何かに価値を与えることは他のすべてを失うということ

とある夫人が客を自宅に招いたとき
50万円ほどしたという
ダイニングテーブルを
自慢気に語っていた
価値という幻想を生み出している

そのテーブルに一匹の蟻が這っていた
50万の価値がわかるはずもなく
いつもと同じように
木を登っている感覚なのだろう

価値がわからないということ
それはすべてが等価値であることを示している

だから蟻にとってすべてが財宝なんだ
空気、土、水たまり、
彼はいつも至福の世界にいる

大きな虫や動物に狙われることすら
素晴らしい
「危機」とは人間の認識にすぎない

ゆえにすべてが至福であるとき
恐怖は存在せず
思考など何の力も持たない

夫人は50万円のテーブルを磨く
傷がつかないように慎重に扱う
誰かがコーヒーをこぼすんじゃないか?
常に注意を払っている

彼女にとってそのテーブルだけが宝物
さらに高価なテーブルに会うまではね

何かにだけ特別な価値を与えることほど
愚かしいことはない

あなたを取り囲むすべてが最高なのだよ
あなたがいるから
それらがあるのだから

 

 

 

 

 


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  1. 秋桜 より:

    全ての人も等しい価値なら
    一人の人だけを特別に愛することは
    一人の人だけに特別な価値をつけたことになり
    他を失っているのですね。
    一人の人だけを愛することは幻想であり、
    幻想からさめたら、
    至福になれるのですね。

    ああ、
    この場合の愛は所有ですね。
    コメント書いててわかりました。
    ありがとうございました。

    • -自分- 涅槃 より:

      秋桜さん
      その通りだ
      多くの人々の愛とは真の愛にあらず、
      所有を意味する

      愛を求めて人々は奔走しているが
      真なる愛とは
      自分が失われることなのだ

      そこに誰かがいれば
      その誰かとの愛が起こる

      そこに街があれば
      街に愛が起こる

      つまり愛とは探して求めるものではなく
      己自身が愛となることなのだよ

  2. 愉快 より:

    きょう、歩いていたら以前喉から手が出るほどほしいと思っていた植物が道端に雑草みたいに繁殖しているのを見かけました。

    その少し離れたお宅では、同じ葉っぱをオシャレな鉢に植えて飾っていました。別のお宅では陶器の中に植えられて違った趣でそれぞれ美しい姿を見せてくれるのでした。

    その苗を欲しがっていた時「わたしはコレクターになりたいのか?違うだろ。なんでわたしの家にその鉢がなければだめなのか。そこかしこにあるじゃないか」と突然思って買い物カートに入っていた苗を買いませんでした。

    それから数年のあいだに何度もその葉っぱを見るのです。ありふれているわけでもないけど希少なわけでもない、買おうと思えばいつでも買える、近所の人にひと声かければ株分けしてもらえるかもしれないその植物が。いつでもどこにでもあるのです。

    見るたびに、あっちでもこっちでも生きてるんだなあ。見たいときに見られるんだった。嬉しいな。という気分になっていました。

    きょうはその気分がほかの人の所有物にも当てはまった感じがして楽しく道を歩きました。見ているわたしが楽しいんだからオッケー。

    ポジションなんとかのわたしがポジションなんたらの誰かと関わって笑ったりしている。持ち物もお金も意味もなくここにあって誰のものでもなければわたしのものでもない。ただ素敵な光景が広がっている。いつもの道がそうだ。

    知人がシウマイをお土産に持ってきてくれました。
    一緒に映画を見ました。

    きょうやったことってなんだっけ。

    用事がいっぱいあったはずなのに、やった気がしない。寝て起きたら夢で道を歩いていたというのを思い出しているような感じがします。

    布団が暖かい。

    ここどこなんでしょうね。おもしろいなあ。

    • -自分- 涅槃 より:

      愉快さん

      そう、普段当たり前だと思っている「ここ」に疑いを持つとき、あなたはその疑問を超えることができるようになる。

      なぜなら「ここ」とはあなたの中だからだ。あなたが外を歩いているとき、それは己の心の中を歩いている。あなたが周囲を見渡すとき、それは心の中を見渡しているのだ。

      さて、そこにはなにがある?

