わたしは誰か

有名な道標だ
「わたしは誰か」

あなたが見ているとき
誰が見ているのか
あなたが味わっているとき
誰が味わっているのか

意識は常に「意識しているもの」に
焦点を合わせる
目の前のテレビが衝撃的なニュースを
放映しておれば
あなたの全意識はニュースに向かう
テレビという物体は意識しない
見えていない
その放映内容にだけ意識が向いている

そしてニュースの内容が明らかになり
あなたは
「おっと今からあれをしないといけない」
「あ~あ 仕事面倒くさい」
など思考に意識が向きだす

目の前にテレビがあるが
もうそこに意識は向いていない
テレビの方を顔は向いており
視界に入っているのに
あなたは見えていない
意識が別のこと、
ここでは「思考」に焦点を合わせたのだ

「呼吸」という文字を見れば
あなたは途端に呼吸に意識が向く

「今月の支払い」という文字を見れば
あなたは途端にそれを思い出す
そうして不安になったりする
「不安」という感情に意識を向けたのだ

音、匂い、など
そういう文字を見れば
あなたの意識はそこに向く
突然目の前のテレビが
可愛い女の子を映し出した
するとあなたの全意識がそこに向く
呼吸も音も支払いも
そこにはない

つまり
あなたの意識を向けたもの
それが世界だ

さらに言えば
常にそこに何でもあるのだ
意識が向いているか
そうでないかの違いだけ

不安という思考も
いつもそこに漂っている
不安じゃないときとは
単にそれに意識を向けていないだけ
幸福も常にそこに漂っている

繰り返すが
思考も感情も物も出来事も
すべてそこに漂っている
常に在るのだ
どれに意識を向けたか
意識を向けたときに実体化する

 

だから思考も感情も
あなたではないのだよ

この記述を映している画面は
あなたではないことを
あなたは知っているだろう
思考も感情もそれと同じ

液晶画面がそこにあったことすら
忘れていただろう

あなたの腕や手、足、肉体
それらもあなたではない
呼吸もあなたではない
意識を向けたときに
それが実体化しているだけである

ずっとそこにあったのだ

だがあなたの世界には
まだ実体化していなかった
意識を向けたときに
「あなたの世界に」実体化する

あなたの世界にまだないときも
そこにある
あなたの世界、
つまりあなたの意識している世界の外には
すべて揃っているのだよ

まるで品揃えの豊富な商店だ
なんでもある
だが今日あなたはマッチを買いに来た
だからマッチしか目に入らない
だがマッチの隣に「不安」が置いてあった
あなたは「不安」に目が留まる

あなたの体験するもののすべて
それは商店の陳列商品だ
思考すらも商品のひとつ

 

さて

ではその「あなたという肉体」を通じて
それらを見ているのは一体誰なのだろう?
もちろん、あなたもあなたではない
あなたすらも陳列商品だ

そこに意識を向けられるもの、
それはすべて商品

じゃあ意識を向けている光源とはどこだ?
どこにある?
商店を渡り歩いているあなたを
見ているのは誰だ?

あなたが見ているとき
本当は誰が見ているのか

この摩訶不思議な映画体験
それがあなたの人生という
意識世界のお話

映画の撮影現場には
スクリーンで映されるストーリー以外のもの
つまりそのシーン以外の
別のシーンで使うものが
沢山、脇に準備されている

いまは血生臭い戦闘シーンだ
そこに甘いスイーツを食べて微笑む
女子高生たちの談話はない

だけども戦闘シーンのすぐ脇に
女子高生たちの平和が置いてある

戦闘シーンが映るスクリーンが
あなたの意識世界
あなたの意識を向けたものが映っている

つまり
そんなものに
意識を向けなければいい
向いたことに気が付いたら
向けることをやめればいい

 

女の尻ばかりを追いかけてる男性は
まさに「女の尻」という桃色ストーリーが世界だ
危険もつきまとうだろう
亭主が出てきたり
性病になったり
お縄になったり
だけども
そんなことに意識を向けない限り
そうならない

犯罪者は
それが犯罪であることをわかっているから
捕まるのだ
「犯罪であること」が彼の世界で実体化する
つまり罪悪感のない行為に罪はない
そういう犯罪者は決して捕まらない
犯罪ではないからだ
自らが犯罪者であることを知らない

