ずっと忘れているもの

「物事に動じない」というのは、ひとつの研ぎ澄まされた能力であり、その力はいろんなケースに適用することができる。

最もよくあるのは、不意の物事に動揺してそこで焦った選択をしてしまったがために、その問題がより大きなことになってしまったときだろう。

そしてあとで冷静になって気づくのは、そもそも問題など起きてなかったということにある。

つまり問題が”大きくなった”のではなく、動揺したことで自らで問題を作ってしまったという後悔が残るわけだ。

 

前向きな”対処”

しかしはじめのアクシデントがあったとき、いわばそれまで安定してた心の水面が突然の風に煽られて高波になっているとき、どうすれば平常心でいられるのだろうか。

なんらかの対処を打って、はやくそれを治めなければならないとあなたは考えるが、それはもちろん心が落ち着かず、そしてその落ちつかない心によって、さらに収拾のつかないことになるんじゃないかと不安になるからだ。

実際そうしてあなたはいろんな手を打ってきた。

それは”トラブルの対処”だけではない。

退屈な毎日のなかで、またきらきら輝いてる他の人々をみて、自分もなにか新しいことをしたい、自分を変えたい、という一見前向きにみえる気持ちも、実は”対処”としてやっていたりする。

ところが対処としてやっている限り、あまり実りはないんだ。

なぜなら後ろを向いていた気分が”対処”されてしまったら、そこで動き出す理由は失われるわけで、勢いは落ちてしまうからにある。

そうして「いろいろやったけどなんだか虚しい、どうせ新しいことをやっても同じだ」と、やる前から疲れ果ててしまう。

これは先の突然の物事に動揺する話と同じで、不安に駆られて”対処”した分だけ、よけいに重苦しいことになっている。

 

出来事を”あなたのもの”にする

ここであなたは「問題が起きても何か始めたくてもなにもするな、というの? それだと人生を放棄してるようなものじゃない?」と思うだろう。

だがそれは「やるか、やらないか」の二択しか道がみえていないからだ。

逆に教えてほしいが、不意の出来事にしろ退屈な毎日にしろ、そもそもどうして、それを”対処”しようとしたのだろう?

この問いにおいて、第三の道がみえてくる。

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