すべては思い込みである

悟り、チャクラ、いまここ、
なんでもいい
瞑想的にあることで体感できる境地
初めてその世界を知り得たときは
人生の荷物を下ろした感覚になるだろう

だがあなたのマインドは
このように言うときが来る

「ただの思い込みじゃないのか」

その通り
すべては思い込みだ
悟りも単なる思い込みに過ぎない
あなたが思い込んだ先にその境地がある

そしてその「思い込み」じゃない状態
つまりあなたの日常的な現実すらも思い込みなのだ
「思い込み」じゃない世界は存在しない
すべてあなたの思い込みで出来上がっている

だから「悟り」とは
あなたに新しい思い込みを
作り上げているだけのこと

すべては思い込みである
そこに気付くことが大切なのだよ

だからどんな出来事も簡単だと思えば
すべて簡単になる
「いつもは腹が立つことだけど
これからはどうでもいいノイズにしよう」とすれば
そうなる

それをすべてが「中立」であるとか
「受容」だとか
小難しい単語で括られるが
要は「思い込み」の話である

だがあなたは自らを矮小としているから
個人的な思い込みは
その枠を超えられないとしている
いいかい、
それすらも”思い込み”だ

そしてあなたは究極の世界に踏み入れるだろう
すべては思い込み
思い込みで世界は出来ている
それはどういうことか

現状はそのままで
いくらでも幸福になるし不幸にもなる
どちらにでもできる、そこに基準を置くことができる
それまで喪失や破産などネガティブとしていたことを
いくらでも変容できることに気が付く
そのエリアに立つことだ
もちろんそのエリアすらも「思い込み」だ

だから
「思考はどこまで行っても思い込みを超えられない」
この1行が物語っている
そうならば、そうなのだ

これはあなたの思い込みで成り立つ世界の
究極の魔法となる
思い込みがあなたの人生を左右することが理解できたなら
徹底的に思い込めばいい
それ以上の力はないのだ
簡単だと思えば何でも簡単となる

思い込み、想像力、
事実を言えば
あなたはその脳の外側は何も知らない
その脳の中だけの出来事があなたの人生なのだよ

だから思い込み、想像力
その魔法を存分に使いなさい
素敵な生を送りなさい
素敵に生きなさい
感動的な生き方をしなさい
いくらでもできる
すべてはあなたの「思い込み」ひとつだ

思い込みを超えたところ
そこに永遠のあなたがある
それはまた次にしよう

 


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  1. 罪悪感 より:

    思い込みや判断のつくりばなしを元にエゴが喚いてそこに真我が同化することによって現実で反映されてしまうということでしょうか?
    マインド的な質問でごめんなさい

    • 自分 -涅槃- より:

      >>罪悪感さん

      別のあなたのコメントにも返信したので
      同じ話となるが

      >思い込みや判断のつくりばなしを元にエゴが喚いて
      >そこに真我が同化することによって現実で反映されてしまう
      >ということでしょうか?

      あなたはその質問に対する解決を探しているが
      それが錯覚だ

      いいかい
      そこにあるのは

      「思い込みや判断のつくりばなしを元にエゴが喚いて
      そこに真我が同化することによって現実で反映されてしまう
      ということでしょうか?」

      がただ置いてあるだけだよ

      中に入らないようにしなさい
      外から眺めていればいいよ

  2. aruri7 より:

    こんにちは、初コメント失礼します。

    すべてが思い込み、本当にその通りだと感じます。
    特に、人の得意不得意は絶対に存在し、私自身にはできないことだらけだと思いこんでいました。

    でも現実だけを見たとしても、完璧に美しくなくても人気アイドルになれますし、絵が下手でもプロの漫画家になれますし、暗い性格でも芸人さんをやれたりしますもんね。
    苦手だから、向いていなかったからできなかったのではなく、自分の苦手意識が行動をできなくさせていたなあと思いました。

    焦って何も手つかずになって動けなくなったりしていましたが、
    この記事でもしかして皆なんでもできるのではと確信を持てたような?気がします。
    その技術をうまくできなかったり、世間の一般的な意見から全く外れていたとしても、結果なりたいものになれたり、人と巡り会えたりだとか、もっと楽しいことを見つけられたりとかしますよね。

    まだ焦りや、その「世間の意見」を自分が思い込んでいただけって本当??と色々な思考が矛盾して頭がこんがらがりますが、
    悩んだ末涅槃の書に会えてよかったなと思います。

