いじめ、人間関係を超越して自由になる

先日コメントとして書いたものだが
手記として残しておくよ

人間関係の問題は年齢を問わず
普遍のテーマだ
本当の意味は後述するが
サルトルが「地獄とは他者だ」
と言ったように、

学校や社内
近所付き合い
親族間
人間が絡むところには
大小なりのネガティブが潜んでいる

あなたが人間関係で面倒な状況にあるなら
以下を理解すればすべての問題は抹消される
これを子供たちに伝えるのもいいだろう

ただし注意点がある

自分自身でこれを悟るには問題はない
その通りに理解すればいい

だがあなたが知った話を
子供なり別の誰かに伝えるときは
言い聞かせるようなやり方はしてはならない
あなたが苦しむことになる

 

自分でそうしている

さて前提にあるのはいつもの通り

「あなたがそうならばそうである」

これは人生の秘密を解く一番巨大な鍵となる
他人や社会があなたに対してどうであれ、

あなたが楽しければ楽しいのだ
あなたが悲しければ悲しいのだ
あなたが疑問ならばそれは疑問であり
あなたが地獄ならばそこは地獄である

つまり「あなたの世界」はあなたしか知らない
あなたの世界観がそこに現実として起きており
あなたはその中で生きている

例えば同じ料理を食べても
あなたと私ではすべてが違う

あなたが料理について感想を述べる
私が料理について感想を述べる

だがそれは各々が
「自分の話」をしているだけであり
料理そのものについて語ることはできない

これを人間関係に置き換えてみれば
他人があなたに何かを言うことはできない、
すなわち、あなたに影響を与えることは
できないということがわかる

でももしあなたが誰かの言葉に嫌な気分になったら
それは「自分が自分でそうしている」だけなのだよ

わかるかね?
繰り返しておこう

誰かがあなたに話をする
だが彼は「自分の話」をしているだけだ
あなたはまったく関係がない

だからその関係のない話に
あなたが影響をされたとするならば
自分でそうしているのだよ

状況を思い出してごらん
毎回自分の中でフツフツとやってるはずだ

想像力が膨らんで身体にまで影響を与えていく
「想像力」についてはまた別の手記で書くが
そのパワーはすさまじい

男性ならばわかるだろうが
性的な興奮とは想像力からスタートする
刺激だけでは勃起しない
また、不安を想像しただけで
呼吸や動悸が速くなるし
手足を震え出すことも可能だ
これは魔法そのものである

誰かが「自分の話」をしているのに
あなたは想像力を用いて嫌な気分に浸るわけだ
あなたも自分の枠を出ることはなく
自分の世界を自分で「嫌なもの」にペイントする
相手に塗られたのではない
それは不可能だ
すべて自分で塗り込んでいるのだ

もはや「料理」や「他者」も
そこにはないことがわかるだろうか?
あるのは「あなたの話」だけだ

だから人生を楽しいものにするか
不幸にするかは
単にあなたの責任となる

人間関係で嫌な気分になっているとき
それは自分でそうしているのだと
気が付くことだよ

 

誰もが”独り会話”をしている

もう少し話を深めよう

相手は”自分の中のあなたの話”を
“自分の中のあなた”にその話をしている

これは普段の会話でもいいが
話をしている相手をよく観察してみればいい
会話に夢中になっている相手に
こんな疑問を浮かべなさい

「いったいこの人は誰に話をしているのだろう?」

会話とは相手が目の前にいても”自己完結”する
話終えてDone、話終えてDone
その繰り返し

相手に話しているつもりでいるが
実際はそうじゃない
ひとりで延々と話している
つまり自分に向けて話をしているのだ
自分の中では相手を浮かべているが
相手そのものではない

考えてみればわかるが
そうでないと「会話」はできないのだよ
誰もが自分自身に話しかけている
それ以外に「会話」をする方法はない

2人が顔を合わせて会話をしているのに
相手そのものは両者には必要ないのだ

もっと解いてみよう

誰かとの会話中にこう自問しなさい
「いったい私は誰と話をしているのだろう?」

あなたは”対象”に対して何かができる
いつもそうしてきた
見えるものがあれば見えるし
聞こえるものがあれば聞こえた

だがそもそも
その”対象”とはなんなのだろう?

そこに白いコップがあれば
白いコップというあなたの認識ゆえに
白いコップを見ているのだ
白いコップというあなたの見解は
あなたの世界ではその通りだが
本当はどんな姿をしているのだろう?