 

幸福なカップルが草原を笑顔で駆け巡る
踏みつぶされた草

子どもの誕生日にステーキをご馳走する
美味しさに満面の笑顔
殺された仔牛

だから犯罪も、罪もないのだ
あなたが「そう」とするから
それが「そう」なる

都合の良いメソッド
それも正しい
現に「幸福な状態」にある人は
日常に関わるすべてに
「幸福」のシールを貼る
例えば「猫と暮らせて幸せだ」
「おいしい!しあわせー!」とかね

シールを貼らなければ
ただの猫、ただの飯だ
それどころか
「なんで猫の面倒まで見なきゃならないの?」
「食べたらまた太る、嫌だなあ」
そういう「不幸」のシールすら貼ることもできる

「苦」が出てくれば
そこに同化しないこと

そして
最初からすべて用意されていることを悟る
全部そのスクリーンの脇に置いてある
これがシンクロニシティや引き寄せのカラクリだ
偶然などない
すべてのサイコロの出目は
そこに並べて置いてある

さらにあなたを通じて
一体誰が経験しているのか、
そういう「質問」を常に覚えておく

そうすればいずれ
すべてが夢物語であることに気付くだろう
夢を夢だとわかっている明晰夢に
あなたは生きていたことを知るのだ

 

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コメント・質疑応答

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  1. mmrc7 より:

    涅槃さんを知って早約一年。はじめは、1ヶ月のつもりで参加。やっと、『はぁ~?』がなくなって、ニコニコしながら読める本日。嬉しい~っ!こんな日が、やっときた。この、記事も、きっと今まで何度も何度も読んでいるのに今までと違う気持ち。
    ありがとうございます。
    また、読んでみます~。

    • 涅槃の書-自分 より:

      mmrc7さん

      すべてはあなたのなかで起きていることだ。つまり本書が理解できてきたということは、世界そのものの理解が広がったということにある。それは大きな飛躍となる。

      普段接する人々とも本書を理解しようとしたみたいにしてごらん。

      自分は何も見えていなかったのだと、すべては自分の固定観念が視界を塞いでいたのだと知るはずだ。人はそうして境界を立てて、どんどん自分の世界を狭いものにしてしまう。

      「理解する」ということはその境界の壁をどんどん外に広げていくことにある。大事なのは古い価値観に引き戻されないこと、自分を「引き戻そうとする力」を知ることだ。

      やがて壁そのものが崩落する。そのときあなたは自分が何者で、そしてここがどこであるのかを知るだろう。

      ありがとう。

  2. mmrc7 より:

    古い価値観は、すごいパワーです!
    ものの10分たってなくても戻ってしまいます!

    (まだまだ、涅槃さんの止まり木はかかせません!)
    感謝してます!ありがとうございます。

    • 涅槃の書-自分 より:

      mmrc7さん

      あなたという人格が既存の価値観の蓄積物であるから、そこから離れるためには、日常のいかなる場面においても、まったく新しい選択をし続けなければならない。

      だがそれは大変な作業というわけでもない。

      なぜなら「選択をする」という視点がある時点で、すでに離れているからだ。つまりその離れた状態を保っているだけでいいのだよ。

      やがてわかるはずだ。

      自分には「人間という社会的な存在」とそれを眺めている「精霊的なもの」が混在しているのだとね。

      精霊でありなさい。それがあなたの本性となる。

  3. mmrc7 より:

    気がつけば、いつも通りに反応しています。
    {彼はすぐにとりかかる}の見出しがすきで、大事なんだと感じて、接客なども以前の(変な)反応なしに素直にできるような進歩はあります!
    あるデザイナーの方のデザインで”difference”(違い)と単語が書いてあって、イラストがのったバックがあり、大事なんだろうな~とは感じたりもしています。(ポイントはわからずじまい)焦らず、きちんと、ひとつずつを積み重ねて生きます!

    • 涅槃の書-自分 より:

      mmrc7さん

      >接客なども以前の(変な)反応なしに素直にできるような進歩はあります!