      美しいものや、醜いもの、楽しいことや悲しいこと、様々なものがあるだろう。あなたはこう言うかもしれない。「私がこんなに醜いものを持ってるはずがない」とね。

      だからいいかい。あなたは確かにあなただが、だがそのあなたはあなたではないのだよ。大きな心が「あなた」を通じて己の中を観ているのだ。だからあなたは守られている。守られているから、許すことができる。

      あなたが人を許すと、その人は解放される。
      あなたが出来事を受け入れると、あなたは解放される。
      すべて繋がっているということだ。

      最初は「自分」と「その他」でいい。だがその境界線がどんどん曖昧になってきたら、そのままにしておきなさい。線を引き直す必要はない。

  3. uriko より:

    今朝手を洗おうとして蛇口をひねったとき、流れ出した水道水に愛おしさと感謝をおぼえてハッとしました。
    ああ、執着と失う恐れがこんなにもそれ以外を見えなくしていたんだなと思いました。
    そしてそんな記事あったぞとダメ元で”何かに”で検索してみたら一番上にこの記事が出てきました。

    ここ数年でいろいろなものを失いました。
    一夜で失ったわけではありませんが、これじゃヨブと大差ないじゃないかと感じています。

    最後の2行(あなたがいるから〜)の意味が分からないですし、まだまだ固執しているものがたくさんなのだとは思いますが、失う素晴らしさを初めて理解した気がします。

    • 涅槃の書-自分 より:

      urikoさん

      素敵なコメントをありがとう。

      ──

      失う素晴らしさを初めて理解した気がします。

      ──

      そうだね、失う素晴らしさを知るということは、本当は何も失っていないのだと知ったということにある。

      私たちの時代は物質的な価値や数量によって豊かさを計ってしまう。物質的というのは、姿や形として存在しているもの、つまり「これ」と示せるもののことだね。

      所有物はもちろんのこと、地位やステータス、ライフスタイル、交友関係、etc.. そうした物質的なものに共通するのは、他との比較や優劣が生ずるということだ。

      つまり現代の私たちが”豊かさ”を感じるためには、物欲や名誉欲など、そうした諸々の欲望を抱くことが発端にあるのだけども、ところがそれらは他との比較や優劣が土台にある。

      無論その求めるものが「優良」だと自分が知っているからこそ、それを欲するわけなんだが、しかしその優良さとは、他者との関係において評価されているものだ。

      するとこういうことになる。

      己が欲しいと思うものは、他者が欲しいと思っているものであり、だからこそそれは素晴らしいもの、優良なものとして己の意識に観念化されている。

      言いかえれば、己の欲望とは他の人の欲望だったのであり、そしてまたその他の人の欲望もまた別の他の人の欲望だったわけだ。これは哲学史的にもよく知られた命題にある。

      さてそうして「本当は実体がなかった」ということに気づくんだが、ここで振り返ってほしいのは、そうした「これ」と示せるもの、つまり所有物、地位、ステータス、ライフスタイル、交友関係、etc.. というのは、自分を証明するアイデンティティでもあるわけで、つまり「己は何者であるか」とか「この己は何のために生きているのか」といった存在理由にある。要するに「これが私」と説明できる要素があってこそ”私”は存在できるということだ。

      ここにたとえば承認欲求の根深いところがあるわけで、しかしどこまで掘り続けてもその”根拠”がみえてこないんだね。

      つまり欲望において求めたものの集まり、また何かを欲望している自分が、まさに”自分”の中身だったんだが、話しているように欲望とは他者の欲望だったのであり、他の人や社会から認められているという(本当は実体のない)自己認識そのものだったわけだ。

      あなたがコメントをくれた手記はそのことを書いている。みてみよう。

      ──

      とある夫人が客を自宅に招いたとき
      50万円ほどしたという
      ダイニングテーブルを
      自慢気に語っていた
      価値という幻想を生み出している

