自然と人間

己の意識を自覚するには、意識以外のものを先に知るとよい。それは「」である。心臓や胃腸や肺はあなたの意図とは無関係に活動し続けている。ところでそうやって体が自動的に活動するためには、”体の外部”が必要となる。

陽の光や大気、大地の作物なんかがそうだね。もちろん重力や気温や大腸菌をはじめとする他の微生物も不可欠だ。それらがあるからこそ体は存在できているのであり、なければ体は存在できない。これは言いかえれば、体の内外はそれで「ひとつのサイクル」として在ることになる。そこに思考や感情の類はなく、サイクル自体はただひたすら機械のように動き続ける。

だからこの観点からすれば、体が存在するのは地球や太陽があるからであり、太陽系があるのは銀河系があり、銀河系があるにはより巨大な天体構造があるからに他ならない。つまり何光年離れた星の動きと、あなたの心臓の鼓動は連動しているということだ。この宇宙の”すべて”はリアルタイムに、いまここで「同時」に動いている。これが「自然」と呼ばれるものである。この自然を解明しようとするのが科学というわけだ。

あなたがさっきまでいた賑わう繁華街をあとにして、いまは自宅にいるとしても、いまも繁華街は賑わっている。あなたがそこで呼吸をしているのと連動して、街の人々、ネオンサイン、行き交う車のエンジンなどが寸分のラグもなく「同時に」動いている。

ただしあとで話すけども、あなたが街を離れた時点で、そこにあった街の光景(人々やネオンサインや車など)はもうその姿をしていない。だから「形のないもの」がいまあなたと同時に動き続けているわけだ。

自然という名の神

中世までの人々にとって神とは自然のことだった。神は災害を起こしたり愛するものを死なせたり、そうやって無慈悲に私たちから奪い去っていくけども、それは人間が犯した行為に対する「罰」だと考えられていた。つまり神による法(ルール)が予め存在していることが前提にあり、悲惨な事態が起きたときは、人間は”事後的”にそれを「自分たちの罰」だと判断していたわけだ。

つまり自然の猛威を神の怒りとして捉え、「あれは己の”あの行為による罰”だったのかもしれない」と推測して、太古の人々は自分たちの掟を作り始めた。その掟が人間世界の「良識」として発展してきた。そうして人々は真面目に生きていたわけだが、ここで「現代の科学者」は言うだろう。「昔の人々はありもしない神に従っていた。愚かなことだ。」とね。

だがその科学者さえも、そうした歴史を”事後的”に捉えているにすぎない。つまり中世もそれ以後も、結局人間は同じことをやっているのである。だから神がいるとかいないとか、そういう観念の次元を超えなければ永久に同じループを巡り続けることになる。

もちろん”現代風の科学的な見方”をすれば「悲劇」は単に自然の流れが起きていただけだ。人間側で勝手に「罰」だと思い込んでいたにすぎない。そうした人間の「取り決め」があるからこそ、神という「絶対者」が存在することになったのであり、それは実在しない監視者としての役目を果たし続けることになったわけである。

こうして書けば「じゃあ神など存在しないのだから、本当は悪事を働いてもいいんだ」と短絡的に捉えてしまえば、それもまた解釈の罠にはまりこんでいる。そういうことではないのだよ。

つまりいま私がこうして「~わけである」と話していることさえ、現代風の科学的視点での解釈であり、つまりどのように解釈をしても、それは真実を捉えることはできない。魚が産まれながらにして水中にいるゆえに「水を知ることができない」ように、疑問や解釈をしているという己自身をまず見据えなければならないのである。

なぜ人を殺してはならないのか

これは今回の手記の理解についても大事なところなのでもう少し話しておこう。

よく「なぜ人殺しをしてはらないのか」という議論がされるが、それは「人殺し=悪」という前提で考えても矛盾を繰り返すことになる。たとえば現代のように個人が自由に人生を作り出していける社会とは、別の観点でみれば、それは血が飛び散らないだけで奪い合いの場でもあるからだ。

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