      よいことだ。世界はただ起きるのであって、それはあなたの行為によって成されるものだ。

      たとえば、雨の日に葉は濡れている。

      葉はただ濡れているのだ。そのようでありなさい。人間は全体として起こる物事に反発するから苦悩を募らせていくのだ。

      世界に応答すること、見て見ぬ振りをしないこと。気になる何かがそこにあるとき、どうして「気になるという心が起きているのか」をよく考えてみるといい。

      それは世界があなたを通じて何かを起こそうとしているのだよ。抵抗せず流れるように生きなさい。ならばあなたはどんどん幸せになっていけるだろう。

  4. taraemusou より:

    初めまして、ラマナ・マハルシの私は誰か?からここにたどり着きました。今年の初め頃には悟ったお坊さんの所に行って話を直接聞いてみたりしていたんですが、人によってニュアンスが違うというか…言いたいことは分かるんですが教えも古いので大まかすぎてう~ん…それで?という感じで…。結局は「思考するな」ということが言いたいのかなというのが分かったんですが、でも座禅もしたくないしでどうすればいいのかよくわからず。(笑)なんだかんだあって通うのもやめ、もう外側に答えを探すのはやめよう!と私は誰かだけやっていようと思って。でも本の内容が小学生並みの頭の私にとってはとても難しく分かり辛く書かれていてこれでやり方合ってるのか?なんてまた不安になって…その繰り返しで。その前にこのサイトに偶然たどり着いていたんですがこの記事だけ読んで何か面白い事が書いてあるな~ぐらいで放置していたんです。でもじっくり読んでみたら私の知りたかった事がちゃんと書いてあるのでビックリしました…。何日もかかりましたが無料記事を読み昨日は会員登録をしました。これから少しずつ勉強していこうと思うのでよろしくお願いします。上手く文章で書くことができなくて泣きそうです…凄く時間がかかるし。これから質問をちゃんと文章にできるか問題だな…。(汗)

    • 涅槃の書-自分 より:

      taraemusouさん

      こちらこそはじめまして。本書を読む上でガイドを伝えておくよ。

      たとえばいまこうして、あなたのコメントに私は返答をしている。互いに挨拶も交わしたね。このやり取りをあなたはスマホかパソコンで見ているだろうけども、実際ここにある物理的な画面のなかに私たちがいるわけではない。

      そのガラスのディスプレイの表面をめくったところで機械基盤が現れるだけで、それは思考や感情を持っているものではない。

      じゃあ私とあなたのこのホットなやり取りはどこに生じているのだろう?

      もちろんあなたはこのように答える。「このスマホは交流するための媒介にすぎない」とね。

      じゃあ私とあなたが直接会ったとして、その目の前にいる私を解剖したら何が出てくるというのだろうか。そこには脳やら内臓やら、結局はスマホの解体と変わらない。

      同様にこのようにも考えてみよう。

      たとえばそこに小説があるとして、その本を開いてみれば、そこにはインクで印字された模様が並んでいるだけだ。それがどうしてあなたのなかに物語が浮かべて、そして感動したりするのだろう?

      また以前手記でも話したけども、星空を見上げてそこにオリオン座を発見するわけだが、なぜそれはオリオン座として見てしまうのだろうか。そこにあるのはいくつかの星だけのはずだ。

      さてこのように人間の世界とは「物質と想念」の関係、すなわちハードウェアとソフトウェアの関係にある。

      つまり人間の「営み」とは、ハードウェアに実装されたソフトウェア、そのなかで都度生成されるデータにすぎない。私とあなたが心通わせているこの「形」は、単にいまそのように見えているだけのデータでしかないというわけだ。

      だが心通わせている「温度」がある。人と関わるときには優しさや嬉しさがある。それはデータや基盤を超えた何かであるはずだ。

      それはたとえばスマホは「電気というエネルギーによって充実的に稼働する」ということに帰結がある。まずここが第一のポイントとなる。これについては後述しよう。

      そして次に、たとえばスマホがiPhoneならば、iOSという基本的なシステムソフトウェアが実装されている。AndroidスマホならばAndroid OSとなる。指でタップしたりスワイプしたりという操作はそうしたOSによって可能となる。それは様々なアプリ以前にある「根底的なルール」のようなものだ。

