この人誰?
毎日顔を合わせている人に
「あれ?この人って誰だっけ?」と
そう思うことがあるかな
奥さんでも旦那さんでも親でもいい
もしその人が誰かわからないのなら
あなたはその人を透かせた向こう側を
みているということだ
“他人”など本当は存在しない
あなたがイメージした外面をしているだけで
中身はみんな同じものだ
みえてる外面とは、あなたの記憶
つまりあなたの過去のこと
それはいまここにないものをみている
だからあなたが「いま」に在るとき
どんなに親密な人でも
それが誰なのか定義できない
「あれ?この人誰だっけ?」
「俺の嫁ってこの人だっけ?」
となるわけだ
Notes あなたの世界, マインド, 他者, 幻想, 真実, 観念
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お恥ずかしながらいまだに会社の人の
名前と顔が一致せず、よくそのセリフ頭の中で使います。
席順みてしかわからない。
うまいこと、いつも上にあがってくるものですね。
家族にはそう感じたことはないし会社の人も名前と顔が
一致しないだけ。ただそれに似たようなセリフをよく脳内で
つぶやくこと。コメントの上がるタイミングの良さから
自分さんに対しては確実によく「この人だれ?」と
思います(笑)
komattaさん
家族に対して「この人は誰だろう?」とやってごらん。そして街ですれ違う知らない人に「あれ?お母さんどこ行くの?」と問うてごらんなさい。
世界はどういう原理で成り立っているかがわかるようになる。それが炊飯器だとか、椅子だとかも同じ。全部あなたが作っている。
さらにいえば「この人だれ?」という知らない人を、あなたは知ってるんだよ。
最近夫が
とても優しいのです。
毎日、この人が帰ってくるのが不思議です。
この記事が上がってきてついに泣いてしまった
隣に寝ている旦那がふと誰だかわからなくなるときが多いです
一度や二度ではなく、1日置きくらいです
あぁ、この人誰だろう、お母さんと一緒に寝ている?姉が横にいるのかな?いや、シルエットがでかい..あぁそうか旦那か
自分の頭がおかしいのかなと思って、誰かに話しても笑われて終わり
そんな時に、この文章を見て、なるほど!と思いました
kumachannanoさん
やあこんにちは。
──
隣に寝ている旦那がふと誰だかわからなくなるときが多いです
一度や二度ではなく、1日置きくらいです
あぁ、この人誰だろう、お母さんと一緒に寝ている?姉が横にいるのかな?いや、シルエットがでかい..あぁそうか旦那か
自分の頭がおかしいのかなと思って、誰かに話しても笑われて終わり
そんな時に、この文章を見て、なるほど!と思いました
──
とてもいいね。そう、あなたが腑に落ちたように本当はここには何もないんだ。
旦那さんだけじゃない。お母さんやお姉さん、街やテレビの人々、そしてあなた自身も含めて、すべては”見かけ”として現れている。
「何もない」なんて言ったら寂しく思うかもしれないが、そうではなくて、何もないがゆえにすべてがあるわけでね、それを見出してこそ、家族や街の人たちとの本当のつながりが生まれるんだ。
そしてそれはあなた自身が満たされるということでもある。
つまり日頃は”見かけ”の世界を生きてるがゆえに、あれを持っていないとか、自分にはこれが足りないとか、また何かを失うことへの不安にいつも追いまくられているわけだが、そうした”恐れ”が人生から消え去って、人生そのものが安堵となる。
じゃあすべてが幻で本当は何もないのなら、どうしてそれが「すべてがある」になるのか。
手記ではこのように話しているね。
──
“他人”など本当は存在しない
あなたがイメージした外面をしているだけで
中身はみんな同じものだ
──
この「他人は存在せず、中身は同じもの」とは、話したように本当の安堵とひとつになっているということだ。
なぜなら、他なるものはどこにもないがゆえに、すべては”あなたそのもの”であるということだからだね。そして日頃の自分もまた、あなたがイメージした姿として意識上に現れているから、自分も”他なるもの”である。
そうして他の人たちの輪郭が消え去るだけでなく、自分の輪郭も消えたとき、一枚の白い画用紙だけとなる。
つまりあなたは本当にここにあるもの、つまり「すべて」とひとつとなる。
だけども自分の輪郭が消えず、ただ旦那さんの”見かけ”がなくなるだけでは、画用紙のなかでキョロキョロしてる自分がいるだけであって、たしかに不思議な感覚にはなるが、深い安らぎまでは達しないだろう。
いまはまだその段階だと思われる。
だから「この人誰だろう?」と思えているとき、「変だな」と思うだけでなく、旦那さんを中心にそこにある全体を感じてみるといいね。
すると彼だけでなくて、いろんなものの”見かけ”に気づくことができるかもしれない。
家具もコップもハンガーにかけている服も、夜という暗さも、窓の外から聞こえてる音も、部屋の奥行きや時間の経過さえも、すべてが表面的なものであり、そしてそれらの背後には隔たりのない単一の何かを感じ得られるようになる。
言いかえれば、あらゆるすべてが一枚の画用紙に描かれているように感じられて、そのキャンバスそのものに気づくわけだ。
はじめはそれが不安なものに思えるかもしれない。しかしそれは不安に思っている自分がすでに現れているからであって、だから「あれ?」と感じたその瞬間にあり続ける必要がある。
「いまここ」だね。手記から引いておこう。
──
みえてる外面とは、あなたの記憶
つまりあなたの過去のこと
それはいまここにないものをみている
だからあなたが「いま」に在るとき
どんなに親密な人でも
それが誰なのか定義できない
「あれ?この人誰だっけ?」
「俺の嫁ってこの人だっけ?」
となるわけだ
──
そのように永遠のいまと共に”あり続ける”とき、そこに誰がいるのであれ、何が置いてあるのであれ、その一切が深い安堵に満ちていることを知るだろう。
眠っている人の姿をみているとき、その人に対する日頃のイメージが薄れるのは、過去の記憶に邪魔されずにそこにある純粋な光景を感じているからにある。
それはまた、日頃の旦那さんの姿を通じて感じられる温もりのことでもある。
その温もりは永遠なるものであって、つまり彼の姿を通じてその奥にあるものに触れているんだね。
だが話しているように、その永遠なるものから自分も彼も現れている。
つまり旦那さんから感じられるその温もりとは、”本当のあなた”との再会なのであって、その温もりをあなた自身が再び感じるために、自分や彼の姿をあなたが創り出しているんだ。
だから本当にそこにあるのは、彼から感じられる優しさや頼れる強さ、かっこよさ、そして彼がいてくれることで成り立っている生活の豊かさ、安心感など、そうした「満たされる実感そのもの」であって、その喜びを深く感じるためにあなたはここにいるわけで、なによりそれこそがあなたの人生の意味にある。
それはもちろん旦那さんの姿だけではない。家族や友人などあなたの知る人々の姿、あなたの知る毎日の光景、あなたの知るこの世界に、ときに深い思いを感じるのは、それらの姿を通じてその向こうにあるものを感じ得ているからだ。
ゆえに「満ちたもの」がまず最初にある。それ自体は姿も形もないものだ。いまもあなたはそれに包まれている。
そしてその形ある表現として、己の意識上に人の姿や自然や出来事として描かれている。
これは言いかえれば、姿として現れている”見かけ”だけに囚われてしまうと、腹立たしく思えたり、悲しくなったり、失うことに恐れたりするわけで、つまり「何かがある世界」に閉じ込められてしまうわけでね、そうした不安感や焦燥感とは、まさに「満ちているもの」を見失っているからこそ、生じているんだ。
つまり不安や焦りというのも実在する感情ではないんだね。
これもよく話していることなので、最近ならタタータさんへの回答を引いておくよ。
