隣の席の客が気になるとき

人間は五感のうち
視覚だけが特に発達してきたといわれる

それは原始の時代に遡るけども
危険な猛獣の接近を
一刻も早く察知するためだった

たとえば生い茂る樹木の向こうに
ほんの少しの黄色い縞模様がみえただけで
「虎がいる」と判断できる

実際みえているのは
わすか数センチの隙間であるけども
すぐに全体像を思い浮かべられるわけだ

自律神経は交感神経モードになり
心拍数を増加させて
瞬発的に動作できるように血圧を上げる

だけどもその判断は誤りも多く
たとえば現代の私たちが
暗い通りの向こうに人影があると思い
心拍数の上昇や発汗や筋肉が硬直したりするが
実際は建物の影だったりする

もちろん道路標識にしろ
パンフレットの太文字にしろ

そうした瞬時の視覚作用
うまく利用することによって
私たちは「考える」よりも遥かに速く
意識を注意モードに変質させられるわけだ

 

物事が道路標識のようにみえる

これはまた
いわゆる高感度のアンテナともなる

たとえばあなたが車好きや
ブランド好きならば
街のなかですぐにそれを発見するだろう

難しい学術書や哲学書を読み慣れている人は
その著書特有の専門用語(ジャーゴン)を
視覚記号として読み取っている

つまりそこで足止めをされないから
すいすい読み進めていけるわけであって
むしろジャーゴンを見つけては
それを渡り歩くことで大筋を掴んでいく

その意味で語彙力というのは
ひとつの記号認知力ともいえる

外国語が理解できるときや
また特定の職業なんかのスキルが高まるとき

それは「考える」よりも速く
つまり道路標識を捉えるように
そこにあるものを瞬時に察知し
有効な判断へ結びつけられたからにあるんだ

 

「大間違い」こそ気づけない

だがもちろんそうした判断は
「無意識的なもの」であるがゆえに
誤った思い込みに気づけないという罠に
はまることになる

先入観やバイアスがこれだね

すでに自動判断された「その土台のうえ」で
ようやく思考しはじめるわけで

いわば揺れる船の上で
どうして向こうの陸地は揺れてるのだろう?と
完全に間違えた方面に向けて
その解決を探るようになってしまう

このような
まさかと思える「大間違い」にこそ
実に私たちは日常的に陥っているのであり

それゆえに人生という難問に
いつも打ちのめされる結果となっている

いくら考えても
求める答えは遥か遠くにあり
そして理不尽や怒りに満ちている

だがそもそもどうしてそれを悩んでいるのか
目を向けない限りその「満たされなさ」は
いつまでも解消しないんだ

 

魂のしくみ

いまはネットの時代けども
SNSも動画もディスプレイに映し出されて
視覚的な情報として飛び込んでくる

あなたはそこに書かれていることや
映像に一喜一憂する

たとえば知人の投稿が
「許せない」と思えたとしよう

目を疑うなんて言葉があるけども
実際に目を疑うほどの余裕
すなわち「目そのもの」を離れて
捉えている観点にあることは稀であり

ほんの数文字書かれているその文章に
瞬時のうちにひとつの帰結を見出してしまう

“記号”としてそれを認知しているんだ

そうして心を揺れ動かすほどの力が
言葉にはあるわけで
だがそれは言いかえてみれば
視覚それ自体が現実を作り出している
ということでもある

たとえばいまもこうして
あなたはこの手記を読んで
なんらかの意味をみている

だが私はまったく別の意図で
これを書いているかもしれない

あなたは白として理解しているが
私は青として書いているかもしれない

あなたにその青はわからないし
逆に私もあなたがどのように
捉えているかはわからない

ところがあなたはこの手記を読んで
人生が変わるかもしれない

仕事の面接に行ったり
仲の悪かった人と和解するかもしれない

同様に知人の投稿をみて憤慨し
長年部屋を飾っていた置物を
壊してしまうかもしれない

だが知人はそんなつもりで
書いていたのではないかもしれないわけでね

つまりある何かをきっかけに
“独自に生み出される意味性”こそが
「己の現実」であり
より正しくいえばそれこそが
私たちそれぞれの霊魂の構造なんだ

 

“そもそもの前提”に気づくこと

さてこの話で大事なところだけども

そもそも目は
木々の隙間の黄色い縞模様を
虎だと判断することにあったね

その判断が前提として刻まれ
以降は「考える」以前に
すでに敷かれている土台となる

だからその土台の上では
正しいも間違いも
はじめから確定されているのであって

“本当の意味”で
自らで人生を選択していないことになる

だからこの先何十年生きたところで
同じ土台がある限り
同じ現実が繰り返されるだけ

同じことで喜び
同じことで腹をたてる

同じことで恐怖して
同じことで満たされる

その”長年の人生経験”から
「所詮、世の中なんてこんなもんだ」と
達観するようになるけども
確かにあなたがそうならばそれはそうなんだ

しかしいったいあなたは
なにをみてきたというのだろう?

本当に”この世や人々を”
一度でもみたことがあるのだろうか

だから人間関係にしろ生き方にしろ
己のなかに敷かれた
「そもそもの前提」に注意を向ける必要がある

 

隣の席に誰がいるのか

話したように目というものは
基本的に恐れを生み出すということにある

木々の隙間にみえたものを疑い
それを自衛のための材料とする

たとえばこんな経験があるかもしれない

ファミレスやカフェで気分よく過ごしていたが
隣の席にやってきた
若者グループにあなたはパニックになる

もちろん態度に示すわけではないし
まじまじと彼らをみているわけではない

ウェイトレスに案内されてきた彼らの
ほんの一部をちらっとみただけだった

しかもそれは全身や顔ではなく
足元の靴だけかもしれない

それは若い子が履くような靴だった

だがまさに原始時代のように
木々の向こうに「黄色い縞模様」を
あなたはみてしまったんだ

心拍数は増加し血圧は上昇する

ずっと下を向いている自分を
彼らは横から覗き込んでいるように感じている

彼らが普通の会話をしているとしても
うるさく騒いでいるようにあなたは感じる

つまり彼らのすべての言動が
あなたを威嚇しているように思える

こういうときどうすればいいだろう?

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