    • 涅槃の書-自分 より:

      aruri7さん

      やあはじめまして。

      >完璧に美しくなくても人気アイドルになれますし、絵が下手でもプロの漫画家になれますし、暗い性格でも芸人さんをやれたりしますもんね。

      そうだね、その観点で気づくべきは「完璧に美しいからこそ〇〇だ」「技術が高いから〇〇だ」という”前提”で世界を捉えている自分にある。

      つまりその無意識に敷いている前提が、己の世界を創り出している。

      実際世の中そうだね。ある成功者がいて話をきいてみれば、たとえば実家が金持ちだったり、幼い頃から環境に恵まれていたことがわかると「ほらやっぱり」となる。

      だけども”その合点”は、自らで人生の可能性を潰していることになる。自分が所有している要素からしか、自分の人生を見出すことができなくなるからだ。

      だがもし自分が同じように金持ちで環境に恵まれていても、その人のように成功できるわけではない。つまり本当はそうした要素とは別の次元のなにかが必要とされるわけである。

      たとえばそうだね、映画製作にしろ小説にしろ「マクガフィン」という要素がある。

      映画監督のヒッチコックはこのように語っていた。

      「私たちがスタジオで「マクガフィン」と呼ぶものがある。それはどんな物語にも現れる機械的な要素だ。それは泥棒ものではたいていネックレスで、スパイものではたいてい書類だ」

      この意味がわかるかな。

      物語を動機づけるもの、その動機ゆえに物語は進行し、登場人物たちのドラマが生ずる。これは人間世界なら恋愛でも会社でも至るところにあるものだ。マクガフィンがすべてを動かしている。

      だがこの話で大事なのは、その”見かけ”のもの自体が重要ではないということにある。

      つまり「盗まれるものは”なんだっていい”」わけであって、作中で盗まれるもの自体にフォーカスを当てることはナンセンスとなる。

      あなたは何かの創作をしている人かな? そうでなくても人生全般にいえることだけども、大事なのは「いいもの」が人に受け容れられるわけじゃないということだ。

      「いいもの」が売れるわけでもないし、「いい人」が受け容れられるわけでもない。

      つまり”マクガフィン”であって、その個体ではなく、むしろ個体という障壁を払いのけて、全体の流れを通過させているだけでいいのだよ。

      だからまずは自我の執着を落とすことからはじめなければならない。そしてこの現実の背後に流れているものを感得することだ。

      どんな瞬間においても流れとひとつになっていること。それだけで”うまくいく”ようになる。

  3. aruri7 より:

    返信ありがとうございます。

    さすが涅槃さん、その通りで、私は創作をしています笑
    マクガフィンのお話を聞けてよかったです。今の自分にぴったりの話をありがとうございました。
    そして「いいもの」が売れるわけではない
    「いい人」が受け入れられるわけでもない
    ということを聞き、
    今までの努力はなんだったんだと悲しくなりました。
    このことはいつもどこかで、自分が認めたくなかったことでした。頑張ったぶん認めてもらえなければおかしいと憤り続けていたからです。

    そして真剣に悩むことはなんてバカバカしかったのだと思いました。
    何を悩んで何を頑張っても無駄でした。
    まさに自分にはいいものをつくれないと絶望したり、幼い頃からいい人でいなくてはいけないと言う思い込みがあり、
    思えば思うほど手は動かないし人が怖くなりました。
    マクガフィンにとらわれずに全体の流れをみていればよかったのですね。未来の心配ばかりで体が動かなくなったのはまさにその証拠でした。

    今までの自分はきっといなくなってしまいますが、これからは素直に生きてみたいです。実は人から好かれるときよく言われていた、一般的にはよろしくない性格面があります。自分ではよくわからないのですが、友達みたいになろうとしたり、欠点や恥を隠そうとするほど嫌われたので、そのほうがきっと素敵なのかもしれないですね。笑
    ただ他人に嫌われ傾向のときでもたまに好いてくれる方がいて、そういった方は居るとつい素になれるような人たちでした。

    このことも全部流れていただけなのですね。いくら空回りしていようが素でいさせてくれた人たちもいたということに気づきなんだか照れるようでうずうずします。自分でやっていると思っていたことが、実はみんなにやってもらっていたのでした。そしてそれで良かったんです。
    余計な我慢や努力をしなければむしろもっと全部うまくいってたのにと笑えてきました。きっと世界と一つになれたら怖いものなどありませんね。その境地にずっといられるように自分に注意してみます。涅槃さんがおっしゃられたように、どんな瞬間も流れとひとつになるようにしてみます。

