魂は永遠に転生していく

先日カフェで午後を過ごしていたとき、別の席にいたカップルが店内に行き渡るほどの口喧嘩をしていた。

痴話喧嘩でよくあるのは、相手の言葉の一部だけを切り取って、その”部分だけ”を徹底反論してるような様子にある。

いわゆる揚げ足取りのことだね。

それは結局のところ、話全体の解決を望んでいるのではなくて、自分の煮えくりかえる感情を満足させたいだけにある。

これが厄介なのは、そのような自分の感情を満足させたい人にとっては(そのカップルは彼女の方がそうだったが)その切り取った部分の解決のために、いまこうして話し合いがなされている、と思い込んでしまっていることにある。

もちろんはじめは自分が揚げ足を取ってることを自覚しているだろう。

だがその揚げ足に対する相手の返答にまた揚げ足を取っていくうちに、そもそもの本題が見失われていく。そうして彼女の論点や解決したいポイントはどんどん変化していくわけだ。

相手の発言の気に入らない部分ばかり注目しているのだから当然そうなるわけで、カフェで聞こえていた彼らの喧嘩はまさにそんな感じだった。

彼氏のほうはといえば、そうして横滑りを続ける彼女の論点を”大きな全体”のなかにみている。

しかし彼が話全体の解決(そもそもの議論の解決)を望んでも、彼女が言葉の端々しかみていないゆえ、残念ながら話がまとまることはない。

「君は部分しかみえていない」と彼女に伝えたところで、彼女は理解できないだろう。なぜなら彼女からすればそれが全体だからだ。

どのように説明されても、彼女は自分の視野の範囲での思考や理解しか働かせることができない。

つまりここに”視野”の違いがある。

彼氏からすれば、とても小さな部分が彼女の”全体”にある。

執着していた部分がやがて全体になる。その狭く小さな全体のなかで彼女はこの世をみる。

 

クローズアップのトリック

ところでゴシップを報道する週刊誌やテレビなんかがよくやることだが、起きた出来事の全体ではなく、そのなかの部分だけをクローズアップして「ほら、すごいことになってますよ」と注目を得ようとする悪しき手法がある。

部分が全体であるかのようにみせるわけだ。

そのような「事実の一部だけ」を伝える偏向報道は、最近はネット上の情報(SNSに限らずGoogleの検索結果にしても)にもよくあるので注意しなければならないが、しかしこのことが重大なのは、やり方によっては、その部分だけをみせることで実際に起きているのと真逆にみせることができるということにある。

たとえば昔の話になるけども、立ち寄った書店である写真家の写真集を何気なく開いたことがあって、そのはじめのページには、貧しい国の子どもたちが元気に駆けっこしている写真が掲載されていた。

小学校の運動会のような躍動感あふれる構図で、先頭の子が走りながら空を仰いでいる。

口は大開きで、いまにも「やったあ」という声が聞こえてきそうであり、後続の子たちもまた、転びそうになりながらも精一杯の表情で追従していた。

これを観た人は私と同じように、先頭の少年が一着を取ったシーンだと思うだろう。「おめでとう」なんて心で称えながらね。貧しい国ながらも、人間的な情緒や生きる強さを感じさせるショットとして受け取るわけだ。

ところが次のページをめくったとき、私と同じく唖然となるはずだ。

そこには同じ写真が載っていた。いや正しくは、より範囲の広い全体が写っていた。

つまりはじめの写真はその拡大であり、クローズアップだったわけだが、なにに驚いたのかといえば、それは彼らが元気に駆けっこをしているのではないということがわかったからだ。

少年たちのすぐ後ろには砲撃によって破壊された集落があり、煙や炎が上がっているなかで、たくさんの村人が血を流して倒れていた。空からは爆撃機が無差別に銃撃している。子どもたちは自分の親や兄弟を殺されて、それでもどうにか逃げようとしていた。そんな瞬間を撮った一枚だった。

なにが「おめでとう」なのか。

もし最初の拡大写真を「貧しい国にも元気がある」なんてコピーを付けられて、たとえばCMなんかで利用されたら、居たたまれない気持ちになるだろう。

 