      あなたがスマホでカメラを操作するとき、メールを読んだり書いたりするとき、ネットを閲覧したりするとき、「OSの存在」は意識されていない。アプリとそのアプリ上で生成するデータに目を奪われているが、すべての操作のもとになっているOSは「無意識的な前提にある」わけだね。

      つまりこのOSの存在が「人間」という普遍的なフォーマットとなる。私たちの現実世界に置き換えてみれば、時代における経済や文化によって人は考え方が縛られるということにある。

      人は生後まもなく親や環境から言葉を覚えていく。それは時代の文化をOSとしてインストールされるということだ。そうして先代からの言葉を引き継いでいく。学校や友人関係、テレビ放送、そうしたものからどんどんOSはその時代特有のものとして結晶化していく。

      「現代の人間像」として普遍的な資質が敷かれ、人生における物事に対する認識や判断、価値観など、つまり何を考えようとも、何を感情に表そうにも、その普遍性に影響されたものになる。だからその意味でいえば「個性」というのは普遍性に反発するものでしかない。「真に自由」ではなく、この通常的な意味で「個的である」というのは、常に自己防衛と敵視を生み出すことになり、人生がとても疲れるものになる。

      また手記にするけども、現代の日本は西洋文化の影響下にあるわけだが、たとえばその西洋といえば14〜16世紀ごろを境に「人間」は、いまの現代的な私たちが知るフォーマットになったといえる。それまでは「個人」という概念は希薄だった。

      当時の人たちは「自分は〇〇という主人に従っている〇〇という家族の者であり、〇〇といった仕事をしている」といった具合に、何かに所属していることがアイデンティティであり、自分は常に「その他大勢」としての存在だった。もちろん主人に見捨てられたり、戦争で主人や与えてもらっていた家を失ったり、生まれながらの職業階級による差別などに耐えなければならないことはあったが、いまのような「個人的な理不尽」に苦しむことはなかった。その考え方すらなかった。

      いまのような自由な経済社会がはじまる以前の時代であり、それは封建社会とよばれていたのだけども、生まれながらに仕事や未来は確定していて、それ以外のことを考える必要はなかったわけである。いまの私たちからすればなんだか窮屈に感じられるが、だがそれはいまの私たちが違うフォーマットに生きているからだ。

      当時の人々は自分が「個人的な身振りをすること」に何の価値も意味も持っておらず、むしろそういうことをしている人がいたならば、それはまったく理解を超えた行為であり白い目でみられていた。街を歩けばすれ違う人がどのような職業であるのか一目瞭然であり、逆に何者かわからないということは、己を身の危険に晒すということでもあった。

      だから一般庶民がオシャレをするとか、個人的なライフスタイルを構築するなんてありえなかったわけだ。それはヨーロッパがキリスト教によって、各地を教会の支配下においていたことが要因となる。長らくそういう時代が続いていたわけだね。

      ところがキリスト教支配以前のギリシア思想がたまたま広まったことで、市民のあいだで価値観の解放が起こるようになった。それはそれまで信じ込んでいた世界の転覆につながった。天文学、物理学、医学、哲学、芸術など、現代の私たちの基礎となるものがこの時期に培われたことになる。

      やがて宗教改革が起きて、いよいよ庶民は「個人」を手に入れる。理性を手に入れたといってもいい。ものの見方や考え方において独立的な精神が発生し、そのおかげで自由な生き方や発想が浮かぶようになるが、逆に常に理不尽と不安、不足に見舞われるようになる。

      話が長くなってきたのでまとめておけば、本書はまずそうした「時代によって変化するソフトウェアの部分」、つまり「なぜ私たちは人間であるのかという幻想」の以前にある、「ハードウェアの存在」を教える。

      だがそのハードウェアの存在でさえも「ソフトウェアによって見えているもの」なのだ。ここが重要であって、たとえばいま私がこうして書いていることも「いまの時代」としての理解、捉え方、説明でしかない。

      つまりいま手にしているスマホに「画面」があって、それをめくれば「基盤」が見えてくるが、それらを「画面」や「基盤」として解釈しているのは「そのスマホのソフトウェアである」というダブルバインド(二重拘束)のパラドックスに気づかせることにある。