──
負の感情とされるもの、つまり怒りや憎しみ、不安、絶望感、といったマイナスの感情とは、いまここに満ちているものから乖離しているゆえに生じるものだからであり、
愛、感謝、思いやり、優しさ、友情、躍動感、充実感、喜び、癒し、安らぎ、希望、勇気、etc.. こういったポジティブワードはすべて、この現実の背後に満ちている大きな流れを多様に表現したものにすぎない。
流れはそれ自体ではつかみようがないゆえ、そのような”実感”として現れてくるが、やはりそれら実感にしてもつかみどころのないものだろう。留めておくことはできないし、かならず何かを通じてしか感じ取ることができない。
だがあなたはこの大きな安らぎに包まれるために人生を体験しているのであって、人生のあらゆるすべてがまさに”そのこと”を伝えるために現れている。
──
つまり”本当の感情”とは、もう感情というものですらなく、己を通じで湧き起きてくる永遠なるものがピュアに現れているその様子のことなんだ。
そして大事なのは文中にもあるとおり、そのピュアなものを体験するために、人生のあらゆることが起きているということ。
家族との出会い、一緒に過ごしている毎日、出かけた先の風景、日々の出来事。良いことばかりでなく、たとえ悪い出来事があったとしても、やはりそれはメッセージであり、それを通じて何か大切なことを感じ取る必要があるということだ。
そしてそれこそが「人生から学ぶ」ということにほかならない。見かけの世界においては無意味なことでも、しかし見かけの向こう側を感得していえるならば、すべてが意味あることなのだとわかる。
旦那さんから安心感を覚えてるとき、それは見かけではなく”向こうにあるもの”を得ている。だからこそ安らぐんだ。
しかしその安らぎに理由や根拠を求めはじめると、もう向こう側からは切り離されてしまうだろう。
向こうにあるものは、なんの理屈も根拠も必要としない。理屈や根拠というのは、見かけの世界においてのみ必要とされるものだからにある。
そんなわけでね、あなたが「この人だれ?」と思えるのは素晴らしいことなんだ。
自分が握りしめる記憶だけでその人をみていないわけでね、それっていうのは、どれだけその人と過ごしていても、結局誰とも過ごせていないのであって、あとでいろんな後悔を抱えることになる。
あなたは本当の意味でこの人生に安らぎと感謝を抱けるようになるだろう。
出会えた人たち、見てきた景色、食べ物の味、ぐっすり眠ったときの心地よさ、そうしたいろんな瞬間が贈り物をしてくれているのだとわかるからだ。
メールのお返事ありがとうございました。
やっと、やっと、わかりました。
私は私の中で生きている、という意味が。
ようやく、余計な意味を付け加えずストレートに受け取ることができました。
とはいっても不安感は相変わらずだし、やっぱり他人は他人のままなのですが、
でも深いところで響いているようで、自分の中でエネルギーが大きく動いているのを感じます。
あれだけ依存していたyoutubeもゲームも必要としなくなり、
突然静寂が一番と感じるようになりました。
パソコンが私の愛にしか感じられなくて愛おしい存在となりました。
かと思ったら強い怒りを覚えたり、
わたしという命が消え入りそうに感じたり。。
楽になれたらいいなと願いつつ、乱気流に流されてみています。
urikoさん
こちらこそありがとう。
──
ようやく、余計な意味を付け加えずストレートに受け取ることができました。
とはいっても不安感は相変わらずだし、やっぱり他人は他人のままなのですが、
でも深いところで響いているようで、自分の中でエネルギーが大きく動いているのを感じます。
──
素晴らしいことだ。その感じられたエネルギーから”すべて”が現れているわけでね、それはあなたが出会ってきた人々、経験してきた出来事、そしてまさにそれを感じているあなた自身もそう、あらゆる一切がそのエネルギーの現れなんだ。
つまりエネルギーの現れであるあなたがエネルギーそのものを感じていること、それはいわば”明晰夢”と同じにある。
夢のなかで「これは夢だ」と気づいている己は、夢の世界での設定である自分とは無関係の立場からその世界を眺めているのだけども、じゃあ己は一体何者なのかということだね。
言いかえれば、マリオが自らをプログラムされた意志しか持たないキャラクターであるのだと気づいている様子にあるわけで、じゃあその気づいている者は誰なのだろうか。その気づきはマリオにはプログラムされていないからだ。
つまりもうマリオではない。マリオの内側からマリオを眺める何かであり、そしてその同じ観点でマリオを取り巻く世界すべてを眺めている何かである。
そしてこのとき、マリオと世界(敵やステージ)は別個のものではなくなるだろう。
現れている存在は様々あるけどもそのすべてでワンセットとなる。なぜなら「眺められている対象」であるからだ。
だからエネルギーを感じられているとき、相変わらずの不安を感じている自分や他人たちは、もう”あなた”の視界のなかにあるんだ。
そしてなによりこのエネルギーこそが「大いなる流れ」にあるわけで、つまり流れとひとつにあるほど、その”視界”に現れているすべては丸く収まっていくことになる。
たとえ”自分”にとっては不本意な結果となっても全体としてはそれで調和されているわけで、やがては自分もそれで良かったんだとわかる。なぜなら、それがわかるときというのは自分の心境やそのとき取り巻いている環境がまた変化しているからだ。
さてこうしてあなたが自分と同一化せず、あなたの”なか”に自分や世界があるとき、新しい生き方を見出すことができるようになるだろう。というより、とても生きやすくなる。
これまで生きにくかったのは、まさにあなたが気づいたように「余計な意味」を付け加えながら他人や物事を捉えていたからにある。
そしてあなた自身も「余計な意味」をわざわざ用意して物事に対応しようとしていた。それはとても疲れる日々だった。
これはメールでも話していたことなので、おさらいのために一部語句の変更と改訂を加えて載せておくよ。
──
たとえば歯医者は痛みに苦しむ患者を「治療しようか、それとも治療しないでおくか」なんてことはそもそも考えないわけで、彼らはそんなことが頭にあるのではない。
治療は歯医者自身にとってみれば、考えるまでもない当たり前の目的であり、つまり歯医者であることの本質とは「治療」ではなく「治療に向けてどのように治していくか」を考察しそれに向き合うことにある。
これはクリーニング店でも家を建てる大工でも、市営バスや料理店にしてもなんでもそうだね。
言いかえれば、その存在自体が目的そのものであって、だから目的そのものは変わることがないわけだ。
もちろん「これはうちではクリーニングできない衣類です」と断ることもあるだろう。
しかしそれもまた、その店が前提としている業務があるからこそ「これは当店の業務ではない」と言っているのであって、お客のほうがクリーニング屋に家の建築やお昼のチャーハンセットを注文しているのと変わらない。
つまりクリーニング屋や歯医者の”仕事”とは、彼ら自らの本筋に向けて、店の設備機器や培ってきた技術、ノウハウを駆使して全力を尽くすことにある。
だからいろんな衣類や歯の状態がやってきても目指す目的自体はいつも変わらず同じで、それらをどのように達成できるかの手立てを考えることが、彼らの仕事にあるというわけだね。
こうした「目的意識」は職業だけでなく、ハサミやフライパンもそれぞれ持ち得ている。
たとえば前回あなたは「〇〇の仕事をしてみたい」と話していたけども、その仕事が充実するのは、いろんなお客さんのたびに目的をみつけようとすることではなく、いつも変わらない同じひとつの目的に向けて、そのお客さんを誘導する手立てを与えることにある。
そのことを見失えばどんな職業であれ、またあなたの日常そのものであれ重苦しいものになってしまうんだ。人生が辛くなる。