それはあなたには決してわからない
白いコップとしている以上
それはそうなのだ

これは”他者”も同じ
「あなたの中のその人」となる
だからあなたが他者と会話をするとき
非常に滑稽な様子が起きている

ありもしない相手に
その「ありもしない相手の話」をしている
ずっと独り言を繰り返しているのだ

白いコップならいい
コップは返答しないからね
白いコップは本当は違う姿でも
あなたの一方的な受け取りだけでいい
真実は葬られる

だが対象が人間となればミステリアスだ

相手は「自分の話」を自分の中でしているのに
あなたは「私に言っている」としてそれに返答する
返答しているときのあなたも相手と同じく
自分の中で「自分の話」を繰り返す

奇妙な光景が起きている

2人が対面しているが
それぞれが独り言を続けている
話終えてDone、話終えてDone
いったい何を納得し続けているのだろう
互いに「自分の中の相手」を作り上げ
演説を続けている

これはつまり他者は実在しないということ
「あなたの他者」がそのように見えているだけで
そこには誰もいないのだよ

だから人生がハッピーだろうがダークだろうが
世界に影響を受けてそうなるのではなく
すべてあなたが自分でそのようにしているのである

そこに気が付きなさい
あなたはあなたの中にいるのだ

魅力的な異性がそこに歩いていて
あなたは目を奪われるとする
だがそれは異性があなたを惹き付けたのではない
何度も言っているように
他者はあなたに影響を与えることはできない

あなたを惹き付けたのではなく
あなたが惹き付いたのだ

誰かがあなたに意見をする
その話を聞いてあなたが頭にきたとき
その誰かがあなたをそうさせたのではない
あなたが自分でそうしたのだ

このトリックを見破るとき
あなたは他人から自由になる

サルトルが言った言葉とは
他者が地獄という場所なのではなく
他者に自分を合わせてしまうことが
地獄なのだということだ

その他者とは実在せず
すべてあなたの作り出した幻想なのだ

 

誰かに伝える

子どもたちに対するアドバイスだが
いかにして「あなたは自分の世界を見ている」
ということを伝えられるかどうかだ

注意しなければならないのは
あなたが聞かせる時点で
「我が子に我が子の話」をしているつもりが
「自分の話を自分にしている」オチになることだ

それを見破らない限り
いくら話を続けようとも
エゴにしかならない
あなたが苦しむ結果となる

つまり、子どもに伝える前に
あなたが最も重要なことに気付かなくてはならない

私が「愛する妻も幻想だ」と日頃記しているように
あなたの愛するお子さんも
あなたの心が生み出した幻想なのだ

その理解の上で
タスクを進める必要がある

幻想が現実を作っている──

棒で頭を殴れば痛い、というのも幻想のひとつ
いずれ死というイベントを通じて夢からは覚める
すべての幻想は消え去る

だから幻想を見ている間は
そのメカニズムを理解して
ポジティブなものへ変換していくことが
今世でのあなたのたったひとつの仕事となる

ダンサーインザダークのような名画もあるが
私としては「天使にラブソングを」の世界の方が
好ましいからね

少しアプローチを変えてみよう

誰かが徒党を組んであなたのことを
笑っていたとしても
彼らが笑っているだけで
あなたが笑っているのではない

そこで起きている世界に
わざわざ同調する必要はないということだ
つまり”自分が主体にあるかどうか”を
常に意識することが重要課題となる

この見解では
「私が笑っているのではない」という箇所で
意識が自分に向いている
光が内側に灯されている

いじめに限らず
人間関係がネガティブになる原因は”無明”だ
つまり意識が外に向いてしまい
あなたの中が真っ暗闇となっているときの状態
あれよあれよと世間に翻弄され
すべてが理不尽に思え
すべての人間が自分勝手で横暴な悪夢に映りだす
これがサルトルの地獄だ

自分でそのようにしているからそうなるのだが
ことの発端は”無明”からきている

仏陀も伝記の中で無明のときが残されている
彼は基本的に思考的な人だった
だから時代を超え多くの人に愛された
無明がなんであるかを知っているからだ

闇がなければ
光が灯っている様子を悟れないし語れない
最初から悟って生まれてくる人はいない
それは生まれてくることそのものに反するからだ
逆にいえば
死は光明であるといえる

ここまで書けば勘付いているだろうが
幻想、すなわち現実そのものが無明を意味する
だから世の中にありながら
それに翻弄されない状態が悟りなのだ

あなたが子どもに教えるとするならば
「意識の向き」を伝えてあげることだ
常に自分に向けるということ

そして

すべては自分の中の幻想を見ているということ
誰もがそうだということ
世界を幸せに思えるようにできるのは
自分しかいないということ

どんな異性があらわれても
どんなカッコイイ車が登場しても
それらが自分に花を咲かせるのではなく
自分の思いが花を咲かせるということ

つまりすべて自分の見方だということだ
視点変化による見え方の話ではだめだ
それは単なる努力や克服になってしまう

克服するものなどないのだよ
そこに壁があるように見えるのは
自分がそう見ているからだ

人々があなたに影響を与えることはできない
あなたが自分で影響を作っているだけなのだ

自分の内側に光を灯すことができたならば
どんな相手も社会も
あなたを惑わすことはできなくなる
つまりあなた自身が惑いを作り出さない
良いことをしても悪いことをしても
それはただそれをしただけであり
何の意味も持たなくなる
本当の自由を知る

