時間は水のようなもの

大昔の出来事もこれから起こる出来事も
すべて「いま」起こっている
まずはこの理解
そして遠くの場所も
その場所も
まったく同じ「ここ」だ

あなたがコンビニに弁当を買いに出掛ける
何が変化している?
靴を履いて玄関を出て道を歩く
コンビニに着いて商品をカゴに入れレジへ行く
金を払い袋をぶら下げて帰ってくる
そうしていま目の前にコンビニ弁当がある

この一連について
すべての認識は同じ場所から成されている
つまりその認識している何かは
ただ変化している風景を見ているのだ
だからどこにも動いていない

板に釘を打って
その釘にゴムを結びその先にボールを繋ぐ
ボールを引っ張って離すと
あちこちにバウンドする
だけどもゴムの支点は同じままだ
どんな場所にボールが行こうとも
支点は変わらない
それが意識の場所となる

そして時間軸

・コンビニ弁当がそこにない
・コンビニ弁当がそこにある

これらは同一空間にある
時間軸はなく
水平のラインが無限に伸びている
過去も未来も
「いま」というテーブルに並べられている

わかりやすく言えば区切りがないということ
時間に区切りを付けなければ
永遠の「いま」があるということを理解しやすい
事実、時間に区切りは付けられない
水が床に広がるように
そこに在るだけとなる

ここでの場所と時間の解説
これは「意識」の座標を表している
つまりあなたの本性だ

今日一日を振り返ったとき
色んな所へ行ったとしても
それを認識している意識はどこにも動いておらず
ただ変幻自在なその風景を見ていただけのこと
そして決して区切ることのできない時間の上にいる
つまりずっと「いま」がそこにあるということ

あなたの肉体が成長し衰えていくまで
そして死を迎えるときも
その意識は常に何も変わらず
区切りのない時間上でそれを見ている

あなたの肉体は
あなたが動かしているのではなく
すべては自然現象だったということ
それを自分自身だと思い込んでいたということ
そして日々起こる出来事
それらもただの自然現象であるということ

あなたである意識とは
ただそれらを観察しているだけということ

何もかもそのヴィジョンである
あなたが誰かと話している光景
それは「あなた」と「誰か」がいるのではなく
「あなた誰か」という一者がそこに在るのだ
すなわちあなたも誰かもいない

その発生したエネルギーを意識は察知しているだけ
もしあなたが物質としてそのエネルギーを見れば
すべては水だったことになる

そこには水しかなく
あなたはその水に対して
車やクラブ活動や異性や金や人生を見る
でも実際は水がそこにあるだけなのだよ

水がそこに在ることに
座標も時間もない
いまここだけだ

 


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