いわばクリーニング店がやってくるお客のたびに、大工仕事やレストランの業務を提供しようとしているようなものだからね。
しっかり自分自身の意義をつかんでいないとそれは簡単に見失うわけで、抱えきれない重圧にやられてしまうわけだ。白衣の歯医者が家の屋根に登って大工仕事をしてるのは滑稽以外の何ものでもないが、しかし誰もがそんな滑稽な自分に気がつかないでいる。
日常生活にしても、ひとつの定められた目的を立て、その手立てとしての毎日を生きてるのと、その日暮らしのように目的が常にふわふわ変わってしまうのでは生の実感や心の安定感がまったく違うものとなる。人間関係も同じだろうし、なんでもそうだね。
こうして世界のあらゆるものは、それ自身が目的であることをただ生きているわけで、複雑にみえることもその本質はとてもシンプルであって、そのシンプルな目的に向かう手段が多様にみえているだけなんだ。
そしてここがより重要だが、たしかにクリーニング屋と歯医者はその各々の尺度においては別々の職種であり目的意識も異なるけども、ところが尺度を拡大してみれば、”同じ山頂”を目指す道のひとつひとつだったりする。
実際どんな職業やどんな暮らしであれ、各々が求めるものは安心や充実感であるわけで”大きな目的そのものは同じ”なんだ。
つまり最大の目的はみんな同じところにありながら、それがどんどん細分化していった結果に個々それぞれの尺度における目的意識がみえているにすぎない。
言いかえれば、クリーニング屋も歯医者もその目的と手段は「より大きな眺め」からすれば、実は同じことをしているということだ。もちろん個としての尺度では相容れない同士だがね。
これはたとえば昨今の社会の様子にも重ねることができるだろう。みんな意見は真反対に食い違っているが、しかし同じところを目指している。
だからもし人生に苦しさを感じているときは、手段が目的となっていないか、つまり目的がころころ変わって行き先が定まっていないことに気づいてみること。
そしてもうひとつは、すべての存在はかならずシンプルな目的に沿ってそこに現れているわけで、対人や物事に翻弄されているなら、それらが本来持っている目的を己が読み取っておらず、その目的に向かおうとしている手段そのものに囚われているということにある。
このことは大事なのでよく覚えておこう。いろんなことに重ねられるはずだ。
──
以上となるけども、こうした観点もあなたがエネルギー(大いなる流れ)とひとつにあるからこそ、より明白なものとなる。
歯医者やクリーニング店、その他大勢の存在たち、また植物や夜空の星々にしても、すべてが”自分の仕事”をしているわけであって、そのように眺められたなら愛らしい世界だと思えてくるんじゃないかな。
つまりどんなに意地悪な人であっても、それはその人なりのあるがままを表現しているにすぎないんだ。
だから歯医者に用事がなければ特に関わる必要がないのと同じで、その人を憎んだり恨んだりするのではなくて、いまは自分に必要ないと思ってるだけでいいんだ。たとえ同じ職場にいる相手だとしてもね。
だがそうして個々をちゃんと認めてそれぞれの個性を光り輝かせるとき、あなた自身もまた、みんなと同じように「自分らしい自分」をそこに参加させてみたいときっと思えるはずだ。
もちろんそうであるためにはあなたが”自分”であってはならないわけで、だから”あなた”が自己実現を成すのは、シルバニアファミリーみたいなドールハウスで遊んでいるようなものにあるといえる。
そのときすべてはあなたの望みのままに活動していることを目の当たりにするだろうし、そしてまさにあなたの望みがいつもここに実現していたことに気づくんだ。
本当に明晰夢を見ているかのようです。
普段は感じにくいですが、イレギュラーなエネルギー状態のとき、すべてがあまりに同じ方向に都合よく変で、まるで明晰夢を見ているみたいだと感じます。
今回いただいた返信も夢みたいです。
私のコメントへの返信というよりも、返信をいただいたまさにその瞬間に私が感じていた不思議な気持ちや疑問への回答と考えた方がしっくりくるからです。
夢だと気づいている己は誰なのか、そのことを感じ取れるようになりたいです。
これからも自分の中のエネルギーに注目して生活して過ごしてみようと思います。
あと歯医者の話もありがとうございます。
いまから約20年前、人生の足を踏み外したあの日から(本当は踏み外したわけではないのでしょうが)常に焦っていて、その焦りから妥協したりやらなんかでそのあたりがブレブレになっているのを自分でも常々感じています。
焦ってしまうものは仕方がない、どうしようもない、と思っている節がありましたが、
>こうした観点もあなたがエネルギー(大いなる流れ)とひとつにあるからこそ、より明白なものとなる。
それはとても楽しみだなと思います。
urikoさん
こちらこそありがとう。
──
本当に明晰夢を見ているかのようです。
普段は感じにくいですが、イレギュラーなエネルギー状態のとき、すべてがあまりに同じ方向に都合よく変で、まるで明晰夢を見ているみたいだと感じます。
──
たとえば前に載せた手記だけどもこういうのがある。
──
あなたはどこかの街で暮らしてる
郵便局や役所があって
交通機関や商店街がある
街はそこで暮らす人々によって支えられてる
だからあなたも街を支えてるひとりだろう
だが同時に
あなたは街によって支えられてるわけで
この関係は実に幻想的だといえる
片方がなければ片方も崩れるが
つまりちょうどよい吊り合いが
いつも実現されているわけだ
吊り合ってるといっても
高い位置で保たれていたり
低い位置で保たれていたり
その時々で違ったりするが
ひとつ言えるのは
かならずそのバランスが保たれている
ということにある
──
街というのは少し俯瞰して眺めてみればとても不思議なものでね。
もちろんその街で暮らして働いて生きてるわけだが、街という”ひとつの活動”から自分を捉え直したとき、個人的な欲望が消えていくことになる。
そして自分はどうあればいいのか、なにをするべきなのか、”漠然”とだけどもなにかそのような流れのようなものが感じられるようになる。
なによりそれは安定したものに思えるはずだ。
もちろんそれは漠然としてるから、つかもうとしてもよくわからないが、しかし安定して満ちたバランスが保たれている透明の何かがあり、それを感じるほど、街の風景や人々の活動、また経済の流れにしても、その何かによって現されているようにみえはじめてくる。
手記でもあるように、それが高い位置なのか低い位置なのかはその時々で違う。
言いかえれば、幸福であるならばそれは完璧に幸福なのであって、もし不幸ならばそれは完璧に不幸であるのだけども、しかし幸福や不幸という見かけではなく、その”完璧さ”という調和そのものを感じてみれば、映されている世界は夢でしかないとわかるんだ。
つまりあなたが話しているように、この世が明晰夢に思えるというのは、この夢ではない”別の何か”にあなたが触れているからこそ気づくのであって、そしてその調和とひとつにあるだけ夢の世界のなかでの自分も振る舞いも変わってくるだろう。
なぜなら自分もまたその調和の現れであるからだね。
──
夢だと気づいている己は誰なのか、そのことを感じ取れるようになりたいです。
これからも自分の中のエネルギーに注目して生活して過ごしてみようと思います。
──
だからその意志はとても大事なことで、夢だと気づいている者、すなわち大いなる調和とひとつにあるほど、現れている世界はより安心できるものになっていくんだ。
こんにちは
このサイトでは現実は幻想だと言われますが、それならば何をしても良いのではないでしょうか?
前から疑問に思っていたことなので質問しました
rgy961さん
やあ、こんにちは。そして良い質問だ。
──
現実は幻想だと言われますが、それならば何をしても良いのではないでしょうか?