社会の中でこのような教えは
当人にとって逃避になるかもしれない
だが逃げても
どれだけ逃げても
それは己の世界の中であること
それをいかに伝えられるかだ

生きている限り
ずっと自分の中にいる

それをあなたのお子さんという姿の
あなた自身に伝えなさい

 


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  1. より:

    暴力を振るう人間は自分の中の相手のイメージを殴っているのですね。
    しかし、悪口と違って、ナイフで 刺されると物理的に被害が出ますね。気にしないことはできるでしょうが。
    焼き討ちにあった快川和尚も気にしない上に物理的にも燃えなければ最強でしたがね。

    • 自分 -涅槃- より:

      鯤さん

      暴力やナイフで傷付けてくるのは誰かね?
      そして傷付くのは誰だろう?

      そこに気が付けば
      あなたは暴力やナイフで傷付くことが
      あなたが求めない限り起こらないのだよ

      リンゴをかじること

      それと同じ

  2. M子 より:

    自分さん、現象は私の映し鏡だということは今までも頭ではわかっていたのですが、今回戊ログを読ませていただいて深いところで腑に落ちました。
    でも、それから逆に減少現象としての現実世界での出来事が混乱したような出来事が起こっています。
    ただ、今までと違い私自身の何かが静かなのでぶれない場所があるのですが、それでも、今までの染み付いた考え方のパターンが起こり、考えに集中してしまったり、ハッと気がついて静かになったりを行ったり来たりしています。
    今までのパターンが話し続けている時は、ただ、聞いているだけでいいのですか。
    何か、ソワソワと落ち着かず、胸のあたりがむずがゆい感じです。
    今までよりも鮮明に頭の喋り声が聞こえて今までよりも吸引力が強いように感じます。で、頭痛もします。
    ただ、もう誰のせいでもないということだけは腹の底で分りました。
    アドバイスをください。

    • 自分 -涅槃- より:

      M子さん

      あなたが内奥の存在に意識を向けるとき
      マインドのざわめきは大きくなる

      大きくなるというよりも
      もともとそれぐらいのノイズだったのだよ

      スマホでもいいが
      音声を録音できる機械を持ち歩きなさい
      そしてどんな小さなことでも
      脳裏に過ぎったことを
      すべて口に出して録音してみたらいい

      後で聴けばわかる
      24時間、あなたは思考という轟音の中にいた

      轟音そのものだったから
      それがうるさいかどうかも気付かなかったのだ

      いまはその背景に意識が向いている
      だからその異常さがわかるのだよ

      いまは気になって仕方ないだろうが
      いずれただの過ぎていくものとして
      眺めるようになる

      覚えておきなさい
      そのノイズがあなたを捉えていたのだ
      あなたの見ている全て
      あなたが自分だと思っている全ては
      まったくの嘘っぱちだったのだよ

      いつも静かでありなさい

      静かであろうとする姿勢が
      その場所をさらに広げてくれるだろう

    • M子 より:

      自分さん、ホントにありがとうございます。
      思考の録音をしてみます。
      涅槃の書を教えてくれた友人と、涅槃の書と、この縁に感謝です。

    • 自分 -涅槃- より:

      M子さん

      いずれわかるが
      その友人もこのブログも
      全部あなただ

      あなたが見るものは
      すべてあなたなのだよ

      色々な経験をさせてくれている

      だから自分を愛してあげなさい
      自分自身に感謝を贈りなさい

      >「自分さん、ホントにありがとうございます。」
      それでいい
      それが最高だ

  3. より:

    例えば、仕事で、「ちょっと自分の実力では対応が無理だな」思うミッションに際しては、何故か、土壇場で、余りに都合よく先方からキャンセルが入って、やる必要がなくなったりする現象が、日常的にあります。

    逆に言えば、そのようにして、いつもの日常が展開されます。
    いつもの日常や自分自身の継続を望んでいる限り、必ずそうなるように世界が展開しているかのようです。

    • 自分 -涅槃- より:

      鯤さん
      そのコメントの通りだ

      さらに、そのコメントをトータルに捉えてみなさい

      ひとつの塊として見るとき
      時系や関連性、運や流れ、
      そういったセオリーは崩壊し
      ただそうだったという、当たり前のことになる

      その出来事があったのだろう
      だが思い出して書いているから
      バラバラの出来事のようでありながら
      集合という単体であることは理解に容易い

      その視点をいまに向けてみなさい

      すべてはあなたというパッケージであることが
      わかる
      時間は過ぎていないし
      恐ることはなにもない

  4. 普通さん より:

    「無明のとき」ですかね。無名と又、変換ミスしそうになりました。
    「虚しい」

    • 普通さん より:

      ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9D%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%82%92%E6%AC%B2%E3%81%95%E3%81%B0%E3%80%81%E6%88%A6%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%82%99%E3%81%88%E3%82%92%E3%81%9B%E3%82%88

      少しゆっくり休みたいが本音。

    • 普通さん より:

      ttp://www.t3.rim.or.jp/~kyamada1/wagakami.html
      イエスの十字架への歩み

      こんなの読むと「あんまりでないか?」ひどすぎないか?とか。
      問いは山ほどでても納得がいかない。だから宗教は嫌いですね。
      涙でてくる。

  5. openarms より:

    >それをあなたのお子さんという姿の
    あなた自身に伝えなさい

    子供達にやっとの思いで何かを伝えても、本当は何も伝わらず、結局自分に言ってるだけじゃないかと思う時があります。相手が理解してもらえないとかのレベルではありません。それは誰に対しても同じです。
    夢と現実の違いが何かと考えたりすると、現実は完璧すぎる物質が広がっているだけで、さほど変わりがないと感じてきているものの、それがあまりにも完璧すぎるがゆえに、それが未だ認められない疑問が残ります。揺れる木々、肌に染み渡る冷たい風、夜空の星達…あまりにも完璧すぎます。
    この自分の中の世界は自分一人で創造しているのでしょうか?愛する人も子供達も優しく手を差し伸べてくれた人々も全部自分が創造したものなのでしょうか?
    歩いている人達、ここにコメントされている方々、そしてあなた様も、私自身が創造し私が問いかけ私が答えているのでしょうか?
    だとしたらとても寂しすぎます…それでも認めないといけないのでしょうか?
    せめて、個々の肉体も含める物質など存在せず、個々のエネルギー又は思考だけでも存在しないのでしょうか?

    • 涅槃の書-自分 より:

      openarmsさん

      やあ、はじめまして。

      あなたが質問していることへの返答が、涅槃の書のすべての手記、そしてすべてのコメントで私が返信している内容となる。

      だからまずはじっくり読み進めてみることだ。

      理解できないものがあっても構わず進めていくといい。後で同じ手記を読み返したときに「理解できている」ようになる。

      そうして理解が開いていくプロセスこそが、閉じ込められているあなたが手にする「鍵」となる。

      たとえばあなたのメッセージはとても美しい。

      >それがあまりにも完璧すぎるがゆえに、それが未だ認められない疑問が残ります。揺れる木々、肌に染み渡る冷たい風、夜空の星達…あまりにも完璧すぎます。

      その「あまりにも完璧すぎる」というあなたの世界、つまりあなたがそのように美しい感嘆を語ることのできる世界とはなんだろうか。

      >それでも認めないといけないのでしょうか?

      認めるというより、あなたが「己の世界に対する”誤解”を解く」ということにある。

      だがあなたが「己の世界」を”完璧すぎる”と気づけているのはとてもよいことだ。その寸分の隙もなく太刀打ちしようもない「自分と現実との関係」を掘り下げていくことで、あなたは深い気づきに到達するからだ。

      つまり手記を読んでいくうちに、現実に対する認識がどんどん変容していくけども、やがてそのようにコメントで質問していることについても「なぜ自分は以前にこんな問いをしていたのか」と疑問に感じられるようになる。

      もちろん「これこれの理由でそう考えていたからだ」というのは思い出せるが、そうではなく、(未来のあなたが)いまこのように開いている理解にどうして当時は気づかなかったのだろうかということ、それはずっとここにあったはずなのに、なぜそれが見えなかったのかと不思議に思うことになる。

      その図式はこの現実世界のすべてがそうなのだよ。あなたが「完璧」とするこの苦しい世界には、どこにも出口はみえないだろう。だけどもそれはずっと目の前にあるのだ。

      とはいえ、いまの時点ではその「理解ある自分」を想定することはできないから、”逆向け”に言いかえておこうか。

      上の質問を書いたあなたは「自分がなぜこの質問をしているのか」を”知らない”でいることはできないわけだが、それはなぜか。

      “あなたが”その質問そのものであるからだ。

      つまり質問の答えがどこかにあるのではなく、質問そのものが変容することこそが、質問の「真の答え」となる。

      これは頓知問答をしているのではなく、実際これまでの人生を振り返ってみれば、その繰り返しにあることがわかるはずだ。

      あなたの問いは、自分を取り巻いている世界にだけ注意が向けられているけども、己がいまそのように思い浮かべること自体も、その現実によって創造されているもの、つまりあなたが自発的だと思っているすべての思考や行動は、すでに現れている「この現実の反復」でしかない。

      だから以下のあなたの観点は180度ひっくり返さなければならない。

      >歩いている人達、ここにコメントされている方々、そしてあなた様も、私自身が創造し私が問いかけ私が答えているのでしょうか?