      そのテーブルに一匹の蟻が這っていた
      50万の価値がわかるはずもなく
      いつもと同じように
      木を登っている感覚なのだろう

      価値がわからないということ
      それはすべてが等価値であることを示している

      だから蟻にとってすべてが財宝なんだ
      空気、土、水たまり、
      彼はいつも至福の世界にいる

      大きな虫や動物に狙われることすら
      素晴らしい
      「危機」とは人間の認識にすぎない

      ゆえにすべてが至福であるとき
      恐怖は存在せず
      思考など何の力も持たない

      夫人は50万円のテーブルを磨く
      傷がつかないように慎重に扱う
      誰かがコーヒーをこぼすんじゃないか?
      常に注意を払っている

      彼女にとってそのテーブルだけが宝物
      さらに高価なテーブルに会うまではね

      ──

      マダムと蟻を対比させていることからわかるように、人間は他者との間で生じた価値の世界で、自己自身を作り上げている。

      つまりその高価なテーブルが汚れたり傷ついたりすることは、自分が汚れたり傷ついたりするのと同じなんだ。

      もちろんそれを貶されることは許されない。自分をバカにされているのと同じだからね。ところが蟻にしてみれば、木や土の上を歩いているのと何ら違いはない。

      マダムはテーブルの価値が失われることに怯えているが、蟻は失うものなどない。

      彼女はやがて新しいテーブルに気持ちが移っていくかもしれないが、そこでもまた保身に追われる。だが蟻からすれば同じ世界があるだけだ。

      人間は「これ」と示せるもの、つまり姿や形があって、他と区別した何かに価値を見出す。

      むしろ他と区別することによって価値をみている。

      それは物や概念だけでなく、大切な相手や存在もそう。

      もちろん「他との比較なんかでうちの可愛いニャンコをみていない」というだろうし、家族や恋人についても「そんな比較などを超えた絆がある」と感じているだろう。

      それならば素晴らしいことだ。その意志が本当なら、つまり比較を超えた何かをそこにみているのならば、たとえ別れが訪れても、なにも失われていないのだと知っているからだ。

      だがそうじゃないね。別れにおいて私たちは深く悲しむ。

      そしてその悲しみはマダムのテーブルと”同じ原理”によって生じているんだ。

      というのはそれがご自慢のテーブルであれ、また愛する存在であってもそこには自己同一化があり、幸せの源泉である満ちた生命エネルギーの流れは「己とその相手とをセットにして」その内部を通じていたからだ。

      だからその片割れがなくなると、満ちたエネルギーが流れていかなくなる。その断絶が悲しみや胸の痛み、また後悔や罪責感として現れている。

      そのため、彼女にとってご自慢のテーブルが汚れたり傷ついたりすることは「本当に辛いこと」なのであり、ただそうした物の場合に立ち直りが早いのは、命ある存在とは違って別の関心へ移ることが容易だからにある。

      よって人間の満足や失望とはその対象の何かではなく、己の心の問題であり、それゆえ人間の世界では太古より「弔いの儀式」が行われてきたのだけども、その本当のところは相手を見送ることではなく、己が自分との同一化との訣別をするためのものなんだ。

      仏教ならば以下のとおりにある。

      ──

      まず存在としてその姿が消えてしまったとき、つまり諦める以外にないとき、もちろん大きな悲しみに暮れる。

      それはあなたと自然(陽の光や空気や食べ物など)が連動しているように、愛していた人との交流のなかにも「繋がれた流れ」があったからだ。

      その接続が絶たれるとき、その人へと向かっていた流れが行き場を失い、己のなかで過剰に溜まり込んでしまう。それが喪失による悲しみの重さだ。

      どの時代にもどの世界にも、愛する人を失ったときに葬いの儀式が行われる。

      それは故人のためにするのではなく、「故人のために”している”」という残された自分のため、心の整理のためにするものだ。つまり愛情の行き先を失って過剰に溜まり込んでいた「流れるもの」を、これからは別のことへと流していくことへの決定にある。

