愛する人を愛せないという呪いを解く

あなたは人生で
たくさんの人々と関わることになる

家族や学校もそうだし街や仕事など
その場だけの関わりもあるだろう

ところでどのような相手であれ
その存在を認めて受け入れること
出会いや交流を”祝福”すること

つまりを知っていなければならないと
古今東西で語られ続けてきた

たとえば愛から切り離されるから
人生は苦痛と虚しさに苛まれるのであり
愛を知るときにこそ
本当の意味の幸福をみつけることができる
そんな感じで昔から伝えられてきたわけだ

しかしこうした教理の驚くべきところは
海や時代や言語や価値観を隔てた
まったく異なる文明文化であっても
その本質が共通していることにある

むしろ愛が失われたときに
文明は滅びてきたわけでね

だから「愛」は私たち人間にとって
深い真理として君臨し続けてきたわけだが
ゆえに私たちが各々の人生でなによりも
学ばなければならない最大の課題であるんだ

 

愛をみつけられない世界

ところが身近な家族でさえ
分かり合えないというのに
いったいどうして
赤の他人を愛することができるのかとなるね

それにはまず私たちそれぞれの「」が
他者を愛することの障害に
なっていることに気づく必要がある

ここでいう「顔」とは
この現実での見かけの姿のこと
容姿だけでなく相手の印象や性格
他との比較による好き嫌いなどを含む

「顔」のために
表面的な意味にとらわれてしまい
つまり「現実上」で規定された基準に縛られて
私たちは愛を逃すことになるわけだ

 

迷路をさまよう私たち

さてこうして人間世界の法則が
あなたの自由を縛り付けているわけだが

これは人間関係だけでなく
仕事や日々の物事にしても
人生に向き合うにしても話は同じであり

「表面」を超えたものを見出すときに
一切の苦しみから解かれることになる

それは言いかえれば
この地上世界ではない別の世界を生きること
であるけども

間違えてならないのは
「顔ぶれ」はそのままで
まったく違う世界をここにみる
ということにあるんだ

キリスト教の愛や仏教の慈悲も
また他の宗教や神話で語られる「合一」とは
まさにこの感得にあるわけだね

その意味でキリストやブッダというのは
地上の法則に縛られた「個」としての私たち
つまり自我に縛られた私たちの
「永遠の理想」の象徴としてあるわけで

だがそれは同時に
どこまでも不完全な個は
(個それ自体が不完全ゆえに現れてるから)
決してキリストや仏に「なれない」という
パラドクスを示唆していることになる

じゃあ私たちは一生このまま
他者と反発しながら生きなければならないのか
本当の意味での自由を得ることはできないのか
といえば違う

ちゃんと”抜け道“はあるんだ

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