人生のつくりかた

現実で起こる物事や出会いはすべて
目の前の誰かの発言や
偶然みたテレビのニュースまで

必ずあなたに意味のあるものとして
それは現れている

あなたに無関係なものは
人生でなにひとつ起きない

“良くも悪くも”ね

だけどもそれは
良くも悪くも人生のすべてが
「あなたである」ということだ

つまり物事の良い悪いは
その物事が”あなたの世界”で
どのようにそこにあるのかで決まる

当然あなたは
「良い」を選択するだろうし
「悪い」を除外していくだろう

そうして人生は
固定されたものとなっていく

 

人間世界はジャンキーの集まり

ところがそうして固められてしまうと
人生が新しくならず
「同じことの繰り返し」となる

人は同じ喜びと同じ苦しみに
“支配され続ける”ということだね

これを輪廻サンサーラと呼んだりするが
仏教の目的は
そこから脱することにあったわけだ

つまり”すでにあるこの現実”のなかで
幸せを追求するということは
麻薬中毒者と同じ状態にある

これがあれば幸せ
これがあれば嬉しい

それは確かにそうかもしれない

体内の分泌物である
ドーパミンやセロトニンが
あなたを満たしてくれるからだ

極端な話その麻薬を注入され続ければ
たとえブラック企業で
体を破壊されるまでこき使われたり
家庭が崩壊したとしても
幸せな気分でいられるということになる

実際いまの物質社会とは
そのように仕向けられている

幸せな生活を目指すことが目的だったり
街やネット上には欲しいもので溢れている

それを求めたり手にすることで
幸福感に満たされる

だからその”ため”には
いまを蔑ろにしても
「仕方がない」と誰もが考えている

だがそれは”その時々だけのこと”ではなく
知らずのうちに
人生全般がその罠に陥っているのである

 

偽りの自由

たとえば学生が借金で学費を払ってまでして
就職先企業に売り込めるように
「自分」を商品化する

そうして企業に自分を選んでもらえて
運良く職につければ
その借金を”返済していくこと”ができる

こうした不毛なサイクルにあるが
学生たちは借金返済の
“手助けをしてくれる企業”に恩を感じている

だからこの意味で義務教育の時点から
作られた従属に放り込まれているのであって
つまり「社会という機械のなか」で
人々はずっと転がされているわけだ

私たちは子どもの時点から
社会の歯車として適応できる素養を
心に備え付けられてきた

決して反抗しないように
決して疑問を抱かないように

そして流行や欲しいものに敏感なのも
“その影響”にある

どうしてそれが欲しいのだろう?

つまり誰もが自分の人生を
「自由に選択しているつもり」でいるけども
実はその自由とは
不自由が偽装したものにすぎない

こうした例は人生の至るところで発見できる
というより
そうではないものを見つける方が難しい

それだけ
「自由な選択を押し付けられている」ことに
誰も気づいていないわけであり

くだらない主義主張の争いに
自ら巻き込まれていく

またその気づきの”なさ”ゆえに
個々の人生は固定化していくことになる

やがてはそれ以外の可能性
“完全に”見失ってしまうわけである

 

幸せであることが問題?

このように現実の良し悪しとは
物事が現れるよりも”前”に

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