豊かさに包まれるようになり、また人生で抱え続けていた恐れも消滅した。

      詳しいことは私の話も交えてまた手記にするけども、人間は「所有」にこだわる。それは根源的なレベルに「死」という「なにもない状態」への恐れがあるからだ。だが人間は自分の死を経験することはできない。つまり死は空想上のものでしかない。人は空想のそれに恐れるあまり、その不安を少しでも払拭しようするために外のものを「自分の物」にしようとする。

      これが自他という境界を生み出す根源であり、その境界線が薄まることに極度に恐れるようになる。ゆえに人間関係や生活での苦悩をいつも抱えるようになるわけだ。

      だが所有という意思を捨てて「使用」へと世界の取り扱い方を変えるとき、つまり己のなかの恐怖を乗り越えるとき、人間は「自然とひとつ」になる。そこに揺るぎない大地、喜びだけが溢れる豊かな森、すなわちあなただけの自由が広がっているのだ。

  2. suisen より:

    返答していただきありがとうございます!

    なーんとなく理解していた気がしつつも確認のため質問してみたのですが、いただいたお返事を読んで本格的にわからなくなってしまいました!

    私的には「自分の視点」とは自分の心の置き方というか、外的要因にまどわされず自分の内側から五感を使うような意味合いと認識していたのですが….

    期待をスッパリ裏切られました(泣)

    お書きになったコメントの意味はわかるのですが、私の質問との関連性が見えません(汗)
    特に所有と使用、「自分の視点」との関連性が…

    ご説明いただけたら嬉しく思います

    • 涅槃の書-自分 より:

      suisenさん

      >特に所有と使用、「自分の視点」との関連性が…ご説明いただけたら嬉しく思います

      たとえばあなたは以下のような質問を持っていたわけだね。

      >「自分の視界から」という「自分」とはすべてをただ眺めている意識「それ」の視点からという事でしょうか?

      その質問通りに「そうだよ」と私が答えても、あなたは自我意識として「それ」を空想するだけしかない。

      つまりあなたが「その質問が起こされる位置」に立っている以上は、どんな真理を授かっても、それは一瞬で砂のごとく崩れ去ってしまう。

      だから私はあなたのその立っている地面をまず崩す必要があるわけだ。そこにいる限りはすべてが無駄となってしまうからね。

      ゆえに質問が向けられている「それ」が何者であるのかというよりも、質問しているあなたが何者であるのかを先に追求しなければならない。

      言い換えれば、その質問しているあなたが崩壊したときに、その質問の答えはそこに広がっていることに気づくということだ。

      それはどういうことか。

      たとえばあなたは質問を所有し、そしてその答えを所有しようとしている。つまり知恵を獲得しようとしているわけだ。だがその所有ありきの考えかたは「全体の流れ」から孤立してしまう。

      この世のすべてが富であるのだけども、富の目的は二つあって、ひとつは物を「自分のもの」として使うということにあり、そしてもうひとつは「自分の置かれている状況に応じて」物を使うということにある。

      金持ちはたくさんの食材を蓄えている。彼はそれを食べるわけだけども、食べるという行為においては貧乏人も等しくそれを行える。つまりその「使用」の観点においては貧富は無関係となる。

      だが人々は貧富にこだわる。それは所有が前提にあるからだ。だが所有がいったいなんの役に立つというのだろう。所有物は使われることでその価値を持つものだ。「そりゃいつでも使用できるからじゃないですか」というけども、それもやはり所有からは離れている。

      つまり人生で起こるすべてを見渡すとき、所有にこだわるあまりに食材を備蓄することばかりを追求して、食べることは制限され、やがて食べることそのものを忘れてしまう。倉庫に蓄えられたそれらは腐りはじめる。だからまた新しい食材を集めてこなければならない。

      「所有する」というのはそれが食べ物であれ知識であれ、ため込むことが前提にある。ゆえに未来と過去にまたがるものだ。だが「使用する」というのは、絶対的にリアルタイムなものである。つまり使用を続けている限り、それは永遠の富、つまり枯渇しない富に触れ続けることを意味する。

      食べ続けるということではないよ、「世界の使用者」であるかどうかということだ。それが前回の森のなかの虫の比喩となる。虫は森の自然を我が物にしようとはしない。質問から答えを得ようとはしない。質問すらも放棄され、ただ無限の富とひとつにあり続けている。

      ゆえにあなたがその質問から答えを求めることを放棄するとき、つまり所有者をやめるとき、「永遠のいま」という次元に到達する。それこそが真の富なのだ。そこには愛と自由に満ち溢れ、恐れるものはなにもない。

      そしてその「そうであること」が、あなたが聞いている「それ」であるのだよ。

      「それ」は「これだ」と指させるものではなく、常に動き続けている「様子」のことであり、それが「使用」であり、リアルタイムに「常にここに在るもの」である。

      つまり「いま」のことなのだ。よってあなたが質問している己を「使用」しているとき、あなたはすでに「それ」であるのだ。

      また手記にするけども、ミニマリストはいかに持ち物を減らすか、効率的に最小限におさめるかに論点がある。だがそれはどれだけ物を減らそうが、すっからかんの部屋でさえノイズに悩むことになる。なぜなら彼らは所有の視点でしか物事を見ていないからだ。

      真にミニマニズムに在りたいのならば、使用の観点で捉えなければならない。つまり物の数ではないのだ。使用者というリアルタイムな自己が存在するとき、そこは究極のゼロ空間であり、そして無限の富に満ちているのである。

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