アーラヤ放送局が電波を配信中

街を歩いているとき
信号待ちのベントレーを見た
イギリス産の高級車だ

透き通るようなホワイトボディ、
コンチネンタルGTの新型V8モデル

運転席には20才そこそこの若者
髪は茶髪で
いわゆる時代遅れのギャル男風

あなたは即座に思う

「親に買って貰ったのだろう」
「ちょっと余裕のある田舎者かな」
「もしやオレオレ詐欺犯?」
「青年実業家かも」

さて

自由意思はあるのかないのか
つまり人生は決められているのか
スピリチュアルに没頭するほど
その「疑問」にぶち当たるようだ
本書にもよく問合せがくる

いいかい、自由意思についての疑問
それが起こっている時点で
あなたに自由はないが、
その疑問を発信している側は
常に無限の立場にある
それは自由という枠すら超えている

よって自由意思はあるのか、といえば
それを考えていることがすでに制限であり
それを忘れていることが自由なのだよ

水の中で水はあるのか?
あなたはいつもそういう状態
だから凝り固まった思考で
解決を探そうとも見つからない

 

いつも何かを受信している

だからわかりやすく記してみよう
ベントレーの話で置き換えてみようか

まず、ベントレーを見た
この時点であなたは
「ベントレー」をキャッチした
次に「透き通るようなホワイト」
続いて色情報をキャッチする

あなたが普段「自由意思が〜」という範疇は
「ベントレーがなぜ黒ではないのか」
「私は貧乏だ、金持ちにはなれないのか」
そんな思考のレベルだ
単に「ベントレーを見た」という
枠内の見解でしかない

もしあなたがベントレーを見なければ
その選択すらなく自由な意思(思考)やらで
悩むこともない

覚えておきなさい
思考ではないのだよ
あなたがその都度、何をキャッチしたかだけだ

「自由意思があるかどうか」
その思考もキャッチしているに過ぎない
確かにそこに自由はないが
そもそも自由という性質のものではない

「ベントレーがそこにある、それを見た」
このどこに自由があるかね?

「乗っているのは若者、それを見た」
どこに自由があるのだい

ここまではあなたも理解できる
ベントレーも彼も対象物だからだ
つまりモノ

食卓の上に塩と間違えて
砂糖の瓶が置いてある
そのレベルであなたは受け取れる

 

受信を引き金に妄想が起こる

だが重要なのはここからだ
あなたは彼を見て色々と思ったが
その「思ったこと」すらモノなのだよ

「きっと彼は〜」
「もしかして〜」
「いやいや〜」

ある放送局から電波が流れている
それも常時無限のチャンネルで
あらゆる電波が空間上に漂っている

無数の電波の中からベントレーを受信した
あなたはチャンネルを合わせていなかったが
実はベントレーの隣には
ハイエースが停まっていた
あなたはそれを知らない

ハイエースを受信していれば
そこに乗っていた老夫婦を受信していた
そしてあなたは故郷の爺ちゃんを思い出す
それもチャンネルだ
爺ちゃんのことを考える
「爺ちゃんのことを考えていたら
あのことを思い出した!」
それもチャンネル
だがその連鎖には関連性はないことを
覚えておきなさい
あくまでその都度の「受信」だよ

あなたがスピリチュアルを読んでいる
それも受信
「自由意思ってあるのかな?」
その思いも受信

つまりあなたは受信する側であり
受信すれば、
受信した内容を超えることはできない
喉が渇けばそうだし
目の前に置かれた本に目が向けばそうだ
それがカタチの次元というもの
形は制限を意味する
つまり
現実とはそれそのものが制限なのだよ

あなたがサッカーをプレイしながら
バットを振り回せないのと同じで
「それはそれ」と固定される
そこに入り込む限り
そのルールに従わなくてはならない

だが「放送局」という本流
そこはどんなものでも常に提供している立場
あなたがそちらに意識を置けば
自由、というよりも
無限が起こる

いまのあなたは
幸福であろうが
不幸であろうが
それは単に放送内容を
選んでいるだけなのだよ

あなたの肉体も放送内容だ

支払いの金が足りない(放送内容)
これは不幸だ、理不尽だ(放送内容)
気を病んで体調を崩す(放送内容)
すべて選択した受信なのだよ

支払い、不幸、病気

これらは連動してるのではなく
あなたが順に選んでいっているのである

「選んでいること」に関しては自由だ
そういう意味では「自由意思」だろう
なぜならば違うものを選べるからね

10万入った財布を落として
「拾った人はラッキーなヤツだ」
「俺も誰かの幸せの役に立ったな〜」と
選ぶこともできる

「明日の支払いの金が‥」
そちらを選べば、無論そうなる

サッカーをしていて
バットが振り回したければ
サッカーをやめればいい
そして野球をすればいい

だが「選ぶこと」すら
チャンネルのひとつなのだ
そこに多くの人が気付いていない
これが水の中で水を探している状態

そうではなく

「放送局であること」

これだよ
これがあなたの本質なのだよ

 

