この世は泡沫の夢
「知らぬが仏」ということわざがあるね。
わりと新しくて江戸時代の遊戯のひとつだった「いろはかるた」にその由来にあるとされている。
ところでこの「いろはかるた」というのは、私たちの誰もに関わる人生の教訓に満ちているわけで、たとえば、笑う門には福来たる、芸は身を助ける、泣きっ面に蜂、塵も積もれば山となる、etc..
どれも聞いたことがあるだろうし、そしてどれも真実を見抜いているだろう。
では「いろはかるた」とはなんなのか。
いろはかるた
まず「かるた」というのは、札やカードのことだが、呼び名自体は日本に宣教師がやってきた16世紀に伝来したポルトガル語の「carta」が元になっている。カルタには幅広い意味があるが、日本でそれは英語でいうところのカードに限定された。
次に「いろは」だけども、これは平安時代に作られた「いろは歌」のことであって、ひらがなの全文字を重複することなく使って七五調で完成させたものにある。重複することなくというのは、たとえば「あ」も「そ」も一度しか出てこないということ。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
これがいろは歌なんだけども、冒頭の「いろはにほへと〜」は聞いたことがあるはずだ。
無常の歌
さてこれが元になって後世のいろはかるたが流行したのだけども、じゃあなぜあれほどに真を得た教訓譚に満ちているのかといえば、このいろは歌というのが、仏教の伝える無常(すなわち、この世は泡沫の夢である)をテーマにしているからにある。
そもそも上のいろは歌自体が、原始仏教の頃から成立していた「涅槃経」のなかの一句を平安の歌人が意訳したものにある。研究には諸説があるが、いまのところ最も有力だといえる。
その説を踏まえて漢字を交えて置き換えると以下のようになる。
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
つまりこの歌が涅槃経の意訳なんだけども、各行ごとに仏教の教義があてはめられているというわけだ。
煩悩が消え去るとき
その意訳元になった涅槃経の一文をみてみよう。
諸行は無常である(諸行無常)
すべて生滅するのが自然の法(是生滅法)
ゆえに生滅さえ滅して(生滅滅已)
寂滅をもってこそ真の安楽となる(寂滅為楽)
焦点となるのは3行目の生滅滅已だろう。
あらゆるすべては生滅(生死)の法則に支配されているが、その支配から解放されるとき(つまり煩悩が消え去るとき)生死の世界を超脱した悟りの境地に到達する。
生滅というのは、余命のことだけでなく、たとえば人間関係にしろ物事にしろ、うまくいってるものもいずれうまくいかなくなる、それは嫌だからと拒み続ける。だがそうした執着が余計に人生を苦しいものにする。
ならば、すべてがあるがままに流転していくのだから、それに任せていればいいんじゃないだろうか、ということだね。
もちろん努力はすればいい。だけどもそれは執着ではなくて、いまある世界をそのあるがままに支えてやるような、そんな自然の一員として参加するということだ。
そのように煩悩を極力留めない生き方をしているうちに、結局世界は成るようになっていくだけなのだとわかる。身の回りの最低限のことは保つが、もうそれさえも”自分”でやってるというより、全体の呼吸の一環としてある。
そうして4行目の寂滅為楽となる。
この境地に至るとき、それまで直面していた生滅の世界とはまったく別の次元に精神が昇華していることになる。
つまり”悟る”んだ。たしかに目先ではぐるぐる回転するようにはじまりと終わりがあるけども、その背後にあるものは永遠にあり続けているのだとね。
涅槃経をいろは歌に対応させてみればこうなる。
色は匂へど散りぬるを(=諸行無常)
我が世誰ぞ常ならむ(=是生滅法)
有為の奥山今日こえて(=生滅滅已)
浅き夢見し酔ひもせず(=寂滅為楽)
長くなってしまうので平安の歌人の意訳の解読については触れないが、彼なりに仏教の悟りの境地を表現したというわけだ。
知らぬが仏
さて、ここまでを踏まえてようやく本題に入ることができるのだけども、つまり「いろはかるた」のどの言葉も真実を見抜いた教訓として受け取れるのは、まさにこの世は泡沫の夢であるという無常観がそこかしこに行き渡っているからに他ならない。
そのことを感じながら各文を読んでみれば、どれもたしかに風刺的だけども、それゆえどこか切なく、儚い。
人の世とはなんたるかが、”いろは全体”を通じて語られている。