部分は全体を逆さまにする

これは悲痛な出来事が「あたかも素晴らしいものにみえてしまう」という例だが、当然その逆もある。

本当は素晴らしいものが、悲惨にみえたり、憎しみや怒りを募らせるものとしてみえる。

つまり視野が狭いと、本当にあるものが真反対にみえてしまうことがあるわけだ。

先のカップルなら、彼女はその狭い視野によって本当はとても素晴らしい世界が、イライラする現実、つまらない現実、うんざりする現実にみえているのかもしれない、ということだね。

そしてそのようにしてクローズアップされた光景ばかりが集まったその”集大成”が「彼女の人生」となる。

部分は全体を逆さまにしたり歪めたりするが、そんな不純な寄せ集めが、彼女の人生であり、記憶となる。なによりそうした前提が敷かれているがゆえに、これから起こる出来事もその歪んだレンズを通して認識することになる。

「現実は己自身が創り出している」というひとつにはこうした原理があるわけだが、つまり原理そのものに気づいていないからこそ、独りよがりな現実に閉じ込められてしまうことになるということだ。

 

現実は”視野の範囲”にみえるもの

だから著名人の失言やスキャンダルが取り沙汰されたり、事件の被害者なのにまるで加害者のような演出で報道されたりすることがあるけども、本当にそうなのか、印象操作されているのではないか、つまりなんでも鵜呑みにすることには気をつけなければならないが、

より重大なのは、彼女のように”自分”の満足だけを求めて、その場その場の情報に流されていく「視野の狭さ」によって、それが結果的に自らの現実を自らで印象操作している状態にあるということだね。

たしかに彼女は自らの人生の権利のために、自分の主張や立場を保とうとしていた。

だがそれは、他人の言動に感情を支配されて、その不満の解消のために自分の人生を確保しようといるだけにある。結局それは彼女自身の人生ではなく、他人の人生を生きてるということだ。

さらにいえば「視野の狭さ」は必然的に災難ばかりの人生となる。

たとえば外で「すれ違い様に嘲笑された」なんて思っても、その人は別のなにかで笑っていたのかもしれない。

もちろん本当の答えはわからない。だけども大事なのはそうして”部分”だけをみて、それが全体であると錯覚している自分を慎重に眺めることにある。

なにより「すれ違い様に嘲笑された」という認識自体が、自分の”視野”においてみえているわけであるから、本当の答えがどうであるかさえ、視野が拡大したときには、どうでもよいことになる。

つまりそのような現実がそもそも出現しないんだ。

言いかえれば(その本当の意味は後段で述べるけども)私たちは”部分”として見える世界しか知ることができない。

ゆえに視野を拡大することも大切だが、より大事なのは「視野で世界をみている」という気づきであり、つまり視野の範囲でしか己の現実は存在しないのだと知ることにある。

視野の範囲はどのように決まるかといえば、話しているように”部分”への執着によって決まる。

つまり視野とは”自我”のことなんだ。

 

彼女の視野の外側にあるもの

では視野がどんどん広がっていくとき、いったい何がみえてくるのだろう? 自我が執着を手放してみえてくるものとはなんだろうか。

たとえばカップルのあの彼女が、小さな部分しかみていない自分に気づいてそれを解放したとしたら、じゃあ彼女の目の前にはなにがみえるだろう?

わかるかな?

その答えはテーブルを挟んで座っている”彼氏の姿”だ。

つまり彼女は”見失っていたもの”をみつける。

彼と出会えたあの日のことや、いろんな場所でデートしたこと、朝まで語り合ったいくつもの思い出がそこにある。彼にしてもらえたこと、サプライズのプレゼントに本当に驚いたこと、彼の優しさや嬉しかったあの気持ち、そんな”全体”がそこにある。

喧嘩の理由はほんの”小さなこと”であり、だがその小さな部分が彼女にとって、ここにある全体を覆い尽くしてしまう。そう、部分が全体を覆うという悪いマジックが起こる。

自ら放った呪いに、自らが閉じ込められてしまった。部分が全体となってしまったわけだ。

だから彼女がそのまま”小さなこと”にこだわって彼と絶縁したとして、そしてそれでもなお「彼は分からず屋で相性が合ってなかった」と自分に納得させてしまうならば、それは彼女が以前よりも「狭い世界」を生きるようになってしまったということだ。