      あなたがそのように質問しているのは「この世界があるから」だろう。じゃあその質問は、本当に「自分が」疑問に思っていることなのだろうか?

      この世界があるからこそ、単に鏡のように反射しているだけではないだろうか。

      となれば、自分とは一体何者なのか。あなたはどうしてこれを読んでいるのだろう?

      つまりあなたは”自分”ではなく、この完璧な世界のほうなのではないのかな。

      本書には数多くのキーワードが出てくる。たとえばこの返答に沿うなら「私とは”私たち”という私である」という具合にね。

      混乱しないように、なるべく同じ言い回しをいくつもの手記で繰り返すようにしているけども、すべてのタームにおいて貫かれているのは、逆説を通じた向こう側に「それ(=あなたが探している答え)」があるということだ。

      つまり「この現実こそがあなた」なのであり、よってあなたが「この現実の”住人”」である限り、問いは解決が不可能となる。

      どのような崇高な教えであろうと、どのような科学的根拠であろうとも「直接的な答え」は、すべて「あなたの現実」に上塗りされたものとなる。

      なぜならあなたが浮かべるどのような問いも「この現実」の構成要素として用意されているものであり、たとえその”答え”を手にしても、それはまた別の問いを手にしたのと同じであるからだ。

      だからこそ、私はあなたに「変容のプロセス」を起こすための鍵を提示し続ける。

      その鍵によって、昔関心を寄せていたものが、気づいたらいまはそうでないように、現実そのものの「模様替え」を促すことができる。

      「この完璧な現実」に閉じ込められるのではなく、その完璧さを賞賛するように一歩退がって俯瞰しているとき、つまり現実内の物事への執着を解かれたときに変容の促進が起こる。

      それは「AがBに見えるようになる」という単純な程度の話ではない。

      そこにAがある時点ですでにこの現実認識によるものであり、そこにあるのがAではなくCであるとき、あなたはAを「そもそも知らない」のだ。

      つまりAはあなたの現実に存在しないばかりか、Aについて考えることもできない。知らない色は想像することさえできないのと同じ。

      こうした信念体系の変更が「模様替え」であり、現実はあなたの内的なものも「含めて」ガラリと変わる。

      言いかえれば、内的なものが変わるからこそ外の世界が変わるということであり、つまり内と外は同じものなのだよ。

      この意味は重要であり、己はこの世界のなかにありながら、己のなかにこの世界があるということだ。だから「鏡」となる。

      この返信だけでは理解できないだろうけども、その「理解できない」という自体に注意を向けること、その理解できない自分が何によって規定されている存在であるのかという提起をすることだ。なにより手記やコメントを読み進めることだ。

      やがてこの返信が”正しく”理解できているようになる。だがそれは単に「言ってることはわかります、けど・・」ということではない。それもまたこの現実に閉じ込められた解釈にすぎない。

      正しく理解できたとき、あなたはこの現実が”いまとは違うもの”としてみえている。

  6. moonriver より:

    意識の向きについて

    アリストテレスが究極的な幸福の要件として「観照的生活」を上げて居ることが、ずっと気になっているんですが、

    観照ってじゃあなんなのかと言うと、「意識の向き」が外→内から内→外にひっくり返った状態なんじゃないですかね。

    と言うのも、何事でもそうなんですが、その事についてぼんやり考え続けていると、ある瞬間に、自分の都合の良いような見方にひっくり返る時がくるんですよね。何か「大失態をした」と考えて、ずっとその事を考えていると「あれ?でも、あの人あんなことを言っていたと言うことは別に気にしていないと言うことだよな」とか見方が反転する。
    一度反転してしまうと、その件についてはもはやネガティブな見方には返らない訳です。

    このぼんやり物思いに耽りながらの、ネガティブ→0→ポジティブまでの思考過程が一種の「観照」なのかなと思いますね。

    将棋の試合後の観想や剣道の稽古後の瞑想もアリストテレスの天動説も同じ所を目指していると思うのですが、

    少し暇や余裕がある生活だと、生活と生活の間に「観想」を挟むことが出来るし、そこにこそ世界の幸福な相貌が現れてくる。

    • 涅槃の書-自分 より:

      moonriverさん

      ──

      このぼんやり物思いに耽りながらの、ネガティブ→0→ポジティブまでの思考過程が一種の「観照」なのかなと思いますね。

      将棋の試合後の観想や剣道の稽古後の瞑想もアリストテレスの天動説も同じ所を目指していると思うのですが、

      少し暇や余裕がある生活だと、生活と生活の間に「観想」を挟むことが出来るし、そこにこそ世界の幸福な相貌が現れてくる。

      ──

      そうだね、たしかにアリストテレスは”自然世界への観察”から観照的生活を見出した。

      それはあなたが気づいたように、まず対象物への問い(疑い)からはじまり、その主観を今度は客観的な洞察に向き替えるわけで、大事なのは、そうした意識上の操作が、大きなキャンバスのなかで営まれているということ、つまりそのキャンバスそのものが意識されているということにある。