      たとえば仏教の「四十九日」は別の呼び方で「忌明け」ともいうけども、それは喪に服した期間を終える日のこと(忌が明ける日)にある。

      その日数自体に意味があるのではない。そうではなくて喪失からは必ず立ち直ることができるということであって、なぜならそれはエネルギーの外的な行き場の整理であるからだ。

      それはいたってポジティブな作業であり、たとえば形見や思い出に「良きもの」を注ぐことができる。またそれによって常に「良きもの」を受け取ることができる。流した分だけ戻ってくるからだ。それが宇宙の原理となる。

      ──

      そうして”自分との別れ”をして、エネルギーの流れを正常化したとき、つまり、「これ」という区別をこの宇宙から切り離してみていたことをやめたとき、なにも失われていないことに気づくんだ。

      だがこのことは、その大切な人やモノがまだそこにあるときから感得してなきゃならない。

      その感得がなければ、その大切な相手ではなく、自己同一化してる”自分”をみているだけであるからだ。ちょうどshiyさんのところでも話しているので引いておくよ。

      ──

      その相手ではなく”自分”をみているんだ。

      言いかえれば、どんな相手であれその人への思いに囚われているかぎり、それはずっと「ひとりだけの世界」で生きているのであって、たとえばやがてその人との別れがきたとき、これまで思いもしなかった後悔や寂しさが溢れてくるのは、まさにその孤独な世界を己が生きていたことに気づくからにある。

      つまりその人はそばにいたのに、自分はずっと壁に向かって話し続けていたようなものであって、だからその人に何かをしているつもりでいるだけで、結局は何もしてやれておらず、また逆にそんな自分と居続けていたその人のことを思えば自責の念に駆られたりもする。

      ──

      この後悔の念こそが、別れの後に押し寄せてくる痛みなのであって、つまりエネルギーの断絶を長いものにする。

      蟻は失うものを持っていない。だからといって孤独なのでもない。彼らは壁に向かって話していたりしないからだ。

      そしてそれは常に満たされているということでもある。

      このことを理解するとき、あなたが懸念している最後の二行の意味がみえてくる。

      ──

      あなたを取り囲むすべてが最高なのだよ

      あなたがいるから
      それらがあるのだから

      ──

      すべては満ちたエネルギーの現れであり、以下のあなたの感得もその充足を感じたからこそにある。

      >今朝手を洗おうとして蛇口をひねったとき、流れ出した水道水に愛おしさと感謝をおぼえてハッとしました。

      宇宙全体を満たしている充足は、その水の流れもそうであるし、あなたに湧き起きた愛おしさや感謝の気持ちもそう、するとここに二行の意味がみえてくるわけでね、

      つまり宇宙から「これ」と区別して切り出した姿形あるものに自分の存在意義をみるのではなく、そうして湧き起きてきた「形なき実感(生きてるという実感)」にこそ、あなたがここに出現している本当の目的があるということだ。

      むしろその生きてる実感が”あなた”という現象を、そしてあなたを取り囲んでいるこの世界を描いているんだね。

      それゆえ姿や形ある自分こそ空虚で「実体のない幻想」であるが、姿や形のない実感こそが実は「幻想ではない実体」だったという逆説的帰結となる。

      だから何かを得てそこに生の実感をみようとするのではなくて、その逆で、生の実感によってあらゆるすべてが現れているのだと視点を転回しなければならない。

      そのとき、得ることも失うことも同一であり、常に満ちている世界を楽しめているようになるだろう。

      たとえば話し相手と意見がぶつかったときも、その交わされる内容ではなく、そうして話し合える相手がいるという世界がここに実現していることに感謝が向けられるだろうし、”まさにそれゆえに”相手との白熱した議論を楽しめるんだ。そこには恐れや怒りといった負の要素はひとかけらもないからだ。

      同様に何かの実現のために励んでいることも成功や失敗などの結果に揺れ動くこともなくなる。

      むしろそのように平穏であるからこそ、当初の目標が実現されなくてもその積み上げたものは別の何かにつながっていくことになる。

      というのは話しているように、姿や形としてみえている世界とは、そもそもは完全なる満ちた実感の現れであり、だが形の世界で囚われてしまえば、その満ちた実感から自らで切り離されているわけで、そうなるとその不完全さにおいてすっきりしない出来事や己の不安定な感情が現世として表現される。

