「また一緒に生きてみようかな」

よくあることだけども
人生を埋め尽くしていたものが消えて
自由になったはずなのに

ところが取り巻いてる流れが変わって
以前より苦しくなってしまうことがある

たとえば子どもの養育や
親の介護が終わった途端に
それまで保たれていた収入や
自分の健康が崩れたりなんかだね

健康については
無理していた自分が解放されたからだとか
そんなことがいわれるけども
本当のところはそうではなくて

収入と同様に
“必要”として保たれていたものが
必要ではなくなったからだ

それは人生を保たせている「みえない力」であり
つまり義務や務めから解放された分だけ
宇宙から享受する”恵み”が減ったんだ

 

奇跡がもう起きない?

本来なら出費もさほど必要でなくなり
また世話に占められていた時間からも解放されて
晴れ晴れした人生のはずだった

ところが自分以外の生命を育て養うために
“己を守っていた力”が小さくなるわけで

よって変に油断してしまうと
トラブル続きになったり
以前よりも重たい個人的な苦悩を背負ったりもする

結局それは
以前と同じような感覚で
暮らそうとしているからであって

つまり以前みたいに病気もしない強靭な体や
奇跡のように注がれる想定外の収入なんかを
もうあてにしてはならないんだね

たしかにその意味では
無理していた自分が解放されて
体調を崩したり病気を患ったりするというのは
その通りだけども

だが一般的に理解されているその話は
もっと深いところに真の理由があるということだ

 

必要な分だけ与えらる

取り違えてはならないよ

享受する”恵み”が小さくなることは
不幸になったということではない

己を守っていた力が弱まるのは
そこまでの力を必要としないからであって

だから以降は
自分ひとり分の”保護”を超えないように
慎ましく暮らしていけばいいんだ

実際ひとりであろうが
誰かと暮らしていようが
身の丈を超えた生活をしていたら
いずれ破綻していくわけだからね

そのように捉えなおしてみれば
「必要な分だけが与えられる」というイメージは
鮮明になるはずだ

 

守られた生きかた

さてこの話を”逆向け”にしたところに
今回の手記の意図があって

それはつまり
自分ひとりの生命を養うために生きても
他の生命を養うために生きても
それは同じだということにある

他者の世話に追われている人に比べて
ひとりで生きてる人のほうが
幸運で自由というわけではない

仮にその人がよい人生を送っているのは
ひとりで自由だからなのではなく
分相応に生きてるからだ

言いかえれば
宇宙からの”恵み”の分だけで
ちゃんと人生を賄っているわけで
だからこそ快活で余裕に満ちているんだね

ゆえに状況は無関係であり
そして支える生命が増えても
たしかにそれは
日頃気づかない部分で支えられるから
自分は苦労ばかりにみえるかもしれないが
その世話に勤しむならば
なんだかんだで守られていく

そう、まさかの偶然や展開によってね

 

“宇宙”の養育

そしてまた以前と環境が変わったとき
たとえば子どもが手を離れたときや
ペットが先立って毎日に空白ができたとき

養い育てるために必要だった”恵み”の受給は
もうそこで終わるゆえに
生活を立て直す必要がある

つまり同じままで引きずってしまうと
心や体を病んだり
以前よりも時間がなくなったり
支出が増えたりするようになるから注意しよう

だがその観点からすれば
「もう何かを育てるのは大変だったし
最後はつらいしもう嫌だ」と思うだろうけども
再び自分以外の生命を
養い育ててみるのもよいかもしれない

「また一緒に生きてみようかな」とね

他の生命を育て養うことは
結局のところ
あなた自身を養ってるのであって

毎日は”大きい恵み

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