意識を向けたものが次々と生み出されている

矛盾こそが「それ」の境地である
あなたの思考では矛盾は理解できない
それは出会うべきもの
体験すべきものなのだ

例えば街で多くの人とすれ違う
あなたの知っている人ではない限り
知らない人ばかりだろう

では聞くが、なぜ知らないということを
知っているのだい?

あなたは
「知らないということを知っている」のだ
これが何を意味するか感じ取ってみなさい

あなたが調べ物をしていたとする
インターネットなり書店なり
片っ端から調べていく
すると調べ物が見つかる

ここにも矛盾が香っている

なぜ調べ物をしたのかということだ
「それはこういう経緯で調べることになった」
そういうだろう

だがその経緯すら調べ物なのだよ

あなたが調べれば
いくらでもそのレスポンスが返ってくる
有用性がなくても
調べたことに対する何かがそこにある

その何かはずっとそこにあったのだ
あなたの調べるという行為
それはそこに意識を向けたということ

あなたは無限の充満性の中にいる
正しくは「いる」のではなく
あなたがその充満性なのだ

だから「知らないということを知っている」という
矛盾が生まれる

物事を点から点へと直線的にしか
捉えられない「思考」はこれが理解できない
つまり思考では
「理解したつもり」が限度なのだ

夢の中で知らない人々が出てくることはあるかね
まったく知らない人と普通に交友している
目覚めた時にあなたは思う
あれは誰だったのだろうか、と

いいかい「知る」や「知らない」は
思考が与えたレッテルのことだ
つまり経緯や理由を前提とした「見方」だ

そこに椅子があるならば
思考は「椅子」と判断しなければ
それが何なのか捉えることができない

だけども椅子と判断しなくても
その何かはそこにあったはずだ
問題はその判断する前は何であったかだ
判断は分離を生む

家族の顔を見なさい
彼らを知らない人と思い込んで見なさい
するとあなたは不思議な感覚になる
それは誰かね
それとも誰ともなく、人というものでもない
ただひとつの何かが
あっただけなのではないのかね

手をよくご覧なさい
あなたは手と思い込んでいるが
その5本の指
物を持つということに妙に都合の良い形状
「手」の中に意識を向けるほど
その奇妙で異質な感覚が沸き起こってくる

あなたは「手」としているが
それは一体何なのだろう?

手が何かを握っている光景
それは手と何かではなく
それらがひとつのものではないのかね?

思考を超えた向こう側に
あなたという充満性がある
夢の中の世界はあなたが紡ぎ出しているのだ
あなたの意識が次々とヴィジョンを創り出している

あなたが現実と思っているその世界も
あなたが魔法のように描き出しているのだよ

それは「調べ物」が見つかるのと
同じようにね

 


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