彼女は人生の舞台である”この世”が、つまり自分の視野が狭くなったことに気づかない。

それゆえたとえば以前の彼女と同じぐらいの視野を持つ人の話が理解できない。なんだか現実離れした話に聞こえたり、綺麗事のように聞こえたりする。「この人なにいってるの?」となるわけだ。

だけども、彼女はかつて、その大きな世界で暮らしている人だった。

 

視野が最大に開かれるとき

もちろん”彼”を思い出すというのは、まだまだ狭い。もっと拡大させていくことができる。

ではあなたが自我を手放して、最大に行き渡るその光景に達したとするならば、その光景とはなんだろうといえば、まさにそれこそがあなたの人生の”全貌”なんだ。

つまり執着する自分を手放すとき、あなたはあなた自身を発見することになる。

ゆえに彼女にとって、彼との日々は彼女の人生そのものだった。

どうしてあの日彼と出会うことになり、どうして彼と暮らしたあの部屋が存在したのだろう? 

それは”彼女の人生”に描かれたひとつひとつを自ら眺めていたのであり、つまり彼女がこの人生を生み出した本当の目的がそこに示されていたんだ。

ところが彼女はどんどん”彼女自身”を見失う。やがてなにも見えない盲目の個として、一寸先さえ真っ暗闇の「得体の知れない人生」をさまよい歩いていることになる。

だから視野が拡大してどんどんみえてくる可能性や人生の豊かさ、備わってくる知識や輝かしい思い出とは、つまりあなたそのものなんだ。

あなたはあなたのなかで生きている。

だけどもあなたは自分に同一化するがゆえに、空も季節も街ゆく人々も、それがあなた自身で創り出した奇跡であることを忘れてしまう。

だから最大に視野が開いたとき、あなたがこの人生を生み出した本当の目的、つまりこの世の本当の目的がみえているということだ。

そう、いつも話す「大きな一枚の絵」だね。

 

大きな一枚の絵

仮にあなたの人生が80年だとしよう。

0歳から80歳までのすべての瞬間が「一枚の絵」に描かれている。

過去と現在と未来が一緒に描かれている。

イメージしにくいというなら、いままでの人生を振り返ってみるといいね、過去のすべてがいまここに同時にあるはずだ。

だから80年の人生のうち、いまあなたがその中間、つまり40歳だとすれば「一枚の絵」には未来がすでに描かれていることになる。

言いかえれば「一枚の絵」には、未来も過去もないということであり、つまり絵には時間が存在しない。

じゃあどうしてあなたは過去から未来へと手探りで人生を進んでいる感覚にあるのかといえば、それは”自分という視野”がとても狭いからだ。

「自分=自我」だね。

自我は”全体”を一挙に捉えることができない。

だが自我を解放するほど、あなたは時間が流れていないように感じられたり、また大きな何かを実現したとき、なにもしていないような感覚になる。

たとえば何年も前のことが、まるでついこないだのことのように思えたりしたことがあるかもしれない。

まさにその”同じ感覚”が、過去だけでなく未来にも向けられる。正しくいえば、過去も未来もなく、大きな「いま」だけがドンと在る感覚にある。

ところが視野が狭くなるほど、「いま」だけが在る感覚からは切り離されて、少しずつしか「絵」をみることができなくなる。

つまり時間という幻想(錯覚)が生ずることになる。

時間は自我の幻想であり、むしろ時間の流れこそ自我そのものにある。だから「視野」と「自我」と「時間」は同じもの、大きな一枚の絵を指でなぞっているようなものであり、ゆえに一寸先はいつも闇にある。

だけどもあなたが本当のあなた自身(つまり大きな一枚の絵そのもの)をいまここに実感しているとき、時間の流れは無用となる。

それは未来への期待や不安、過去への怒りや妬みが生ずることがなく、またどのような場所や瞬間においても、すべてが素晴らしいと感じられているようになるばかりか、後述するように、物事の解決や実現が”手順”を踏まなくてもすでにここにあるようになる。

 