人生というわずかな夢見のために我が身ばかりを守ろうとして、大切なものを見失い続ける。やがてそれはとても愚かだったと自ら必ず気づく。だめな日もあればよい日もある、それでいいじゃないか。今日は悲しんだ、今日は悔しかった、それを味わえたのだからいいじゃないか。だがいつまでもネチネチと尾を引いて、明日も同じことを味わうのか。
人生は短い。だが短いと気づくことは、死という制限を超越するということだ。
死を超越するとはなんだろう、それが寂滅為楽であり、つまり”仏”そのものに達するということだ。別に他人に「仏様のようですね」と言われるためにそうなるのではない。そんなことを期待してる時点でなんにもなっていない。
いいかい、仏とは、そこになにもないということ。
ゆえに「知らぬが仏」のことわざの意図を理解しておく必要がある。
仏は逃げないし損などしない
あなたはもしかすると「知らぬが仏」という言葉の響きに、どこか無責任で逃げ腰な印象を受け取るかもしれない。
たしかに余計なことに首を突っ込んだり、余計な詮索をしないことで、余計なものを心に創り出さない、というのが「知らぬが仏」の教えにあるといえばそうだ。
その意味から「自らに関わる面倒も放り出して逃げればいいのか」とか「世の中には苦しんでるひと大勢がいるのに知らん顔でいいのか」とか、また「なにも知らないでいるばかりに損したり遠回りするんじゃないか」という懸念が浮かぶのだろう。
だがそれは「知らぬが仏」の真意をまったくつかめていない。
まず「知らない」んだ。本当に知らないのだから、放り出す面倒ごとも存在しない。どこかで苦しんでいる人もいない。都合よい話じゃないよ。
いまもあなたの知らないことは無限にある。まだそれは知らないが、しかし知ったとたんにそれは姿や形となって現実として現れる。つまり仏が仏でなくなる。
仏とは、私たちの”総体”でありながら、しかしそこから個別化された具象がうまれる領域であるわけで、つまり仏自体を直接に捉えることはできない。唯一可能なのは、己が個別化を脱して、仏の領域とひとつになって自らがその宇宙となったときだけだ。つまりそれが悟りにある。
間違えてならないのは、仏はすべてを一挙に知り得ているからこそ、個別的な何かを比較したその価値など知らないということだ。あるがままの世界しかない。
その意味でいえば、悟った己というのはまったくの無知であるわけで、だがそれは個別世界についてのことだ。この大地はなにを知ってるというのだろう? くだらない人間の世界のあれこれについて何も知らない。
だがそうであるがゆえにすべてを知り得ている。
仏のまなざしで世界をみる
たとえば最近は政治家や大企業、芸能界など、一般庶民がこれまで立ち入ることのできなかった実情がネットなどで広く知れ渡るようになっただろう。
そんな情報を見聞きして、あなたはとても腹を立てているかもしれないし、またとてつもない不安を感じているかもしれない。
そうして他の情報や本などで今後の生き方を学んだり、備えをつけておこうとしているかもしれない。
もちろんそれは悪いことじゃないし、ぜひそうして備えるべきだろう。なぜならその現実はあなたの現実としてもう現れているからだ。
つまり「知らぬが仏」というのは、裏ではそんな事実があるのにそれを見て見ぬふりをするなんて話ではなくて、そもそもそんな不穏な現実が存在しないんだ。
だから「なにも知らないでいるばかりに損したり遠回りするんじゃないか」ということさえもない。
その意味でいえば、”自我”がいまよりも向上しようとしてあれこれ詮索したりするとき、たしかに向上する理由やその方法がみつかるけども、実はそうして苦難の道を自らで作り出している、ということだね。
無論、知ったからといって、じゃあその現実がもう永久に刻印されるのかといえばそうではない。それを忘れればいいんだよ。
忘れて、本当に何も知らないとき、もうそれはあなたの宇宙に存在しないのだから。重要なのは、それがない世界で成り立ってるということだ。
いまあなたがどれだけ知りすぎて複雑化した世界を生きてるとしても、それでも知らない何かはまだまだ無限に生み出せるわけで、だがそれがなくともいまの世界はバランスが取れている。
つまり現実があまりにシビアで苦しいなら、いま必要とされているものを不要にして、現実を構成する要素を減らさなければならない。それが「忘れる」となる。
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