前から疑問に思っていたことなので質問しました
──
そうじゃないよ、すべてが幻だということは「この幻しかない」ということだ。つまり罪や悪事をしたら、あなたの幻のなかであなたは裁かれるだろう。
なにより「何をしてもいいだろう」と考えていること自体が幻に囚われている。
そしてこれはいつもあらゆるところで話しているので、手記やコメント回答からいくつかを引いておいたほうがよいと思われる。該当の箇所をピンポイントにして並べておくので、またあとでリンクから読んでみてほしい。
──
この世は幻想であり
つまり「あなたの幻想」である
ゆえに幻だからといって
他人に横柄にしたり
自分の利得ばかりを考えていても
それは”幻”にとらわれていることになる
むしろ「あなたの知るこの世の道理」に
あなた自身が裁かれることになるだろう
“だから”こそ幻であることに
人はなかなか気づけないわけだが
じゃあどうやって
この世が幻だとわかるのか
幻であると
気づくためにはある段階があってね
(この世が幻であると気づくとき)
──
魂はその自らの”内部”に解釈済みの映像を投影する。
投影された映像をみてさらに解釈を繰り返していく。解釈の解釈、つまりコピーのコピーが繰り返された世界で埋め尽くされ、”原本”はどこにも見当たらない。
しかしここに重要な気づきがある。
それは人生において「本当に起きていること」などひとつもないということだ。
もちろん「じゃあどんな悪事を働いてもよいのか」としたところで、己の信念世界において裁かれるだろう。過酷な刑罰や苦しみを体験するが、しかしそれらもまた己の創造の産物であり、だからその意味で「すべては夢の如し」にある。
棒で頭を叩けば痛いだろうけども、その”痛いこと”が夢であり、あなたのみている”この夢”こそが絶対的な現実だということだ。
RIE3さんへの回答
──
他者は実在ではない。あなたにそのようにみえてる他者がいるだけだ。
かといって銀行強盗をしてやろうとか、他人の心を傷つける行為はもちろん「あなたの現実」によって裁かれることになるのであって、世界のなかに閉じ込められている自分からすれば「いったいどうすりゃいんだ」としかならないだろう。
だがあなた自身が、すべて”あなたのなか”で起きてることだと気づいたなら、”自分”には決してみえてこなかった道が開くんだ。
(不思議な力を呼び覚ます)
──
やがてはその苦しさ逃れのために
他人への恨みつらみや不満ばかりを募らせ
やがては不正を働くことになったりもするかもしれない
だがそれは”必ず”裁かれることになる
こうした不運や顛末に陥ってしまうのは
心に後ろめたさを抱えているからこそであり
その思いがそのまま世界として現れてくるんだ
(いちばん楽な道を選んでいく)
──
いずれ”私たち”は、自分が経験してきた出来事のほうこそが、実は己自身だったと気づくときがくる。
つまりこのすべてがあなただったということだ。いまこうした話をしているこの私が”あなた”だった。
見てきたもの、触れてきたもの、この街、この社会、この時代、”すべて”があなたなんだ。
間違えてならないのは「じゃあ誰かを傷つけてもすべて自分なのだから罪は問われない」ということではない。
自分などそもそもいないんだ。自分と思っているものは、人生で現れる一切の物事の反動であり、いわば建物の”影”にすぎない。つまり衝動的な自分がいるとき、その自分は必ず”あなた”に裁かれることになる。
ゆえに日々起こり続ける出来事、漠然と流れ続ける一切が己であると気づくとき、あなたは自分という名の「苦しむ幻想」を脱しているんだ。だから美味しいものを「おいしい」と素直に感動したり、綺麗な空に「きれいだ」と純粋に感じられることはなにより大事なことなのだよ。
(人生を楽しむということ)
──
「すべて幻なんだから不摂生であれ邪な心であれ、別に構う必要はないんだ」と怠惰になってみても、やがてそれが起因して不安定になってくる心身もまた幻であり、だから幻しかないということ。
つまりこの”幻”のなかで、あなたはすべてを体験しているのであり、たとえば犯罪をおかせば、もちろん”この幻”に裁かれる。
ゆえに”明晰夢”と同じく「すべて幻である」と”気づいている視座”で、この幻の世界を暮らしていくことが肝心となる。そのあなたは愛と寛容に満ちているだろう。
それはなにより、自分の体も心も、考えていることも、過去も記憶も、安定も不安定も、幸運も不運も、一切が幻であり、だがこの幻をこのようにして現わせている「元の何かが同時にあること」をいつも感得している様子にある。
むしろ愛と寛容は形の次元を超えたものであるわけで、まさに形の次元として翻訳されてる以前にある「元の何か」、すなわち「ひとつの完全に満ちたもの」がピュアに現出したものなんだ。
そしてこの「ひつの完全に満ちたもの」へのアプローチこそが、冒頭のあなたの”善い生活”にあるわけだが、正確には”逆”であって、あなたの魂がそもそも平穏な場所にあるからこそ、その翻訳がその生活として表現されている。
だから何かの問題に直面したとき、それに対する対策や工夫がその幻のなかで功を成さなくてもよいわけでね。なぜならその工夫しようとする”意志”によって、己の魂は大いなる次元を移動して、”そこから翻訳される幻”は根本から変容してしまうからなんだ。
この「ひとつの完全に満ちたもの」は、文脈によって言い方を変えているのでそこは留意しておこう。大いなる流れ、自然の次元、生命エネルギー、愛、ワンネス、etc.. 様々あるけども、たとえばワンネスというのは、形の次元ではないということだ。
buruku10さんへの回答
──
間違えてはならないよ、相手の状況や立場を考えずに一方的に思いをぶち撒けろということではない。もちろん襲いかかれとか奪い獲れということでもない。
それらもまた”ここにあるもの”を見失っているわけで、不安や欲求を満たす”自分”の都合のために、相手の上に汚れた土足で立っているにすぎない。そうなると「神との和解」は成立しない。ゆえに”あなたの世界の法や天罰”に裁かれることになるだろう。
shiyさんへの回答
──
さて、いくつか並べてみたけども、こんな具合にあなたのその純粋な質問については多くの場所で述べている。
たとえばあなたがそのように疑問するのは「疑問している己自身もまた幻である」ということを見落としているからだろう。
するとあなたのいう「すべてが幻ならば〇〇をしてもいいのではないか」という問いは、そのように問う自分だけは棚上げされていることになるね。
たとえばその〇〇が悪意を働かせることだったとしたら、なぜそのように悪意を自分は考えているのだろうか。
つまり”自分”とは、幻のなかに生じた幻であり、だからこそ自らが幻であることになかなか気づけないんだ。
そしてここに最も重要な点があってね、これもいつも話していることだけども、すべてが幻であり、つまり幻の外側には何も存在しないからこそ、この幻が”現実”だということにある。現実こそが幻なんだよ。
あなたは現実を生きている。それは”幻”を生きているわけで、ずっと夢をみているということだ。
夢に重ねた話もよくしているのでそれもひとつだけ引いておこう。
──
たとえばうたた寝で夢をみることが多いかもしれないが、1分間のうたた寝でさえ、突如として自分はなにかをしている状態に置かれているだろう。
なにかに焦っていたり、不安になっていたり、誰かからの頼まれごとを遂行しなければならないと急いでいたりする。
そうある自分や世界はまったく疑うこともなく当然のようにある。なぜ疑う余地もないのかといえば、夢見そのものが凹凸の現れであるからだ。