      あなたのいう「0」は、一旦そうして大きなものに還元するというところがあるので、まさにその通りだといえる。

      たとえば最初の問いの段階では、相手が動物や植物また人間模様であれ、ネガティブな負荷がかかる。

      もしそのまま負荷がかかっているだけの様子を苦悩というのだけども、しかし0に返すことによって、問いを俎上に置くことができる。もうそれは自分の負荷ではない。

      そこからさまざまなデータで帰納的に裏付けをして、またそのキャンバスの上で演繹していくと理論が完成する。

      いわば卓上で何かを設計しているようなものと同じだね。

      だがそうなると、帰納法として集められたあり合わせのデータや、演繹として前提となる土台があってこその”完成品”となるわけで、つまりアリストテレスにとってみれば、宇宙の真実を追求したというより、私たちはこの宇宙という空間のなかで、そうして「いろんなことを自由に発想できる」というところに重きがあったといえる。

      だからこそ、これは前にもあなたに話したように、

      ──

      ゆえにアリストテレスはなんらかの措定を敷くことにした。みんなで共通に扱える物差しを制定しようとしたんだ。

      そのために彼は自然現象を事細かく観察し、それによって見出せた共通点や差異を基準に種別しカテゴリー化して、そこから普遍的な「物差し」を組み立てていった。

      だけども繰り返すように、それは自然現象を「説明」するものではあるけども、なんら「解明」はしていない。

      現代の宇宙理論も素粒子物理学も同じ。すべては物差しを与えて”説明“を創造しただけにある。

      ──

      天動説にしても、己からみた太陽が地表から昇り、そして反対側の地表に沈んでいくという素朴な観察を”基に”、そこからいろんな考えを結びつけていった。

      そのいろんな考えとは自然界の法則だけでなく、倫理や政治、つまりポリスを規定する上での普遍的なモノサシまで発展させたんだね。

      だからこそ彼にとって地上世界とは宇宙との照応関係にあった。それゆえ不動の動者や、またそれまでのギリシアで伝統的に語られていた四元素にさらに第五元素として天界を満たすアイテール(エーテル)を提唱したわけだ。

      そもそも戦争ばかりの荒れた時代でもあったので、人間の世界をどのように捉えるか、その理論を権力者が受け入れて実践してもらうことが当時の哲学者たちの急務だった。

      そのためたとえばアイテールは単に満ちているだけでなく、地球を中心に形を変えず永遠に回転を続ける性質があるとした。そしてそこから人類の統一したあり方を説こうとしたわけだ。

      つまりそうしてなんらかの普遍的な土台を用意して、それに沿うように導きたかったわけだね。

      だからこれも前に話したように、現代的な意味での科学はまだ200年ほどしか経っていないが、そんな現代的な観点から当時の自然哲学を解釈するとき、当然ながら誤解ばかりとなる。

      アイテールなんてものはないし、いまの基本は地動説にある。

      だが、そうじゃないんだね。

      なにより彼の考察は、大きな全体の動きとひとつになることでより自由な発想が生まれてくるような、そうした思索する日々、つまり創造的な生活を観照的生活と呼んだんだ。

      しかしいまやそうしたアリストテレスの考えの根本は完全に見失われているわけで、つまり人々は「これが真実だ、いやいやこっちが真実だ」と真実合戦を繰り広げているが、しかし”真実”なんてものはころころ変わっていく。

      大事なのは、そうした真実が生まれる土台を見出すこと、そしてその土台もまた、時代の理念によって作られたものであること、つまりそもそも人間は、私たち自らが作り出した幻想の”なか”で現実生活を送っていることに気づかねばならないということだ。

      観照的生活はなにより、常になにもないキャンバスに意識が向けられているゆえ、はじめからここになにもなかったこと自体に気づいている。

      それはつまり価値観も損得も幸不幸も、俎上に立てられた関係性のなかでのみ有効なゲームにすぎないと知っているわけで、すると損も得もなく幸せも不幸もなく、本当の意味での幸福であることになる。

      まさにあなたの話のとおりだね。

      >少し暇や余裕がある生活だと、生活と生活の間に「観想」を挟むことが出来るし、そこにこそ世界の幸福な相貌が現れてくる。

      だから「0」というキャンバスに触れることは大切で、もちろんアリストテレスでさえその理論は常に恣意的な仮説にすぎないが、しかしそれが人類の思考の”土台”となっているのであって、ゆえにそのアプローチは有効であるどころか不可欠なものにある。

