自由の意味について

スピリチュアルな文献などで「起こることは起こる、できることは何もない。ただ変化に身を任せなさい。」といったような言い回しがよくされる。

これは確かにそうなのだけども、だが宿命論ということではない。

たとえば川の流れがある。川はただ流れている。途中に分岐があったり、雨で増水したり、滝として急降下したり、その時々の状況に逆らうことなく、起こるがままに起きていくわけだ。

すべては「全体」として確定されていることになる。河川や土地の形状、天候など、すべての要素が絡み合ってその流れが起きている。

ではもし川に意志があるとしたらどうだろう。たとえば「自分は緩やかに流れたい」と思っていても、落差のある場所では意に反して急流となる。ならば自由意志はないことになる。

「全体」からの自由意志

では川の意志が「その状況に応じたものとして浮かんでいる」とするならばどうだろうか。たとえば落差のあるところに差し掛かるときに「激しく流れたい」と意志が連動している場合だ。つまり川は自分の意志でありながら、それは全体の意志であるということ、全体と共にひとつの動きとして現れているということだ。

このとき川は自由意志を持っていることになる。意志が自他を超えたものとするならば、川は存在していることそのものが「自由の現れ」であるといえる。

もし望んでいないことが起きたとき「こんなことは望んでいない」という思いが生ずるけども、その「望んでいないことが起きて『望んでいない』と感じていること」そのものが、全体を通じての意志となる。キリスト教なんかで「これも神の思し召し」なんて言われるのはこのこととなる。

肉体の活動においても全体との完全な連動が背後にあり、そのなかであなたは「自分で体を動かしている」と思い込んでいるということだ。

自由の領域

さてこの話をそのまま鵜呑みにしてしまうと「じゃあ自分が貧乏な家柄に生まれて、しかもそれについて苦悩しているのは、すべて全体的な意志として享受しなければならないのか」ということになる。つまりこれが冒頭の宿命論としての認識となる。

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