その自分は夢のなかでの記憶を持っているからこそ、何かの用事をしなければならないと思っている。つまり「いまはじまった夢」であるのに、夢がはじまる以前からの記憶を持っているわけで、自分はそれを信じきっている。信じてるからこそ、その夢の”現実”は成り立っている。
そしてまた、登場する人たちの言動に自分は悩んだり考えたりしているけども、ところがそうして己を苦しませているその相手を「しゃべらせている」のは、”あなた”なんだ。
すべてはあなたの精神世界であり、それが”夢の現実”として結ばれている。
とはいえ夢のなかで、会ったこともない人や見たこともない風景が出現したりもするだろう。なにより、相手が何を言い出すのかなんて、たとえ己の夢だといっても予測できないし、自分には考えもつかないようなことを語り始めたりもする。
ここによく話す「シャボン玉の階層」がある。
このあなたの心の世界は、より大きな心の世界のなかにある。そのより大きな心の世界から観念や概念を拾い込んでは、それがあなた独自の意味づけとして、あなたの心の世界で役割を与えられる。
もちろんこの意味づけは、自分自身から与えていくときは世界創造となるけども、大体は無意識のうちにそのポストを与えられるのであって、じゃあそれはどういう仕組みかといえば、それはすでにあなたの心に存在している他の事柄との関係性によって決まるんだ。
このいわば官僚制のような合理的な規則に従って個々に専門的な職務を与える自動構造こそが、信念体系と呼ばれるものであり、つまりあなたの”現実”そのものにある。
──
この回答からは時間の流れもさえも幻であること、つまり己の魂のなかでのみ時間という錯覚があること、そして己の魂とは、より大きな魂のなかに生じた無数の泡のひとつであることを伝えている。
というわけでね、先日に送ったメールや前回のコメント回答もそうだけども、あなたは”より深く”読み取っていく必要がある。それがこの夢を変える”手がかり”だからだ。
あなたが「このサイトでは現実は幻想だと言われますが・・」と話しているときのそのサイトとやらは、私の書いているものではないだろう。あなたの解釈の範囲によって書き換えられたものにある。
その自らの信念構造を崩すには行間を読み取っていかねばならない。これは日頃の対人関係や生活においてもそうだ。
眠っているときの夢は一度にひとつしかみれないのと同じで、いまあなたがみている現実もこれしかない。
だがそれこそが幻であることを表明しているわけで、途中でも話していたように、棒で頭を叩いて痛いならその痛いことが幻なんだ。
だから自分だけを棚に上げないようにいつも注意しておく必要がある。
つまり「すべてが幻なら・・」という問いの裏腹には「もしそうなら自分にとって都合のよい世界を歩めるのではないか」みたいな私利私欲が敷かれていたりするわけで、ところがそのように私利私欲に駆られている自分がすでに幻にある。
あなたはそんな私欲などないとしても、しかしこうして質問している自分もまた、幻なんだ。
質問できる世界もまた幻であり、つまり私はあなたの幻にある。あらゆることがそのような関係性にあり、そうしてあなた独自の世界像が構築されている。
そんな合わせ鏡の間に浮かんだ世界から抜け出すには、もちろんその世界のなかでの合理的手段では歯が立たない。むしろそれは世界をさらに強化するだけだろう。
幻であることを見抜くには、幻の”外側”に出なければならないんだ。だが話したように外側に世界はない。
つまりその世界でないもの、形すらもないものこそ、本当に柱にしなければならないのであって、そうしてようやく、この形ある世界との最善な関わりかたがみえてくるんだね。
最後になるけども、私たちそれぞれの魂は、大きな魂のなかに生じた無数の泡のひとつひとつであり、それゆえ私の泡からはあなたの泡のなかを知ることはできない。
本当にあなたと触れ合おうとすれば、”大きな魂”を経由することになる。
だがそれはどういうことだろうか。
たとえばあなたの姿は”私の泡のなか”の映像として映っている。だがそれはあなたの知る姿ではない。
あなたにしてもそれは同じで、あなたの知るとおりの私があなたの世界に存在しているだろう。それは私の知る私ではない。
たとえあなたがどこまで私を追いかけても、やはりあなたの知る私なんだ。
だけども「あなたの解釈の範囲に書き換えられている」と”あなたに諭す私”があなたの世界にいるわけで、つまりあなたに何かを伝えようとしているすべての存在が、たしかにあなたの潜在意識が与えた姿や立場ではあるが、しかしその姿を通じて、何かをあなた自身に気づかせようとしていることに、つまりあなたの世界という文脈の”行間”から漏れ出している光に気づかねばならない。
私だけではないよ、家族や友人、また本や何かで知る偉人たちもそうだ。
たとえば先日の手記でもそこに触れている。
──
家族や友達やちょっとした知り合いから
不思議な体験談を聞いたりすることがあるだろう
だがその不思議な体験は
まさにそれを聞いてるあなたの体験であって
だからその人の体験とは
あなたの人生の出来事にある
病院勤務や弁護士にしろ
また美容系のサロンや水商売にしても
たくさんの人と直接に語り合ったりする仕事は
“この世の秘密”に早々に気づいたりするわけで
つまり「いろんな人生があるなあ」と思いながら
このまま自分が大して特殊な体験もせずに
人生は終わっていくのかな考えたとき
「ああそうか」とまさにこの壮大な人間劇場こそが
己の人生だったのだと知るんだね
するといくつかの秘密が明かされることになる
ひとつは”他者は実在ではない”ということ
その他者があなたなのだから
これを逆手にとって
「自分は実在してますよ」とあなたが私に訴えても
その私の存在はどこまで追いかけても
あなたの体験なんだ
これは”私たち”というのが本当は
大きなひとりがみてる夢であることを示してる
(私たちという”夢”)
──
つまり無数の泡を浮かべている大きな魂、この手記でいえば「大きなひとり」が私たちという個別の夢をみているわけであって、じゃあ先のとおり、私があなたと本当に触れ合えるときというのは、私はこの個別の魂のなかで何らかの手段を講じることからではなく、この小さな魂を解き放ったときにこそ、もうその時点であなたとひとつになれているということなんだ。
わかるかい、大きな魂とは、あなたであり私である。
このことを忘れないでいるといいよ。
繰り返しておくけども、あなたの魂に映る他者はすべてあなたの魂に描かれた存在にある。つまり幻想にあるが、しかしその見かけの背後にある「姿なきもの」は幻ではない。もちろん世界があるのは幻のなかでのみだから、そこには人の姿も物理的な世界もないがね。
だからもしこの現実=幻が悪夢であるならば、いかにして良夢に変えていけるか、その心の努力が必要だということだ。
これもまたあちこちで話しているのでそちらに任せておくけども、たとえば毎晩悪夢にうなされないようにするには、日中どのような心がけや生活のあり方をすればいいのか、その模索から試行錯誤していくだろう。
そうしてやがて夢の内容が変わったなら、それはこの”現世”、すなわちこの幻が変化することも同じだということだね。
同じ素粒子、原子からなるにも関わらず、コップを壊すことは罪ではないのに、人間に危害を加えることは罪なのは何故なのか?という疑問を抱いたので質問させていただきました
同じクオークからできているのになぜ同じことをしても片方は罪になるのでしょうか?