      新しい人生を見出していくこと、また困難な自らのあり方を問い直すことにしてもそうだね。

  7. moonriver より:

    >たとえば最初の問いの段階では、相手が動物や植物また人間模様であれ、ネガティブな負荷がかかる。 もしそのまま負荷がかかっているだけの様子を苦悩というのだけども、しかし0に返すことによって、問いを俎上に置くことができる。もうそれは自分の負荷ではない。

    まさしく、最初の段階ではネガティブな負荷がかかりますね。
    ゼロに還元して考察すると言う技法として捉えると、
    剣道などでは必ず練習後に黙想をするのですが、これは非常に大事な習慣なんじゃないでしょうか
    剣道の黙想はかなり形式主義になっていて、何のためにやっているのか良く分からないのだけど、本来は何か技術や精神性の向上に関係があるからこれを取り入れたのでしょうね。
    黙想を究極まで極めるとどうなるのか
    瞑想や座禅、観照、止観など表現は違いますが、共通する部分も多そうです。

    • 涅槃の書-自分 より:

      moonriverさん

      ──

      剣道の黙想はかなり形式主義になっていて、何のためにやっているのか良く分からないのだけど、本来は何か技術や精神性の向上に関係があるからこれを取り入れたのでしょうね。

      黙想を究極まで極めるとどうなるのか
      瞑想や座禅、観照、止観など表現は違いますが、共通する部分も多そうです。

      ──

      よいところに気づいている。

      たとえば形式主義について前にこんな話をしていたので少し引いておくよ。

      ──

      >お母さん達の間では、どこの塾にいつから入れるかが、関心事になってしまう…

      そうだね、人間は基本的に形式主義であるのだけども、そもそも人間というものが、枠だけがあって中身のないものであるからだ。

      これは現代社会だけでなく、古今東西の各地の民族もそうだった。人間は何をしていいのかわからない。昨日得られた食料が今日は手に入らない。天候は激しく移り変わり、愛する人は突然の病に倒れる。

      人間はこうした神の気まぐれに振り回されないように「意味」を与えるようになった。たとえば不作が起こるのは「神が怒っているせいだ。だから奉納の儀式をしなければならない。」

      もちろんそれをしてもしなくても物事は自然に変化していただろう。

      だが人間はその儀式をしたことで納得し安心する。就職、結婚式、預貯金、マイホーム、いろいろあるね。

      さてこの話で大事なのは、自然は”自然に変わっていく”ということだ。つまりそれが形式のなかを流れる「中身」であり、その意味で人間とは、自然の流れを「いかに流すか」という水路であるといえる。

      よって私たちは生きている限り、必ず何らかの形式を必要とする。

      ところがこの社会では、流れているものを学ばずに形式ばかりを学ばされる。それは本末転倒なのであって、文字どおり「形式に囚われてしまう」わけだ。

      そうではなく、流れているものを生かすために自分なりの形式を立てればいいのだよ。

      tam02さんへの回答

      ──

      だから問題となるのは、たしかに人間=形式だが、その中身が空っぽであっては空虚だということだね。

      じゃあその中身とはなんなのかといえば、仕事であれプライベートであれ、それを通じて得られる充実感、達成感、etc.. であり、むしろその中身を顕現させる”ため”に枠組み(水路)をクリエイトしなければならない。

      それが人間の創造性であり、そしてそのためにこの世を体験しているわけだ。

      それゆえ剣道、柔道、茶道など、道のつくものはよく言われるように、いわば”方便”であって同じ山頂に到達するための道筋にあるといえる。

      もちろん「〜道」でなくてもなんでもそうなんだけども、そうしてあえて「道」と名付けられたものは、よりその”本来の目的”に向けて生み出された概念にある。

      だからあなたが話してくれた形式的な黙想もまたその一環ではあるけども、しかし上の引用のように形式だけを捉えてしまうと、満たされるものがないわけで、それゆえ黙想を究極まで極めるということは、別の言い方をしてみれば、それ自体を楽しむということになるね。

      するとたとえば先日urikoさんのところで話したカントの話が有効となってくるはずだ。

      ──

      外部から強制された目的ではない”自ら”を動因とした活動、たとえばカントでいうところの「目的なき合目的性」こそが、この夢で溢れた幻想を楽しく泳いでいくための基本にある。

      わかりやすい例としてなら、”自然”はそれ自体で完結しているだろう。

      雨が降り晴れ間が広がり、冬が来て春が来る。山頂も深海もそこには自然の秩序がある。すべてにおいて理に適っている。宇宙もそう、隅々にまで完成された形式がある。

      そうして合目的な形式はしっかりしてるが、しかし”何のため”にそうなのだろうか?

      その隅々まで理に適った自然の目的そのものはなんだろうか?

