一番大きなものに従ってみる

たとえば学校の校則や
勤務先の社則に違反すると罰せられる

だがそのつもりはなかったのに
不運が重って違反してしまうときがある

学校や会社が寛容でなければ
そんな場合も罰せられる

どんな事情であれ例外を許してしまうと
規則が成り立たないと考えるからだろう

もちろんその不運な人は
とても理不尽を感じることになる

つまり正しく生きる気持ちを持っていたのに
不運だけでそのような処罰を受け
本当の自分をわかってくれない

そしてその事情を知る人たちは
深く同情をするだろう

たしかに形式上のルールでは
その人は秩序を乱した存在だったが
表面を超えたところでは
ひとつも調和を乱してはいなかった

ただ真面目な思いで生きていた

ゆえにその人は間違えていたわけではない
だけども間違えたとされなければならなかった

ところがそのような人とは逆に
形式上のルールによって
悪しき人が罪を免れる場合もある

そうして強欲によって犯した悪事が
形式的に許されてしまうとき
それをみていた人たちは
「きっとあの世では罰せられるだろう」
みたいなことを思ったりする

この世という表面を超えたところの調和は
乱されているのだと感じるからだ

 

さてこの話からみえてくるのは
共感や同情といったものは
“この世の論理ではない”ということだ

どんな枠組みにもルールがある
むしろルールが枠組みそのものにある

学校に規則があるのではなく
規則が学校という実体を形作っている

あなたの日々もそうで
毎日繰り返している順序や習慣があるが
その順序や習慣こそがあなたの生活にある

だから生活や日々を変えたいなら
その規則を変えるだけでよいわけで

つまりルールはその枠組みを
保たせるためのものであり
それゆえどんな事情であれ
校則や社則や法律を違反した場合は相応の処置を
しなければならないというのはあるのだろう

だがそれでも意識しておくべきなのは
そういった個々のルールをさらに外側から
取り囲んでいる普遍のルールがあるということだ

たとえば「正論」についてよく議論されるけども
それはたしかに枠組みのなかでは正しい

しかし正論はその枠組みを超えたより大きな枠組みの
秩序や調和に反しているように感じられるがために
私たちは「ん?」となってしまうわけだ

それは言い換えれば
私たちは普遍のルールを潜在的に知っている
ということでもある

その普遍のルールは校則や社則や法律のように
文書で記述されているわけではない

私たちはそれを

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