rgy961さん
──
コップを壊すことは罪ではないのに、人間に危害を加えることは罪なのは何故なのか?という疑問を抱いたので質問させていただきました
──
それもよい質問だ。
だけどもやはり同じ回答になるね。
まずそのように問うている自分が幻なんだ。そして”幻しか”ない。
つまりあなたのこの幻想のなかで、コップを壊すことは罪ではなく人間に危害を加えるのは罪となる。
だがそれは良いことだといえる。あなたの世界には倫理という幻想があるからだ。ならばそれに従うべきだろう。それは”あなたの法”なんだ。
ついでに言っておけば、あなたが物理学に関心があって、それはいまこうして質問の題材にできるほどの値打ちがあるのだけども、しかし私の近所の婆さんはそこに価値を持っていない、というより原子すら知らずに生きている。
つまり彼女の世界には、あなたと同じ問いが存在しないということなんだけども、まさにここに幻の原理が見え隠れてしてるわけだね。このことは重要なので頭に入れておこう。
そしてもうひとつある。
人間に危害を加えることが罪であるように、コップを壊すことに罪を感じる人もいるかもしれないということだ。たとえば私がそうだ。
つまりあなたの問いは私や婆さんの問いではなく、あなたの世界においての問いにある。
そしてその問いを”解くため”にあなたは私に質問している。これは先にも話したように、
──
だけども「あなたの解釈の範囲に書き換えられている」と”あなたに諭す私”があなたの世界にいるわけで、つまりあなたに何かを伝えようとしているすべての存在が、たしかにあなたの潜在意識が与えた姿や立場ではあるが、しかしその姿を通じて、何かをあなた自身に気づかせようとしていることに、つまりあなたの世界という文脈の”行間”から漏れ出している光に気づかねばならない。
私だけではないよ、家族や友人、また本や何かで知る偉人たちもそうだ。
──
これは言い換えれば、本当のあなた(先の回答での大きな魂)が、小さなあなたに気づかせようとしているんだ。あなた自らに湧き起きてきた質問によってね。
ちょうどharsppy10さんやburuku10さんのところで”知性”について話したので、少しだけ引いておくよ。
──
人間を含めてこの宇宙の隅々まで「知性」が行き渡っている。植物も星もそうだ。たとえば人間の場合なら、不意に湧き起きてくるひらめきや直感として”知性”は現れる。インスピレーションだね。
個的な視野においていえば、知性の発現そのものは因果関係がなく論理的でもない。しかしそれに従うと人生が大きく変化しはじめる。
なぜならその正体とは、この宇宙の調和そのものであるからだ。つまり個とは全体の部分であることが知性によって明らかとなる。
その意味で、あなたが感じている「思考の選択よりももっと深い部分で、何かに動かされている」というのは運命論に見えながらも、実はそうではないんだ。
──
さて、あなたは”私に”質問をした。
それはなぜだろうか。
もちろん日頃の身近な人たちにはできない質問だからだ。そんなことを尋ねても、彼らはそもそもその概念を持っていない。
だがあなたはそのことが気になっている。何か人生を変えるヒントがあるような気がしている。だけども、それはいろんな矛盾を孕んでいるようにも思える。
なぜなら”あなたの世界”の合理性において、「すべては幻」という話はその合理性が保たれないからだ。
だがそれは古典物理学と現代物理学の関係そのものだといえるね。互いに不合理な関係にあるにも関わらず、どちらも物理的に実現された世界を構築している。
どういうことだろうか。
それは物理学自体がそもそも「見かけを超えたもの」を捉えようとする熱心な探求であって、定義や仮説はその解釈の違いにすぎないこと、もっといえば”認識”そのものの違いによることがひとつ。
そしてこれもよく話しているように、ある解釈を前提にして、その上にどんどん積み上がっていくゆえに、やがてはモノサシそのものではなく、モノサシを図るモノサシばかりが学問化していくことになる。
たとえば、水の分子における酸素原子と水素原子2つの結合角は104.5度にある。
自然はこの角度を瞬時に弾き出して結合するが、しかし同じ計算をどれほどの高性能なコンピュータにやらしても時間がかかることになる。
いったいどうやって自然は一瞬にして計算を叩き出すのだろう?
もちろんこれは人間がモノサシのほうから捉えようとしているからの疑問であって、そもそも自然に計算などないんだ。
これは自然災害が自然にとってなんの脅威もないのと似ている。
言いかえれば、自然はその内側ですべてが同時に動いているのであって、雪の結晶からオーロラ、天体の周期運動、なにより人間や食べ物も星の素材からできているといった私たちが自然現象と呼ぶ神秘的な秩序に沿った流れこそが、”知性”と呼んでいるものにある。
だからコップがよくて人間がダメなのはなぜ?という視点そのものが、もうモノサシにモノサシを当ててみているわけでね、たしかに”専門家”になりたいならば、その100点満点を追求することになる。今回の問いならば倫理学者や心理学者、政治学者といったところだが、こうしたことも以前あなたに話していたことだ。
つまり”倫理”にしろ”物理”にしろ、私たちが作り出した概念であるわけで、その概念のなかにある矛盾を解くには、そのなかにいては不可能なんだ。
なぜなら矛盾とは、そこに整合や合理があるからこそ生じてくるものであり、その整合や合理性の基盤それ自体が解体されねばならないからだ。涅槃の書のロゴがクエスチョンマークを象っているのはそのことを示唆している。すべての疑問は疑問する己によってのみ現れるのだとね。
つまり原子も素粒子も人間が与えたモノサシのことであって、そのモノサシにこだわっている限りは、その原子や素粒子として捉えられている当のものを捉えることはできない。
上で人間に危害を加えることが罪であるように、コップを壊すことにも罪を感じると話したのは、それはあくまで”私”にとって言えばだが、それは”知性”に従っていないからにある。
つまり本当の意味での罪とは、この形ある世界をこのように表現している「形なき流れ」から外れることであり、たとえそれが人間世界の見かけ上の秩序に遵守しているとしても、”それ以上の秩序”を見出している必要があるということだ。
それこそが行間から漏れ出す光のことだね。
だからたとえば意図的にコップを壊しても罪には問われないかもしれないが、しかしそのときに己の心にある違和感があるならば、それは人に危害を加えたときの罪悪感と同じなんだ。
だが繰り返すように、こうしてあなたに見えている形ある世界はすべて、あなたの幻にある。
ゆえに幻のなかでの葛藤に疲れたなら、漏れている光をみつけてみることだ。
回答はこんなところかな。
だがいつも話していることばかりなので手記や他の方への回答をより深く読み進めてみることをおすすめしておくよ。
もう少し詳しく説明して欲しいんですがね
他の手記でもそうですが、なぜフワフワした抽象的な説明しかしないんですか?
自分さんのフワフワした意見を一方的に聞かされてるだけのような気がしますが
rgy961さん
やあこんにちは。
──
もう少し詳しく説明して欲しいんですがね
他の手記でもそうですが、なぜフワフワした抽象的な説明しかしないんですか?
──
そのフワフワした抽象的なものを伝えるのが私の仕事だからだよ。そしてそのフワフワしたものをいつも”詳しく”話している。
だからその質問はクリーニング屋になぜクリーニング屋なのかと尋ねているようなものだね。
あとこれもいつも話していることだが、科学や社会など一般的な題材を通じて、私は”それ”を伝えているけども、たとえば科学自体は常々アップデートを繰り返しているわけで、それゆえ以前まで真実だったことがもうそうではなくなったりもする。
それは結局は科学とは新事実の発見ではなく、新しい概念を創造しているからなんだが(こうしたことがあなたにはフワフワに聞こえるのだろう)、同じ意味ではビジネス書なんかもそうだね。2年もたてば内容はもう古くて役に立たないことが多い。
すると「科学的な裏付け」に依拠しているような人たちというのは、時代の流れに翻弄され続けることになるだろうし、同様に「これには科学的な根拠があるから正しい」という人たちも常に「正しいもの」がころころ変わることになる。
じゃあそれらを題材にして話している私もまたそうした時流にしがみついて、言ってることをコロコロ変えるのかといえばその必要はなくてね、なんの問題にもならないんだ。
なぜなら科学が新しくなったなら、その新しくなった科学を題材にして相変わらず”それ”を伝えるだけだからだ。
これをたとえばあなたの人生や現実に重ねてみたとき、つまりあなたが具象の整合や合理性ではなく、抽象的な”それ”を柱にしているとき、人生はブレることなく、また道を誤ることもないわけでね、まさにその”それ”について私はいつも手引きをしているんだよ。
だから科学であれ料理であれスポーツであれ、それらは私の仕事においてはハサミやホッチキスと変わらない。
だけどもあなたいう「フワフワしたものではなく、具体的な話をしてほしい」というのは、ハサミやホッチキスについて語れということだろうから、それは先日あなたに送ったメールのとおり、そうした各々の専門家のところに行くべきだろう。
しかしそうした質問を再び投稿するということは、ちゃんとメールや以前の回答などを読めていないのかもしれないので載せておくよ。途中に何度か引用があるので大外は*マークにしておく。
*****
>他人に自分のやりたいこと、自分の領域や時間に関して邪魔されたくないのです
もちろんそのことにもコメント欄で答えているよ。
だがそのことが書かれていない、つまり自分の求めている返事が書かれていないから、こうしてメールを送ってくれているんだね。
そこであなたのなかでひとつはっきりさせておかねばならないのは、涅槃の書はスピリチュアルや宗教の観点で回答される場ということだ。
あなたが直面している日常や社会的なこと、他にもたとえば、政治や法律や経済などにしても、また各種科学にしても、そうした「現実という表面に現れているもの自体に対する参考意見」を求めたいなら、各々の”専門家”に尋ねてみるといい。
変なたとえだけども、あなたは水道の修理をしたいのに、クリーニング店にそれを頼んだりしないのと同じにある。
つまり”現実”というのは「現に実った世界」であって、じゃあ実っているものに困っているのなら、実りそのものに精通しているお店なりに駆け込まねばならないわけだ。
今回あなたが話しているのは、具体的なところはわからないけども、身近な人や環境に自分の自由が阻害されているからなのかもしれない。
“その相談” は、ネット上でそれ自体について語ってくれる相談掲示板や、そうした相談についての専門家や、または行政などの社会サービスに行くのがいくのが”現実的”であるはずだ。
そもそもあなた自身が”現実”についての意見を求めているのだからね。
しかしそうした現実的なことを解決しようとして、現実的な相談を求めても、きっと根本的な解消にはならないだろう。
いやもちろん自分の知らなかった専門知識が備わって、ある程度の心労負担は軽減するかもしれないし、一時的にはそれは解決したりするかもしれない。
しかしたとえばあなたと同居している存在が問題ならば、要するにその人がいなくならなければ根本的な解消にはならないわけだ。
じゃあたとえば、その人をいなくするには「どこに」相談したらいいのだろうか?
