ひとりで階段を駆け降りていく
“生きもの”に縁のある人生でね
私の場合は親族や知人が逝去したり
面倒がみれないというので譲り受けたりで
これまでたくさんの命とともに過ごしてきた
そうしてやってきた者たちはみんな長寿で
たくさんの思い出を留めながら
楽しい生を過ごしてくれたと私は思っている
つまり彼らは私よりも先に
天寿を全うしたわけだが
いつも思うのは
たとえば猫が階段を駆け降りている後ろ姿を
みているとき
私たちはみんなそれと同じように
ただひとりでどこかへ向かい続けていること
それは親しい人がそばにいても同じで
むしろその親しい人がいるという思いを抱いた
“孤独な己”が
薄暗い道の先にある光を信じて
線香花火のような命を全うしているようなね
そんな私たちの「生きもの」としての本性を
思い起こさせてくれる
それは我が家が薄暗い階段を降り切った先に
階下の窓の光で溢れているのもあるからだがね
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ところで光は
自らのその輝きを直接に知ることはできない
だから光は光を求めて彷徨うのだけども
“それゆえ”猫もメダカも光を探し続けていた
暖かい陽だまりや綺麗な水
お腹を満たせてくれるもの
人間ならば楽しいことや癒されること
そうして光に触れれば
再び自らを潤すことができる
だが階段を駆け降りる勇ましい姿や
まるで何かを夢みているように
水槽を泳ぎ続けている姿を眺める私にしてみれば
彼らが光そのものだったと知っている
そう、階段の向こうには光がある
それは階段の向こうには
ただ死が待っているということだ
たしかに栄養や健康という光は
生きていくことを延長させて
死を遠ざけているようにみえるが
いずれはやはり死に辿り着く
そのとき
もう光を求める必要はなくなる
それは栄養や傾向が失われて
衰退した先も同じだろう
もう光を求めて苦しむこともなくなる
求める者や苦しむ者はもういない
つまり死とは
光が光へと回帰することそのものであり
「生きもの」の姿とは
光が自らの本当の姿を思い出すまでのプロセスであり
形ある姿とはその経過の残像にすぎない
なぜならそもそも何もいなかったからだ
階段を降りきったその光のなかに
彼らの姿は消えていった
その孤独な姿はとても勇敢だった
求め続けながら
ときに苦しみながら
光とひとつになりたいという希望が
自らを前へと走らせていた
つまり精一杯生きることは
精一杯死んでいこうとすることと同義ゆえ
むしろ
Notes あなたの正体, あるがまま, 人生, 充実感, 奇跡, 存在, 生きる意味, 生き方, 生命, 神秘, 自由
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