      じゃあここには何が残るのかといえば、スマホを充実的に稼働させる「エネルギーがある」ということだけなのだ。それは目に見ることができない。手に取ることでもできない。見えたり触れたりするのは、かならず「何らかの形」を介してのことになる。

      このコメントの冒頭のように、その何らかの形が「スマホ」であったり「直接顔を合わせた私の姿」であったり「本のなかに並ぶインクの模様」だったりするわけだ。

      ゆえに本書を読み進めるにあたって、

      ・すべての幻想を超えたエネルギー
      ・どうして「この幻想として」みえるのか

      この2点を頭にいれておくとよいだろう。

      「どうしてこの幻想としてみえるのか」は私たちが「なぜ人間であるのか」「なぜ苦悩するのか」といったソフトウェア部分の解明となる。

      つまり「人間というOS」の構造を知るためには、人類がどのような歴史を積み重ねてきたか(つまりOSがどのようなアップデートを重ねてきたか)、またそのOS上で発展してきた文化(これがOS上で動くアプリとなる)の数々についての考察を必要とする。

      特にいまの私たちを欲望に駆り立てたり苦しめたりする資本主義経済という巨大な統合アプリ、そしてその派生商品として生まれている「恋愛」や「将来設計」といったものを探ることで、「アプリによって制限された想念」を超越することにある。

      じゃあ世捨て人のようになるのかといえばそうではなく、数々の幻想を離れることで、自ら自由に「アプリを作り出していける」ということだ。それが自己実現というもの、創造的な人生という人間世界での根本的かつ本来的な目的となる。むしろそうでなければ、ただ苦しい世界に閉じ込められることになる。

      いまや資本主義アプリの「なか」に人間は閉じ込められているが、そもそもは逆であって文化や経済とは「人間のなかにあるもの」だ。そこに気づいて自己転回させることによって、欲望と不安に振り回される日々から脱出できるのである。

      誰もが毎日バッターボックスでヒットを打って出塁することを考えている。どうやってピッチャーの球を攻略しようとか、いまの自分の成績を向上しなけばまずいだとかね。だが「自分がなぜ野球をしているのか」ということを誰も問おうとしない。そればかりか「自分が野球をしていること」さえにも気づいていない人々も驚くほどいる。

      そうした幻想を超えてOSの領域に立つことで、それまで意識すらせず完全に無意識裏の前提として機能していた「実際的な操作そのもの(いまここに在る生き方)」に意識を定着させることができる。アプリ上に浮かべられるデータ内部の拘束に「生の表現」が支配されていたことから離れ、充実したエネルギーに限りなく近付くことができるというわけだ。

      ゆえに本書は一般的なスピリチュアルな話とは違った印象を持つことになるかもしれない。だが経済や恋愛について語るのは、それらをうまく解決するということではなく、それらが幻想であることに気づくことで逆にそれらを自在に楽しむことができるということにあるからだ。

      そうして楽しめているとき、あなたは「見えないエネルギー」とひとつになっているのである。

      やがてこの画面上で交わしている私とあなたの交流の本当の意味を知るだろう。まずはそこまでの到達として手記を道具として使うことだ。手記(に限らず人生で起こるあらゆる物事)はあなたに答えを教えているのではなく、あなたにこの宇宙の解釈を与えていることを忘れないことだ。その意味を理解するならば、生は自在となる。

    • taraemusou より:

      自分さんお返事ありがとうございます。まさかの長文で驚いております。後でじっくり理解しようと思います。とりあえず私が今挑戦している事は今ここに意識を置いておくという事です。朝起きてから寝るまでの間にできるだけ今ここで生活するようにしています。気が付いたら妄想の世界に行ってしまっているのですが…。子供の時の感覚を覚えているのですが、子供の時はこっちに自分がいるという感じがなくて目の前の世界しかありませんでした。ある日突然漫画を描き始め、そしてこういうのを描こうとか一切なく、絵を描くと同時にストーリーが出来上がっていました。中学生まではそういう事がギリギリできていたのですが、高校生になってからは全く出来なくなってしまったのです。エゴで面白いのを描こうとして考えるようになってしまったからでしょうか。目の前で出来事が勝手に展開されていく様子…こういうのが悟りで言いたい事なんじゃないのかな?って思っているんですが。

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