    • 涅槃の書-自分 より:

      aruri7さん

      こちらこそありがとう。気づきのヒントとなったようでなによりだ。

      >自分ではよくわからないのですが、友達みたいになろうとしたり、欠点や恥を隠そうとするほど嫌われたので、そのほうがきっと素敵なのかもしれないですね

      そうだね、あなたがまず必要なのは、自分が何者であるのかを明らかにすることにある。

      「そんなことはわかっている」というかもしれないが、だがそれは他人や外の物事に「対する自分」であるはずだ。

      「他人を意識する自分」と「他人を意識していない自分」について考察してみよう。

      たとえば、人物の写ったポスターの前を歩く時と実際の通行人とすれ違う時は、あなたの身振りは変化するだろう。同様に、知人が訪ねてくるのをわかっていて部屋で待っている時と単にひとりで部屋で過ごしている時の、立ったり歩いたりする身振りも異なるものだ。

      この”他者意識”というのが時に、ひとりでいるときの自分をも支配してしまい、そうして本来踏み出すべき「自分自身の一歩」を踏み違えてしまう。

      そんなときは身近にいる、あなた自身が「惹かれる人」を参考にしてみることだ。直接的によく知っている人、仕事や知人関係などだね。

      「あの人はどうしてあんな素敵な行動が取れるのだろう?」「どうしてあんな魅力で溢れているのだろう?」

      そんな感じだと思うのだけども、それはその人の他者意識による姿ではなく、その人自身の純粋な姿に惹かれている様子にある。

      だからあなた自身も、純粋な自分、他者意識ではない自分を発見することを第一とするといい。本当に自分が好きなもの、嫌いなもの、本心から「こう在りたい」という価値観を明確にすることだ。

      そうして自分を知ったうえで、創作なり、他者の前ではその「本当の自分」を表わすだけ、ただそれだけでいいんだよ。

      それはあなたが元々持っているものだから決して枯れることはなく、また無限に溢れ出てくる。それこそが人を惹きつける力の「源泉」となる。

      話を高次に及ばせれば、つまりその力とは「自分」ではないのだ。自分が消え去るからこそ、力が湧き出てくる。つまり「自分」とは根本的に他者意識によって現れているということだね。

      その力とは、誰もに共通する背後に流れているもの、マクガフィン、それゆえに誰もが共感を覚えるものでもある。

      もちろん人は高次ではなく「意味の領域」で物事を捉えるから、そこから好き嫌いに分かれるが、それもまた洞察してみれば「どうしてあれほど嫌いだったものが、いまはなによりも好きなことに転じているのか」という理由は、それが「純粋なものであるから」となる。

      だから人に嫌われるのを怖がらないことだ。あなたを嫌う人は「その人の問題」であって、あなたの問題ではない。あなたは自分自身マクガフィンを表現し続けているだけでいいのだよ。

      やがて世界はあなたという輝きに気づきはじめる。

  4. aruri7 より:

    私が惹かれるあの人は、
    人前でもバカなことが平気でできるし、平気で怒ったり、泣いたり、迷惑かけるのに根は人一倍優しくて沢山の人に愛されていて
    素直で温かいです。

    (ちなみに、涅槃の書にたどり着いたのも、その人の言っていた言葉を調べていたときでした。)

    わたしはその人の
    「純粋な姿」に惹かれていたのですね。

    昨晩さっそくノートに、
    他人を意識しないとして、自分は何が好きか?嫌いか?を書いてみました。
    見返すと中にはまだ他人を意識しているかなという事もたくさん書いてました。
    ですが心から好きなことはちょっとわかりました。
    やってみたいと思うことも新しくできました。

    自己管理の法なども読み、予定や家事のリマインダーを設定してみました。焦りがなくなってきて、まだ二日目ですがすっきりしていい感じです。

    なんとなくキラキラしています。

    とても励みになる返信をありがとうございました。
    メールの方もありがとうございます。
    このまま手記をたくさん読み進めていきます(^o^)

    • 涅槃の書-自分 より:

      aruri7さん

      >なんとなくキラキラしています。

      よいことだ。

      少しイメージしてみてほしいのだけども、もしこの地球に人間だけがいなくて、動物と植物の世界だったとしよう。

      人間の介入がないから、ただ自然のまま、すべてが野放しに循環している世界だ。とはいえ、繁殖行為と食物連鎖で全体は「フラット」に保たれる。

      その「一定フラット」を不思議だと捉えるのは人間だからであって、だから科学や因果関係という物差しで法則性を図ろうとするのだけども、それはいつも失敗に終わる。あくまでその物差しの”なか”の解釈を見出しているにすぎないからだ。