その過去は本当にあったのだろうか

だがここである逆説を超えなければならない。

時間は幻想であり、時間はすでに描かれている絵のなかを移動するときにのみ生ずるのであれば、この絵そのもの、すなわち「本当のあなた自身」はいつ生まれたのだろうか。

それはまさに「いま」なんだ。

頭を少し柔らかくする必要がある。

たとえば絵のなかに過去があるということは、つまり突然絵全体が描き変わったとしても、そこに描かれている過去が、あなたは本当の過去だと思っているということになるね。

さっきの話しのとおり、いままでの何十年を振り返ってみたとき、それらは時系列になど並んでいない。テーブルの上に並べられた写真のようにすべてが並列している。

あなたはその並ぶ写真を通じて、いま自分が誰であり、趣味や特技はなんであり、家族は誰であり、住んでる家や勤務している会社がどこにあるのかを知っている。なによりその知っているとおりに、それらは”実在”する。

そしてまた、テーブルの上の写真を順番にみているとき(自我が生じているとき)、その前後関係において「良い・悪い」といった評価がその都度されるわけで、自我は幸福とか不幸とか感じるわけだが、しかし次の瞬間にテーブル全体が変わったらどうだろう?

つまりすべての写真はまったく別のものに入れ替わるわけだが、それでもあなたは、いま自分が誰であり、趣味や家族や仕事を知っている。そしてそれは実在している。

どれだけ記憶を巡らせようとも、以前のテーブルの写真を思い出すことはできない。

だってそうだね、いまテーブルに並んでいる写真が記憶のすべてなのだから。

 

解脱とは

自我はそのテーブル全体を捉えることはできない。部分的な範囲をみているのがそもそも自我の正体だからだ。

だから「テーブル全体」という作品のテーマを知ることができず、自我はそのテーブルを少しずつ体験していくしかないが、話したようにその視野の狭さにおいて、作品のテーマは真反対にみえたり、歪んでみえたりする。

ゆえに仏教であれ聖書であれ、その”修行”によって到達するのは、テーブル全体のテーマを正しくみるということに他ならない。

テーブル全体をみるというのは、これも上述したように、

──

それは未来への期待や不安、過去への怒りや妬みが生ずることがなく、またどのような場所や瞬間においても、すべてが素晴らしいと感得しているようになる。

──

なぜ素晴らしいのか?

それはあなたは不幸になるために、この世を創り出したのではないからだ。

これは日頃のあなたがよく知っていることだろう。どうにかして幸せになろうとしている。小さな幸せや大きな幸せを求め、喜びや生きる活力にあふれた人生を望んでいる。

ではなぜそれを望むのか。というより、なぜあなたは「幸せ」を知っているのだろう?

「生まれながらに不幸で、幸せだったことは一度もない」というセリフは詭弁でしかない。なぜなら、己が不幸だと”思える”のは、そもそも幸せを知っているからだ。

本当に幸せを知らないなら己が不幸だとも思えない。しかしそれは「不幸のない人生」であり、つまり「幸せな人生である」というパラドクスが開く。

つまり現状が不幸であれなんであれ、常に「幸せ」という前提の上に己は現れているということ、すなわち、幸せを体験したことがなくても、それを知っているということだ。

じゃあどうして知っているのだろう?

それは幸せを探し求めているこの世がまさに、あなたそのものであるからだ。

自我の「視野の狭さ」がここにある幸せをみえなくさせているだけなんだ。

 

魂は永遠に転生していく

ゆえに、

「隠されているものは探してもみつからない。それはすでに目の前にあり、探さないときにそれはみつかる」

そのような謎めいた格言が古代から言い古されてきた。

だから宗教修行(カルマからの解脱)というのは、あなたがあなた自身に出会うことにある。聖書で語られる”主”とは何者なのか、禅でいうところの”本来の面目”とは誰の顔なのか、ということだね。

その「本当のあなた」は未来や過去が描かれた大きな一枚の絵であり、はじまりも終わりもない。

だからあなたがあなたに出会ったとき、因果関係や宿命をまったく無視してがらりと変わるんだ。

もちろん「変わった」と気づいているのは、新しい絵のなかの記憶によって現れている自分が気づいているわけで、ゆえにその自分が「以前はこうだったけど、スピリチュアルなパワーで人生が変わった」という自覚も、新しい絵の自分がそう言っているにすぎない。

だがそうして一挙に配置される”新しい過去”がどのような内容を持っているかは、本当のあなたがどのような世界を体験したいかで決まる。

あなたは大勢のなかのひとりではない。

あなたは大勢そのものであり、つまり”一者”の記憶から、いくつかを集めてできた魂として、その魂に描かれている夢を見続けている。だから夢全体は一者の”部分”にある。

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