それもまた”現実的”な相談窓口があるのかもしれないが、たぶん良心の呵責を感じさせるような、そんな”現実的な手段”だったりするのだろう。そんな窓口があるのかは私にはわからないがね。
前にあなたにも話したように、たとえば科学にしても常に”その限界”に直面する。
その限界とは何かといえば、結局は”現実的”な観点で捉えようとするほど「何も説明できなくなる」ということだ。
だから次々と新しい定義や概念を創造し始める。
もちろん勝手に創り出すわけにはいかないだろう。これまで人類で定義されてきた理論との整合を保たねばならないからだ。
そしてそれゆえに、あまりに斬新な理論を発表すると、その科学者は業界から締め出されることになる。
なぜなら他の学者たちのそれまでの立場を崩してしまうことになるからであって、だから学者同士でうまくやっていかねばならない。実際アインシュタインさえも散々な誹謗中傷のなかで一生を通じて心を病ませていた。
だが科学はそうしたバイアスを超えなければ、新しい説明ができないわけでね、しかしそれはまさに変な話だろう。いったい人間は、何を説明しようとしているのか。
もちろんそのためにいまから科学を勉強する学生たちは、とても分厚い教科書を読まねばならない。
これもコメント欄で話したように、宇宙物理学ならば、たしかにその現象を記述する数式や理論はぴったり適合するだろう。
だがそれは人間の認識を原理とした数式を立てたから当たり前なんだ。つまりそれは宇宙の原理ではない。なによりその当の宇宙さえも人間の認識の産物にある。
コメント欄から引いておくよ。
──
解釈や概念を”私たち”が創造しているにすぎない。わかるかい、宇宙もまた私たちの認識の産物なんだ。
むしろこうした認識の創造こそが天地創造なのであり、私たちはそうして”自ら”創り出した認識世界のなかで、バランスを取りながら存在している。たとえば科学の理論なんてのを自ら認識した世界のなかで考案し続けている。
もちろん”専門家”はたくさんいる。そうして人間は人間の世界で生きている、というより人間は人間の世界しか認識できないわけだね。
つまり奇跡とは、宇宙にではなく私たちの創造のほうにある。
──
そんなわけだから科学に限らず、政治も経済もやはりその都度の人間の認識を原理にしているがゆえに、一向に決着がつかない。
当然そうなる。なぜなら本当にここにあるものをその通りに記述したら、それは人間にしてみれば、意味不明なものでしかないからだ。
だからたとえばSNSなんかでもいろんな議論が終わらないわけで、そこに参加している人たちは、まさに専門家のように「現に実ったもの」についてひたすら意見を述べているが、科学と同じで、そうした説明のレベルで議論しても、堂々巡りをするだけにある。
これはあなたの現状も同じ。
あなたは自分の現状について、いったいどうすればいいのかと悩んでいる。
それは”現実”というすでに実っているものについて、あなたなりの”説明”をもっているからであって、そしてより納得できる専門家の説明を求めている。
だけども話したように、”専門的意見”はまさにそれが表面世界の産物ゆえに、表面的な対処で留まり、”根本的な解消”にはならない。
あなたの具体的なことはわからないから、あくまで推測で話していくしかないけども、自分のやりたいことを邪魔する人や環境があって、それをどうにかしたいとあなたは考えているわけで、そしてあなたは涅槃の書にその現実的な説明を求めている。
私が「現実的な対処では根本的には何も変わらないよ」という話を返しても、あなたは「そういうことを聞いてるのではない、これこれこうなんです」と現実的な説明をやはり求める。
ならば、上でも話したように、クリーニング店ではなく水道屋に駆け込むべきだ。つまりスピリチュアルや宗教の観点ではなく、より地上的な観点での各種専門家に話を聞いてもらうべきだろう。
コメントでも話したようにそれは私の仕事ではない。
だがね、昔の私もあなたと同じで地上の専門家、というより各種の専門的な知識を備えて、それで現実をどうにかしようとしていた。だが社会学や経済学、政治や法律を学んでも、私が置かれている現実はなにも変化がない。苦境は苦境のままだった。
そんな苦境ゆえにそれらの勉強も進まない。これもあなたと同じかもしれない。
その勉強を進めなければ、その苦境そのものを変えることができないと思っていたから、ひたすらジレンマに押しつぶされていた。
そうしていろいろ学びが進んで、たしかにそれまでなかった知識は備わった。だが日常の”重さ”はそれらはなんの意味もなかった。
もちろんあなたの場合なら、たとえば同居する人に自由を奪われているならば、ひとり暮らしを始めたりなど、自由を奪う何かから距離を置くことでそれは解決するかもしれない。だがそれができない事情もあるだろう。私も事情に縛られていた。
そしてそんなときに、そうした諸々の知識自体の存在意義について考えるようになったんだ。
水は100度で沸騰する。だが100度とは何か。それは人間が与えた基準であって、そもそも”自然界”は100度で水が沸騰なんてしていない。
こうした人間が認識の原理としている「物差し」で、政治も経済も、そして私が置かれている日常もその”解釈”がなされていた。
そんな次元でものをみているかぎりは、どこにも抜け出せないとわかったんだ。どう観察してみても水は100度で沸騰するのだからね。
つまりいつの間にかバイアスに支配されていることが、いろんな知識を備えた果てに気づいたんだ。
これは去年の暮れにあなたにメールした話だね。引いておくのでゆっくり読んでほしい。
──
もし数学にしろ科学にしろ、単にテストの評価だけのためにそれを追いかけていたのなら(その理解に留まっているならば)数学や科学の独自の公式を生み出すことはできないだろう。
それは人生も同じく、既存のあり方から大きな変化をすることはできない。
人生の災難や不幸も、それは己がそのように規定していることであって、人生の構造を(概念を)を造り直すとき、それは災難や不幸ではなくなるからだ。むしろそのような”出来事”が起きてくる筋道もなくなるだろう。
というわけで、この「テストで点数を取るという”出来事”」の枠組みから抜け出して、本当の意味での学問の意図を理解する必要がある。
すべては”見かけ”であり、つまりビタミンは本当はビタミンなどではない。
私たち自身である分野を作り出し、その分野という小さな囲いのなかで眺められる「流れ」をビタミンと定義しているにすぎない。そうしてさまざまな定義が組み合わさって、ひとつの学問が創設される。
いわばビタミンは仮定的な名称であり、当然他のすべてもそのように仮の名前を与えることで、その枠組みのなかを研究することができる。
だが栄養士に尋ねてみるといい。ビタミンってなんですか?とね。
その人は”ビタミン”がどのような作用を持っているか、またどのようにして生成されるかを説明してくれるけども、ビタミンそのものがなぜ存在しているのかを答えることはできない。
つまりビタミンをビタミンとして語るのは、人間が創造した世界のなかに留まっているだけなんだね。
ある枠組みを作り、その枠組みのなかで「大いなる流れ(生命エネルギー)」覗きこんだとき、その流れの一部分がビタミンとして定義され認識されているんだ。
もちろん栄養学で100点を取るには、その枠組み自体を丸暗記しなければならない。だが繰り返すように、それは本当にここにあるものを捉えているのではなく、あくまで翻訳された表面で100点を取ってるだけにある。
現実生活での”100点満点の成功”もまた、これと同じ。
ゆえにどのような見かけ(翻訳されたもの)であっても、その”翻訳元”をそこに見通している必要がある。それこそが採点や評価を超越した”完璧な答え“だからだ。