      科学だけでなく、恋愛や人間関係も商売も日常のあらゆることも、それらは満ち足りた大きな「一定」のなかで、小さな物差しを当てて現れているものとなる。

      つまりその「あるがままで成り立っていること」そのものが、まさに「自然なこと」となるわけだね。

      ところが人間はどうしてもその”自然のまま”が信頼できない。理由は後述するが、あの手この手で操作しようとする。自然の流れではなく、物差しの小さな世界のなかを生きてしまう。

      それゆえに、本来享受し続けるはずの”充足”の軌道は歪んでしまい、今度はその歪みがそれ以上大きくならないように苦心し続けるという、本末転倒な状態にいつもある。

      もし人間が言葉を捨て去ったら損得も優劣も美醜もない、そればかりか私たちが知っているこの地球上の光景そのものが存在しなくなる。

      そのかわりに私たちが動物や植物、太陽や海と呼んでいるものが「本当の姿」を露わにするだろう。もちろん「言葉という翻訳機によってこの世を認識している私たち」には、その本当の姿を見たり触れたりすることはできない。

      たとえばあなたが親の手を握るとき、それは”親御さんの手”ではない。そしてその感触でもない。感触を超えた向こうに「言葉で表現できないもの」がある。それがこの自然の「本当の姿」となる。

      だから日頃見聞きしている「この世」が透けたとき、その安らいだ何かがそこにあるわけだ。いまもあなたはそれに包まれている。というより、”それ”はあなたの本当の姿でもある。

      そのように脳は言葉の構造によってこの現実を三次元映像として映し出している。つまり脳内で”この世”は表示されている。

      そしてここが大事なポイントなんだけども、その”脳”さえも言葉の産物であり、だから「私たち自身も本当は何であるのか」を私たちが確認する術はないということにある。

      それは言葉を捨てて、ただ感じるだけ、一切の自他の分離が解消され「すべてがひとつになって動いている様子」に委ねるだけとなる。そのときあなたは「自分」という存在を離れている。

      瞑想では思考を眺めよといわれるけども、それは言葉(=自分)を眺めているのだ。つまり人間が「あるがまま」を信頼できないのは、それは信頼できないというより、人間そのものが「言葉によって現れているから」にあるわけだね。

      いま私たちは言葉で交流している。たとえ話さずとも、言葉として互いを知覚する。それは自分の姿や身の回りの光景だけでなく、物事の捉え方や常識、価値観など、自然とは別の次元として「言葉が序列した空間」が常に変化しながら動いている。それが芸能ニュースやら世間話といった、私たちが日頃親しんでいる、この相変わらずの様相となる。

      その観点からすれば、この世も自分もひとつの認識のうえに現れているわけで、それで「ワンセット」なんだとわかる。すなわち、私たち各々の人生のドラマとは、言葉の世界でひとり相撲を続けているだけなのだ。

      また同時に、私たちは「真にあるがまま」にはなれないゆえ、どんどん”自然フラット“と乖離していく。それは電池の弱った置き時計になっていくようなもので、まともに針を刻めない状態に向かってしまう。

      「言葉」を浮遊する霊魂だとすれば、大いなる源泉から切り離されていくというわけだ。

      それが私たちの認識上では病気や精神的な不安、物事の不調として現れてくる。

      つまり人間は言葉の存在でありつつ、自ら作り出した言葉の世界に縛り付けられている状態にある。社会や権力、人間関係という言葉のなかに生まれた鎖でね。それゆえに本当に幸せな状態というのは、鎖から解放された状態にあるわけだが(本当の私へ戻っている状態)しかしそれは社会というルールから外れていることを意味する。

      心から笑いがこみ上げてくるとき、それは目の前の深刻な状況を一瞬にして無にしてしまう。むしろ、芝居がかった言葉の世界を見透かすからこそ、その背後にある巨大なエネルギーとひとつになり、それが大いなる笑いや嬉しさ、揺るぎない安堵として現れてくるのである。

      だからその「本当の私」、つまり自然の次元ともちゃんと触れ合って生命エネルギーを享受しながら、そのうえで人間の創造世界で暮らしていく必要がある。心身ともにナチュラルであることは、とても大事なのだよ。

      常に循環し、そして常にフラットが保たれている「自然の生命性」と、そして私たち人間の「精神の純粋性」をいかにして融合させるか、その交点に幸せの扉が開くわけだ。

      あなたがキラキラしたのは調和に近づいたからだね。

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