      いいかい、自然に”目的”なんてものはないんだ。

      あるのは完全な形式として”それ自体を営んでいる”ということのみであり、だがその営みは常に「満ちた充足」にある。

      ミケランジェロはたしかにその素晴らしい作品が評価されているが彼の本当の素晴らしさは、大理石を前に無我の境地で情熱を注ぎ続けていたその姿にある。作品の評価自体は彼のホットな人生にとってみればおまけにすぎない。

      ところが現代人は”目的”のための合目的性に閉じ込められている。それは歩んでいる一歩一歩こそが真のゴールであることを見失っている=自然の摂理(永遠の生命)から外れてしまっているわけだ。

      ──

      自然は目的を持っていない。

      だがその動きそのものは、宇宙空間での巨大な運動にしろDNAの二重螺旋構造にしても、まさに神の芸術と言われるほどに合理的な整合を保っている。そして目的も意図も不明なその形式性のなかに”充足”が満ち流れている。

      だがこれも逆転させるべきだろう。

      その充足があるからこそ、この神秘があるんだ。

      だから黙想を究極まで極めたときにそこにあるのは、そばにいてくれる人や毎日の風景が只々素晴らしいものとなる、ということだね。

  8. moonriver より:

    ありがとうございます。
    ちょっと話を色々な次元に展開させてしまいますが例えば「形式」ということで今思うのは、「今、世を騒がせている政治家のパーティー券問題」ですね。これはパーティ券の販売の仕方が政治資金規正法の合法性の条件を満たしているかどうかという問題のようなのですが、例えこの件に関して合法性があったとしても、金集めに関して別に幾らでも抜け穴があるように思いますし、つまり、そもそも、その形式(例えば法律)が正義とどう関係があるのかということが問われることなく、目の前の形式に合っているのか、合っていないのかという事をひたすら無意味に論じあっている姿がある意味で現代を象徴しているようにも思うのです。
    要するに、「正義」というものが問われなくなったし、各人がそれぞれ自問自答する事が無くなった。結局、ニーチェにしろ、カントにしろ、アレントにしろ、形式主義が世界を覆う事に対する危惧があると思うのです。
    とは言え、私が形式主義を越えた意味での、正義とか愛とか真理を体現した存在なのかというと全く不明なのですが、少なくとも、今日も私は、ここにある熱情を思いっきり迸(ほとばし)らせてきた事は確かですし、
    それはもはや「いじめ、人間関係」などを超越していることもまた確かです。ただ、それでいいのかというと少し心もとない気もするし、「いじめ、人間関係を超越する」だけではなく、そのようなものが実在するかどうかはさておき、何か「客観的善」と自分の行動を一致させていたいという気持ちも否定できないものがありますね。逆に言うと、このように「正義のようなもの」を意識するから「いじめ、人間関係」が「どうでもよい」ものだったり「全く気にならない」のかもしれないですけどね。

  9. moonriver より:

    追伸
    ふと、反軍演説で有名な「斎藤隆夫」の事を考えました。
    私の中に、ある種の「重苦しい存在」として彼は居るのですが、それは彼が「表面的な平和」を超えた存在だからで、表面的な幸せに安住しようとすると、私の意識に彼のような存在が浮かび上がってくるんです。それは子供の頃から、思春期にかけて、ずっとそうでした。
    「ソクラテス」なども、そういう存在の一人ですし、聖書のイエスキリストなどもそうなのだと思うのですが、表面的な安心、安定に安住しようとすると、彼らに背を向けているような「罪悪感」を感じたものです。
    しかし、現在の私は、彼らにひけを取らないようなクレイジーな人間になってしまいました。
    そしてそんな自分に、心から安心するのです。偽りの安心ではなく、心底の安堵です。
    当時、斎藤には軍部や政治の欺瞞がありありと目に見えていたでしょう。
    と、同時に、偽りや欺瞞とは言え、ある種の平和や調和を引き裂いてしまうような自分自身の弁舌に何を思ったでしょうか?
    きっと、当時、斎藤を呪詛の目で見た人はたくさんいたのだと思います。
    斎藤隆夫も、政治家も除名され、命を付け狙われ、速記録は削除され、見方によって「損」ばかりなのですが、損得などはとっくに吹っ飛んでおり、ただただ言うべきことを言っている。
    とはいえ根底に充実感があったとはいえ、表面的には心労で脳卒中になったようですし、眠れない日もあったのではないでしょうかね。
    とにかく、1936年の粛軍演説から1945年の敗戦まで、よく生きていたものです。粛軍演説につぐ反軍演説と弁舌が鋭さを増すにつれ抵抗も増していったでしょうが、彼も「それ自体を楽しむ」というような境地に達したのでしょうかね。何か突き抜けたところが無いと、国民の大半を敵に回しながら、生き残るという事は難しかったのではないかと思います。普通ならストレスで死にます。

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