これもよく話すことだが、むしろ学問を探求した果てにあるのは、結局は学んでいたそれは幻想だったと気づくことなのであって、幻想だと気づくからこそ”その分野”をマスターしたことになる。
これをあなたの人間関係や日常に置きかえてみれば、どうすれば円満で満ち足りた生活になるのかがみえてくるわけだね。
──
私が気づいたのは、各種専門分野がそうであるのと同じように、私もまたある画一的な説明をこの世に与えていたということ、そしてそれはコメント欄でも話したように”認識の創造”であり、つまり目の前にある人や物事それ自体を私自身が生み出していたということだ。
わかるかい、現実は己が創り出している。
というわけで、何度も繰り返してすまないが涅槃の書はそうした”現実”の回答をする窓口ではない。それはあなたもわかっているはずだ。
しかしそれはどういうことかといえば、あなたのみている現実は「あなたの心が生み出している」ということだ。
どんなに面倒な物事がそこにあれ、また自分のやりたいことを邪魔する人がそこにいるのであれ、それはあなたが生み出している。
「そんなこと望んでない、自分は自分のやりたいことやりたいだけ、むしろそんな邪魔は放り出したいのに、それは違う」とあなたは思うだろう。
だがそうじゃないんだよ。
むしろあなたがそう思っているだけ障壁は現れてくる。
──
よく話すことだが、人がお金持ちになりたいと願うとき、当然いまお金持ちではないからそれを願うのだけども、すると「お金持ちになりたい」と強く願うほど、いま金持ちでないという現状を強く念じていることになる。
するとお金持ちではない世界が叶い続けることになる。これが引き寄せの法則であり、むしろ実現しているこの世界は、ずっとその願望が成就し続けているその成果にある。
──
これは言いかえれば、それが好ましいものであれ、好ましくないものであれ、どちらも現実を創造する「同じ力」であるわけでね、つまりこうした魂の原理をうまく捉え直して好循環へと逆転させることが大事なんだ。
そもそも、いまあなたが問題にしていないことや、やりたいことが「ある」ということも含めて、この世がいまこうしてあるのは”あなたの力”なんだ。
あなたがすべてを生み出している。
だが金持ちになりたいがゆえに金持ちにならない現実が続くように、不幸になるものあなたの実力であり、しかし幸せになるのもそれとまったく同じ力にある。
それゆえ現状が根本的に”解消”するには、それはあなたがそのように新しい世界を”創造”をしたからであって、真の意味での解決とはこのことなんだ。
だからあなたがコメントに投稿してきたように、現実的な問題について何らかの”現実的な解決”を求めるなら、それは各種の”専門家”へ相談するといい。しかしその場合は、その時々を対処するだけであって根本的な解消には至らないだろう。
だがもし根本的に解消したならば、その専門家の知恵を得たことによって、あなたの内面が変わったときだ。
涅槃の書は、いましている”この話”をあなたに提供する窓口にある。
そのため現実的な質問については、私からは同じ回答ばかりとなるわけでね、それなら、他のコメント投稿者とそれに返信している私の対話を眺めているなかで得られるものと同じだから、あなた自身のことだと思って、他の人たちのコメントを読み進めてみるのもいいだろう。
実際、その人たちとはあなた自身なんだ。
*****
メールには追記もあるがそれは省略しておこう。
さて、もうひとつあなたが話していること、
>自分さんのフワフワした意見を一方的に聞かされてるだけのような気がしますが
これもよい提起にある。
まず大事なのは、クリーニング屋にしろ歯医者にしろ、また今日の空模様や、さらにはあなたが自分の体としているものにしても、すべては一方的なものだということだ。
物理学や数学にしても、それは自然という一方的なものを解釈したものであり、そしてまたそれら学問の公理公準にしても、あなたが本を開けば一方的に読み聞かされるものだろう。
そしてそうした学問に関心のない人からすれば、その本を開いても、つかみどころのないフワフワした記述ばかりにしかみえないだろう。これが何の役に立つの?もっと実用的なことを知りたいのに、とね。
また、あなたが自分の意思のつもりで何かを始めたとしても、どうしてそれをやろうと思ったのかは受身であり、またその結果に何かが達成できるかできないかもまた、一方的に与えられるものだ。
そうしてみてみれば、この現実のすべては受け取るべきものばかりであり、あなたの言葉を借りれば「一方的なもの」しかない。
あなたは私のところだけでなく、どこへいっても一方的に与えられるだけであって、たまにそれを受け入れることができてるときは、一方的だと感じておらず、自分自身の探求や楽しみのように捉えているにすぎない。
これはあなたのこの世それ自体が”あなた”だということなんだけども、それはいまは置いておこう。
だから私があなたに仕事をしている限り当然それは一方的なものとなる。
言いかえれば、その”一方性”こそがその存在そのものであることを認めないかぎり、あなたが捉えるように、単に一方的に聞かされているとか、人生で直面する他の物事にしても人々にしても、一方的に押し付けられているようにしかみえないわけでね、もちろんそれが苦痛ならばそこから離れればよいだけのことであり、クリーニング店に用事がなければそこにいる必要はないだろう。
だがそれを踏まえてみれば、この世の捉え方が変化するかもしれない。(つまりこうした案内が”あなたの世界での私の役割”にある)
ちょうどurikoさんのところでも話したことだが、
──
たとえば歯医者は痛みに苦しむ患者を「治療しようか、それとも治療しないでおくか」なんてことはそもそも考えないわけで、彼らはそんなことが頭にあるのではない。
治療は歯医者自身にとってみれば、考えるまでもない当たり前の目的であり、つまり歯医者であることの本質とは「治療」ではなく「治療に向けてどのように治していくか」を考察しそれに向き合うことにある。
これはクリーニング店でも家を建てる大工でも、市営バスや料理店にしてもなんでもそうだね。
言いかえれば、その存在自体が目的そのものであって、だから目的そのものは変わることがないわけだ。
もちろん「これはうちではクリーニングできない衣類です」と断ることもあるだろう。
しかしそれもまた、その店が前提としている業務があるからこそ「これは当店の業務ではない」と言っているのであって、お客のほうがクリーニング屋に家の建築やお昼のチャーハンセットを注文しているのと変わらない。
つまりクリーニング屋や歯医者の”仕事”とは、彼ら自らの本筋に向けて、店の設備機器や培ってきた技術、ノウハウを駆使して全力を尽くすことにある。
だからいろんな衣類や歯の状態がやってきても目指す目的自体はいつも変わらず同じで、それらをどのように達成できるかの手立てを考えることが、彼らの仕事にあるというわけだね。
こうした「目的意識」は職業だけでなく、ハサミやフライパンもそれぞれ持ち得ている。
──
というわけだが、こうした独自の存在の集まりを包み込むものがある。
それはたとえば愛と呼ばれたりするけども、その愛から眺めたときに、すべてが対等なんだとわかるんだ。それぞれが独自の目的を持つ存在としての対等性だね。そうして対等であると知ることは自他の比較から解放されることへと繋がる。
そのとき、”自由”とは本当は何であるのかを実感するだろう。それは個としての観点にあるのではなくて、この全体そのものとしての己を見出したということにある。あなたのこの”現世”のことだね。
またリレーになりそうならコメント欄では制限がかかってしまうので、メールを送ってくれたいいよ。もちろんそこでも私のフワフワした仕事をさせてもらおう。
ただし前みたいに直接ではなくメールフォームからお願いするよ。