あなたが放送局だった

サッカーでも野球でも金持ちでも貧乏でも
幸福でも理不尽でも
オレオレ詐欺でも何でもなく
そのどれかを選ばなければ
ならないのではなく
あなたがそのすべてを配信しているのだ

チャンネル合わせと書いているが
つまり意識をどこに向けたかということ
意識を向ける、すらもただの表現だが
そこらにこだわっている限り
何も変わらない

あなたが放送局であることを悟ること
それが大事なのだよ
無限のチャンネルを発生している
根源としてね

そこには自由を超えて
ただ、無限の豊かさがある

そして「放送局」に意識を向け始めると
不思議なことが起こるようになる
例えば通りすがりの中年男性と目が合う

「私は彼を生み出した」
「目が合ったときに何かを感じた」
「その思いすらも生み出したもの」
「すべては受信しているのだ」

そのように受け取れるようになるとき
なぜかその中年男性が
不思議なアクションを起こす
それまで経験したことのないような
「え?」と思う展開となる
そうしてすべてが変容していく

受信者として制限されないことだ
あくまで「受信しているだけ」と
俯瞰することだよ
常に放送局を意識しておきなさい
次はどんな番組を流してくるのだろう?
そう楽しんでおきなさい

あなたは常に「何も知らされていない」のだ
それをごく当たり前に受け入れなさい
そこには幸福も不幸もない
ただ楽しいだけの世界が広がっていく

 

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  1. 岩窟王 より:

    涅槃さん、いつもありがとうございます。

    「私」が存在しない時、今まで「ずっとそこに居た存在」が浮かび上がってきて、「今」これしか存在していないというのが分かる時があります。

    この存在が放送局になる事で「私の中の世界」を変える事が出来るかもしれないと思えました。

  2. 自分 -涅槃- より:

    >>岩窟王さん

    人はね、思考が前提にあるから
    いわゆるパラドックスを超えられない

    ケーキが3つありました
    そこから5つ食べました

    これを理解しようとするから
    理不尽や不条理などの不幸が生まれる

    つまり不幸とは
    計算不能の状態のこと

    あの人は得しているのに
    なぜ私は損しているのだろう

    スッキリと計算式にならないことを追い回し
    矛盾を矛盾として受け取らないときに
    不幸が起こるのだ

    みんなはステーキを食べている
    自分は雑草を食べている

    これだけをそのまま受け取ればいいのだ
    では「受け取る」とは何か?

    それは自分のエゴを押し殺して我慢するという
    ことではない

    あるがままに委ねている状態
    つまり思考を通さない状態のことだ

    それがあなたのいう「私が存在しないとき」となる

    私が存在しないとき
    一切の「あなた」が消える
    ただ世界だけがそこにあるようになる

    多くの教えでは
    そこに留まれといわれるが
    すぐにマインドが騒ぎ出してしまう

    このまま雑草ばかり食べていたら
    栄養失調になる
    なんで自分だけこうなんだ
    どうすればステーキを食べられるのか?

    もしマインドすらも俯瞰することができれば
    その主、つまり本当のあなたは
    「あなたのいない地球上で棲息している生物たち」を
    見ている「光景そのもの」になる

    最近はどうか知らないが
    以前、テレビが深夜に放送を終えたら
    深夜の街を固定カメラで流していた
    カメラは動くこともなく
    ただ街を見据えている
    深夜だからほとんどの明かりは消えている
    ポツポツとマンションの小さな明かりが
    人の暮らしを感じさせる
    信号機があちこちで連動し
    タクシーが往来している

    そこに日頃同化している自分を見るとき
    私の中に私がいる、
    つまり私とは「光景」となる

    物理的な例えとなったが
    あなたが思考を落とすとき
    世界はそのようになる
    そのようになったとき
    私は私ではなく
    「起こり」だけがあり
    その「起こり」に反応する世界や私がいる

    多くの人が気付いてきてる
    世界は変わっていくだろう

    とても簡単なことだった

    自分が思った通りのことしか
    「起こっていなかった」のだとね

    あなたの経験や日頃の思考
    それらもすべて
    あなたがそうしたいことだけが
    そこに起こる

    右手を上にあげるぐらい簡単にね
    いや「簡単」すらもない
    それぐらい単純に
    なんでもできる、としてみなさい

    すべてはそのように起こり出すだろう

    無論、ネガティブも同じ

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