      だからね、目に見えた状況がどのようであれ「そもそも満ちている充足」をまず感得していることが大事であって、そこから目に見えた状況は整っていくんだ。

      ──

      ここ数年でいろいろなものを失いました。
      一夜で失ったわけではありませんが、これじゃヨブと大差ないじゃないかと感じています。

      ──

      ヨブ記のヨブは友人たちの理屈的な弁護を言い分にするのではなく、神を”受け入れた”。

      友人たちはマダムと同じだった。このすべてではなく、ある何かにだけ特別な価値を与えようとした。だがヨブはそうしなかった。

      そして彼はたくさんの富を得た。

      だがその富とは本当はなんであるのか、記述の行間から読み取ってみるといいね。

      するとそれはいつもあなたにも満ちているものだとわかるはずだ。

    • uriko より:

      返信ありがとうございます。
      大好きなヨブ記の読み方のアドバイスを自分さんに頂いたという奇跡のようなこの状況を無駄にはしたくないと、ずっとヨブ記漬けになっています。
      しっかり読んだのはもう10年以上ぶりだと思うのですが、もう出だしからハッとしました。
      ヨブが悪を遠ざけようとしていることを強調するような記述が繰り返し見られたからです。
      ヨブの苦悩は、サタンの好奇心ではなく、ヨブの悪を避けようとする心が創造したのだと思いました。
      悪を遠ざけようとするのは当たり前という思い込みがあり、そこに違和感を覚えることが出来ていませんでした。

      他にも、前半ヨブが”理解を求めている”ことを強調していること、ヨブに豊かさが戻ってきたのが友人たちのために祈った直後であったことなどにも今回初めて気づきました。

      あまりにも完璧な物語な気がして驚いています。

      そんなヨブ記漬けの日々の中で、何かを思った瞬間(何を思ったかは忘れました)、思うということもギフトだなと感じました(たまたま新しい記事がそのような内容になっていますが)。
      何もない空間にぽっと出てきた感じがして、”受け取った”という感覚があり奇跡だと思いました。何かを思えたことが嬉しく有難いと感じました。
      そして、私たちは同じ法則で結ばれている、法則を通して様々なものを受け取っている、同じ法則の中で共同して生き抜いているというような喜びと安堵を感じました。
      自分に湧いてくる気持ちをいつも見ていたいと思うようになりました。

      ”本当の富”とは自分の心だなと思います。
      見ていたらそれだけで好きになれることがたくさんあると感じ始めています。

      同じ法則が貫いているという時点でとても嬉しくなるのですが、もうひとつ、前回コメントを書き始めたときには水道水しか頭になかったのに、書き始めたらヨブ記のことを書いていたこと、自分さんにそれに触れて頂いたこと、そんな導きはどういういう原理で起こっているのか何一つピンときていません。

      あ、還りたいという切なる思いが導いてくれている気がすると、今、思いました。

      まだまだ苦労が多くて蟻さんの境地には程遠いですが、目の前に現れたものをしっかり見てさえいれば何とかなるのではないかなと思い始めました。

  4. moonriver より:

    私に頂いたコメントの本旨も、このタイトル通りのことだと思うのですが、我々は“何かに価値を与えて生きてしまっている”と言うことなんでしょうね。
    生きるという事が生存と言う価値を求める事なので、そもそもが我々は生命という衣服を着込んでいる状態となる。
    非生存の価値を犠牲にすることで生存の喜びとそれを失う悲しみが生まれる。
    生存を至上とした事によって死の恐怖が生まれる。
    古来より宗教や哲学、スピリチュアリズムではこの生死を超えた視点に立つことの重要性が説かれては居るのですが、どうしても生の視点に引き戻されてしまう。
    しかし生の視点から何かを始めると、必ず苦悩に突き落とされてしまう。つまり、全体から切り離されたような孤独や不安が押し寄せてくる。
    今の私はここまでしか踏み込めないのですが、生死を超えた視点がある事を世界は示唆している。

コメント・質疑応答

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